月明かりの書院。円窓から差し込む白い光が、畳を淡く照らしている。幻想的な金雲が煙のように立ち込める。しばらくして、霞のように金雲が去り、たちまち室内があらわになる。
その美しい月の光に満たされた書院には、胡蝶が幾匹も舞い、羽ばたくたびに金箔のような鱗粉が散っていった。書院の庭には四季の花がいっせいに咲き乱れ、月の光に照らされて浮かび上がっている。その花々は、満開に咲き乱れていた。
風花は、ふと我に返った。
ここは現実の世界ではない。
そう思い、襖へ手をかける。しかし、廊下へ出たはずなのに、 次の瞬間にはまた同じ書院へ戻っていた。
見慣れた円窓。 文机。 香炉。違い棚に置かれた花瓶に、小道具。掛け軸が下がっている。胡蝶がその中をひらひらと舞い踊るのが見えた。
風花は戸惑いながら、もう一度歩き出す。
しかし、どこまで行っても辿り着くのは氷室の書院だった。
(どうして……?)
不思議なのに、 怖くはなかった。
氷室の衣の匂い――沈香の香りがする。ふいに、 背後で衣擦れの音がした。
氷室がいる。
月明かりの中、 静かにこちらを見つめていた。風花は、氷室の姿を見るなりここが現実の世界ではないことを忘れてしまっていた。ただ、 彼の視線を受けるたび、 胸のざわめきが静かに凪いでいく。
「風花、……私は今どんな気持ちだと思う?」
突飛な質問に、風花は困惑する。また、あの質問だと思った。しかし風花は氷室へ歩み寄り、彼の冷たい胸にゆっくりと手を当てた。
「苦しい……」
風花も胸の重苦しさに襲われる。首から肩にかけて、重しを乗せられ、拷問に遭っているかのような苦しさだ。――風花の心の内側へ氷室が入り込んでいる。
「そうだ……私は苦しい」
長い睫毛を伏せ、筋の通った鼻は下を向く。氷室のその端正な顔立ちを風花は見上げる。
「あと……」
風花の心の中に、吹雪が吹く。冷たくて、凍てつくような寒さを感じた。
「さみしい……」
氷室の背中に腕を回す。彼は風花の腰を抱いた。
「……さみしい、か」
透き通るような氷室の瞳には風花が映し出され、捕らえて離さない。
「あと……熱い……」
風花の胸はほてり、息もできないような圧迫感と落ち着かない気持ちに責め悩まされる。
「赤黒くて……熱い。……どろっとしていて、とても苦しい」
風花の全身を焼くような熱が、氷室の胸から感じられる。思わず身をよじり、風花の呼吸は乱れた。――この気持ちを何と呼ぶのだろうか。
「……これは、恋だ」
氷室は優しくささやいた。
二人の間を胡蝶が舞う。ひらひらと舞うたびに金色の鱗粉が舞う。月明かりが差し込み、金雲が雲霞のごとく現れ、二人を包み込む。
風花は悟った。もうここから、自分は出ることはできない。氷室の胸に手を当てながら、不思議と幸せを感じていた。もうここから出なくて済むと思うと、かえって良かったと思った。この美しい月の光の書院の中で、氷室と共に添い遂げる。もう、外の世界の苦しみや悲しみに苛まれなくて良い――肩の荷が降りた気持ちになる。
胡蝶が風花の胸にとまった。
「そなたのことを愛している」
氷室はそっと風花を抱きしめた。風花はその喜びに、氷室の肩に手を回して目を閉じる。二人の境界線は溶け合って、一つになっていた。
全てこの世界は夢まぼろしのように、儚く、いつかは消え去ってしまう。悠久の時の流れの中で、怨憎会苦、愛別離苦を経験しながら人は消え去っていく。風花も、ここにいる氷室も、いつかは泡のように消えて、朝露のように跡形も残さない。それは滅んだ高津国の運命のように。
悠久の時の流れの中で、翻弄される哀れな人間たち。今は猛威をふるう東雲国も、それを恨む兄も、いつかは消え果て川の流れのように消え、人々の記憶からも忘れ去られて苔むす石塔になる。語る人もいなければ、石塔は崩れ落ち、踏み荒らされ、草葉となり、跡形も残さず消えていく。
「私も、お慕いしております」
二人は見つめ合うと、口づけをした。甘い蜜のような味がする。何度も口づけ、その味が口の中に広がっては消えていく。
どこからともなく桜花が散る。風花は柔らかな笑顔を浮かべた。この幸福な味は、生まれてはじめて味わう味。薄桃色の花びらが雪のように舞い散り、消えていく。風花と氷室は、その中で確かに想いを交わしていた。
全て無常の世だけれど、こうして今感じている恋情は、確かに存在している。この身も、心も灰となり散りゆく定め。しかし、風花と氷室の中には美しい桜花が咲いているのだ。花は散りゆくからこそ美しい。咲き散るからこそ、人はそれを心にとどめるもの。こうして人は命を連ねていく。
二人は永久に離れないように、抱き合っていた。
ハッと風花が目を開くと、目の前には天井があった。汗をかきながら身を起こすと、涼しげな朝。
一人、縁側に出て庭先を見た。すっかり体調は回復しており、身体の軽さに安堵の息が漏れる。
「夢の浮橋……。夢と知りせば覚めざらましを――」
夢かうつつかわからぬまま、風花はそっと我が身を抱きしめた。古歌の意味に思い耽り、夢の余韻に思い乱れて唇を噛んだ。
その美しい月の光に満たされた書院には、胡蝶が幾匹も舞い、羽ばたくたびに金箔のような鱗粉が散っていった。書院の庭には四季の花がいっせいに咲き乱れ、月の光に照らされて浮かび上がっている。その花々は、満開に咲き乱れていた。
風花は、ふと我に返った。
ここは現実の世界ではない。
そう思い、襖へ手をかける。しかし、廊下へ出たはずなのに、 次の瞬間にはまた同じ書院へ戻っていた。
見慣れた円窓。 文机。 香炉。違い棚に置かれた花瓶に、小道具。掛け軸が下がっている。胡蝶がその中をひらひらと舞い踊るのが見えた。
風花は戸惑いながら、もう一度歩き出す。
しかし、どこまで行っても辿り着くのは氷室の書院だった。
(どうして……?)
不思議なのに、 怖くはなかった。
氷室の衣の匂い――沈香の香りがする。ふいに、 背後で衣擦れの音がした。
氷室がいる。
月明かりの中、 静かにこちらを見つめていた。風花は、氷室の姿を見るなりここが現実の世界ではないことを忘れてしまっていた。ただ、 彼の視線を受けるたび、 胸のざわめきが静かに凪いでいく。
「風花、……私は今どんな気持ちだと思う?」
突飛な質問に、風花は困惑する。また、あの質問だと思った。しかし風花は氷室へ歩み寄り、彼の冷たい胸にゆっくりと手を当てた。
「苦しい……」
風花も胸の重苦しさに襲われる。首から肩にかけて、重しを乗せられ、拷問に遭っているかのような苦しさだ。――風花の心の内側へ氷室が入り込んでいる。
「そうだ……私は苦しい」
長い睫毛を伏せ、筋の通った鼻は下を向く。氷室のその端正な顔立ちを風花は