氷室家当主の氷室顕忠は書院の上座に座ると、腕を組んで咳払いをした。白髭を長くたくわえた白髪の老人は、理知的なまなざしをしている。恰幅の良い背格好、威厳のある物腰から、一目でただ者ではないことがわかる。
「最近、不審な動きがあると聞いてな。わざわざやってきたわ」
氷室家の領地は十万石。東雲国屈指の名門の大名として、東雲国の南部の沿岸ぞいに石高を広げていた。海を渡り侵入してくる敵を待ち構えるための将軍の差配だった。その海の見える小高い丘に館があり、そこから見える地平線はなだらかで美しかった。幼き氷室はその海と青い空の下で育ったのだ。
顕忠は将軍の側近として軍師の役目を退いたとはいえ、今は氷室家当主の武将。まだまだ権力を持ち、決定権の全てを握っていた。何かにつけて家督を継ぐ嫡男の屋敷に立ち寄り、今でも小言を言う。それは名門大名の跡取り息子を気にかけてのことではあったが。
「父上、ご足労をおかけしました」
氷室は、父を真っ直ぐ見て、手をついて平伏した。突飛な来訪に面倒な気持ちを隠せずにいたが、平時通りの面持ちで対応する。
いつもならば氷室が座る文机の前に、顕忠はふんぞり返っていた。今でも幼き頃の師弟関係は続いている。七十を超えた顕忠は今も軍師の師匠で、二十代後半の氷室は弟子にすぎなかった。一つ返事が遅れれば怒鳴られ、軍略に少しの不備があれば朝になるまで詰められる。それでも、氷室にとっては偉大な父からの期待として受け止めていた。
「それより、不審な動きについて教えてくれぬか。ワシから殿に何か進言できるかもしれぬ」
軍師の役目を息子に譲ってもなお、息子の役割は自分の役割だと考えているらしい。顕忠は当たり前のように氷室の任務に割り込む。氷室はその時つねに黙っていた
。氷室にとって師匠でもある父を、常に尊敬のまなざしで見ていた。幼い頃からの憧れでもあり、畏怖の対象。――超えられぬ壁。そんな父の言葉は、ありがたいた思わなければならなかったのだ。
しかし、今日の氷室はそんな父に返事をすることができない。
「………」
口を閉ざす息子を見て、顕忠は「何じゃ」と短く言う。
「どうした!? 聞こえなかったか!?」
怒号が飛び、氷室はややあって目を上げた。
「……かしこまりました」
氷室は空虚な気持ちでいっぱいになる。これでいいのだろうか。現在の軍師は自分だ。父ではないのだ。幼子の頃のように父の言うことを聞く。自分の意見や考えは持てないままだ。
(やはり、渇く……)
以前ならば何とも思わなかったものを、氷室の心の中は屈辱でいっぱいだった。いつから心が渇きはじめたのだろうか――そうだ、風花を側室として迎えてからだ。父の存在が、煙たいと感じるのは。自分は軍師として、父と並ぶ功績を立て、周りの武士たちからも信頼され、将軍からも一目を置かれている。脇目もふらず、どこまでも邁進してきた。その全てを父の言葉一つで無に帰されてしまうようで、氷室は目の前が暗くなる。
ぎゅっと握りしめた拳、少し噛んだ唇。渇いて渇いてしかたがない心――渇望。
氷室は目を上げて、父の威張る態度を見た。
この渇きは、渇望なのだ――父に勝ちたいという渇き。これまで父と同じような軍師になることが目標だった。しかし、それでは氷室の心は満たされない。父を倒して全てを得たい。その、父の持つ全ての権威を掌握したい。
――私は父よりも勝っていることを証明したい。
そうしなければ、この渇きは満たされないだろう。
氷室から夕餉を共にしようという誘いがあり、風花は緊張していた。なぜなら、父・顕忠を参席するからだ。風花にとっては義理の父親ということになる。気は進まないが、氷室の父だ。会ってみなければ失礼に当たるだろう。それに、気に入られれば戦利品の妻である風花の不安定な身の上が、少しは盤石なものになるかもしれない。
「お父様って、どんな方なのですか」
風花の髪をくしけずるたまは、少し言い淀んだ。その目に動揺の色が走っている。
「……と、とっても立派な方でございますよ」
武家の妻の正装を整える。――小袖を幾重にも重ね、その上に格式ある打掛を羽織る。髪は高く結い上げて櫛で飾り、白粉と紅で端正に整えた。
たまは風花に不備がないか入念に確認する。
「緊張します……。氷室様に似て、無口な方なのかしら」
冷や汗をかきながら、たまは苦笑いした。まさか親子とはいえ真逆の性格だとは、言えない。
「いや、旦那様よりは饒舌な方でいらっしゃいます」
「東雲の文化がよくわかりません。高津は身内が集まれば気さくに酒を飲み始めていましたから……」
風花は、鏡面で後ろ姿まで確認する。緊張が走り、背筋を伸ばした。病み上がりなのもあり、心には不安が浮かぶ。
「礼儀正しく、作法には気をつけます」
「その意気です、奥さま」
広間には低く抑えられた灯が並び、障子越しの夕闇が静かに滲んでいた。
上座には氷室顕忠、その向かいに忠頼。少し下がった位置に、風花が控えるように座している。
朱塗りの膳に、白飯が一椀。風花はおそるおそる口に白米を運ぶ。味噌仕立ての汁には豆腐と青菜が沈み、湯気がかすかに立つ。焼き物は川魚の塩焼きで、皮は香ばしい。副菜には胡麻和えの野菜と、干し大根の煮物。
香の物として塩漬けの菜葉と梅干しが添えられていた。
緊張のせいか、味を全く感じられない。正座をし、少しの粗相がないように背筋をのばし、音を立てないように、一口ずつ、ゆっくりと丁寧に食事をする。張り詰めた緊張が漂い、風花は早くこの会食が終わらないかと落ち着かない気持ちになる。
「良い妻をもらったな! 忠頼!」
突如、顕忠の大声が飛ぶ。風花は肩を震わせる。
「ありがとうございます、父上」
氷室は父の注意を風花からそらすように、父に負けない声量で返答した。親子の圧力に風花は押しつぶされてしまいそうだ。ただでさえ、体調が良くなったばかりなのに、熱が再発してしまいそうだ。
親子の鋭い視線をかいくぐるかのように、風花は味のしないおかずに箸をつける。箸を取る手つきに少し迷いながら、静かに口へ運ぶ。作法に気を遣うたび、背筋がわずかに固くなる。高津国の家族の食事風景の違いに、驚きを隠せない。
顕忠は食を進め、無駄のない所作で盃に手を伸ばした。息子もまた同じように、感情を削いだような静けさで膳に向かっている。
その間に風花だけが、微かな緊張を抱えたまま座していた。
「風花殿! 忠頼を支えるのだぞ」
顕忠の声は豪快で、悪意のない勢いに満ちている。広間の空気が一瞬だけ張り詰めた。
「は、はい!」
風花は慌てて頭を下げる。
「ワシの一番の妻も、戦で得た女だった……親子とは似るものよのう」
さらりと放たれた言葉に、風花は一瞬だけ目を瞬いた。顕忠は気にする様子もなく、盃をあおる。氷室は小さく咳払いをした。
「父上」
「何じゃ?」
「食事の席でございます」
短い一言に、顕忠は鼻を鳴らす。
「堅いことを言うな」
そして再び風花へ視線を向けた。
「コイツの母もな、元は似たような身の上じゃった。だがな、妻というものは夫を支え、家を繁栄させるものだ」
風花は言葉を探せず、ただ小さく頷いた。
「忠頼は、良くしてくれておるか?」
「は、はい……! 氷室様はとても……」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
「よそよそしい呼び方じゃな!」
顕忠の鋭利な声が広間に響く。風花は驚いて箸を取り落とした。氷室がすぐに間に入り、静かに父へ向き直る。
「父上、普段は忠頼様と呼んでおります。父上の御前だからかと」
「む……そうか」
顕忠はしぶしぶ納得したように腕を組み、ようやく盃を手に取った。風花は落とした箸をそっと拾い上げながら、息を整える。氷室だけが、変わらぬ表情でその場に座していた。
「最近、不審な動きがあると聞いてな。わざわざやってきたわ」
氷室家の領地は十万石。東雲国屈指の名門の大名として、東雲国の南部の沿岸ぞいに石高を広げていた。海を渡り侵入してくる敵を待ち構えるための将軍の差配だった。その海の見える小高い丘に館があり、そこから見える地平線はなだらかで美しかった。幼き氷室はその海と青い空の下で育ったのだ。
顕忠は将軍の側近として軍師の役目を退いたとはいえ、今は氷室家当主の武将。まだまだ権力を持ち、決定権の全てを握っていた。何かにつけて家督を継ぐ嫡男の屋敷に立ち寄り、今でも小言を言う。それは名門大名の跡取り息子を気にかけてのことではあったが。
「父上、ご足労をおかけしました」
氷室は、父を真っ直ぐ見て、手をついて平伏した。突飛な来訪に面倒な気持ちを隠せずにいたが、平時通りの面持ちで対応する。
いつもならば氷室が座る文机の前に、顕忠はふんぞり返っていた。今でも幼き頃の師弟関係は続いている。七十を超えた顕忠は今も軍師の師匠で、二十代後半の氷室は弟子にすぎなかった。一つ返事が遅れれば怒鳴られ、軍略に少しの不備があれば朝になるまで詰められる。それでも、氷室にとっては偉大な父からの期待として受け止めていた。
「それより、不審な動きについて教えてくれぬか。ワシから殿に何か進言できるかもしれぬ」
軍師の役目を息子に譲ってもなお、息子の役割は自分の役割だと考えているらしい。顕忠は当たり前のように氷室の任務に割り込む。氷室はその時つねに黙っていた
。氷室にとって師匠でもある父を、常に尊敬のまなざしで見ていた。幼い頃からの憧れでもあり、畏怖の対象。――超えられぬ壁。そんな父の言葉は、ありがたいた思わなければならなかったのだ。
しかし、今日の氷室はそんな父に返事をすることができない。
「………」
口を閉ざす息子を見て、顕忠は「何じゃ」と短く言う。
「どうした!? 聞こえなかったか!?」
怒号が飛び、氷室はややあって目を上げた。
「……かしこまりました」
氷室は空虚な気持ちでいっぱいになる。これでいいのだろうか。現在の軍師は自分だ。父ではないのだ。幼子の頃のように父の言うことを聞く。自分の意見や考えは持てないままだ。
(やはり、渇く……)
以前ならば何とも思わなかったものを、氷室の心の中は屈辱でいっぱいだった。いつから心が渇きはじめたのだろうか――そうだ、風花を側室として迎えてからだ。父の存在が、煙たいと感じるのは。自分は軍師として、父と並ぶ功績を立て、周りの武士たちからも信頼され、将軍からも一目を置かれている。脇目もふらず、どこまでも邁進してきた。その全てを父の言葉一つで無に帰されてしまうようで、氷室は目の前が暗くなる。
ぎゅっと握りしめた拳、少し噛んだ唇。渇いて渇いてしかたがない心――渇望。
氷室は目を上げて、父の威張る態度を見た。
この渇きは、渇望なのだ――父に勝ちたいという渇き。これまで父と同じような軍師になることが目標だった。しかし、それでは氷室の心は満たされない。父を倒して全てを得たい。その、父の持つ全ての権威を掌握したい。
――私は父よりも勝っていることを証明したい。
そうしなければ、この渇きは満たされないだろう。
氷室から夕餉を共にしようという誘いがあり、風花は緊張していた。なぜなら、父・顕忠を参席するからだ。風花にとっては義理の父親ということになる。気は進まないが、氷室の父だ。会ってみなければ失礼に当たるだろう。それに、気に入られれば戦利品の妻である風花の不安定な身の上が、少しは盤石なものになるかもしれない。
「お父様って、どんな方なのですか」
風花の髪をくしけずるたまは、少し言い淀んだ。その目に動揺の色が走っている。
「……と、とっても立派な方でございますよ」
武家の妻の正装を整える。――小袖を幾重にも重ね、その上に格式ある打掛を羽織る。髪は高く結い上げて櫛で飾り、白粉と紅で端正に整えた。
たまは風花に不備がないか入念に確認する。
「緊張します……。氷室様に似て、無口な方なのかしら」
冷や汗をかきながら、たまは苦笑いした。まさか親子とはいえ真逆の性格だとは、言えない。
「いや、旦那様よりは饒舌な方でいらっしゃいます」
「東雲の文化がよくわかりません。高津は身内が集まれば気さくに酒を飲み始めていましたから……」
風花は、鏡面で後ろ姿まで確認する。緊張が走り、背筋を伸ばした。病み上がりなのもあり、心には不安が浮かぶ。
「礼儀正しく、作法には気をつけます」
「その意気です、奥さま」
広間には低く抑えられた灯が並び、障子越しの夕闇が静かに滲んでいた。
上座には氷室顕忠、その向かいに忠頼。少し下がった位置に、風花が控えるように座している。
朱塗りの膳に、白飯が一椀。風花はおそるおそる口に白米を運ぶ。味噌仕立ての汁には豆腐と青菜が沈み、湯気がかすかに立つ。焼き物は川魚の塩焼きで、皮は香ばしい。副菜には胡麻和えの野菜と、干し大根の煮物。
香の物として塩漬けの菜葉と梅干しが添えられていた。
緊張のせいか、味を全く感じられない。正座をし、少しの粗相がないように背筋をのばし、音を立てないように、一口ずつ、ゆっくりと丁寧に食事をする。張り詰めた緊張が漂い、風花は早くこの会食が終わらないかと落ち着かない気持ちになる。
「良い妻をもらったな! 忠頼!」
突如、顕忠の大声が飛ぶ。風花は肩を震わせる。
「ありがとうございます、父上」
氷室は父の注意を風花からそらすように、父に負けない声量で返答した。親子の圧力に風花は押しつぶされてしまいそうだ。ただでさえ、体調が良くなったばかりなのに、熱が再発してしまいそうだ。
親子の鋭い視線をかいくぐるかのように、風花は味のしないおかずに箸をつける。箸を取る手つきに少し迷いながら、静かに口へ運ぶ。作法に気を遣うたび、背筋がわずかに固くなる。高津国の家族の食事風景の違いに、驚きを隠せない。
顕忠は食を進め、無駄のない所作で盃に手を伸ばした。息子もまた同じように、感情を削いだような静けさで膳に向かっている。
その間に風花だけが、微かな緊張を抱えたまま座していた。
「風花殿! 忠頼を支えるのだぞ」
顕忠の声は豪快で、悪意のない勢いに満ちている。広間の空気が一瞬だけ張り詰めた。
「は、はい!」
風花は慌てて頭を下げる。
「ワシの一番の妻も、戦で得た女だった……親子とは似るものよのう」
さらりと放たれた言葉に、風花は一瞬だけ目を瞬いた。顕忠は気にする様子もなく、盃をあおる。氷室は小さく咳払いをした。
「父上」
「何じゃ?」
「食事の席でございます」
短い一言に、顕忠は鼻を鳴らす。
「堅いことを言うな」
そして再び風花へ視線を向けた。
「コイツの母もな、元は似たような身の上じゃった。だがな、妻というものは夫を支え、家を繁栄させるものだ」
風花は言葉を探せず、ただ小さく頷いた。
「忠頼は、良くしてくれておるか?」
「は、はい……! 氷室様はとても……」
その瞬間、空気がわずかに変わった。
「よそよそしい呼び方じゃな!」
顕忠の鋭利な声が広間に響く。風花は驚いて箸を取り落とした。氷室がすぐに間に入り、静かに父へ向き直る。
「父上、普段は忠頼様と呼んでおります。父上の御前だからかと」
「む……そうか」
顕忠はしぶしぶ納得したように腕を組み、ようやく盃を手に取った。風花は落とした箸をそっと拾い上げながら、息を整える。氷室だけが、変わらぬ表情でその場に座していた。
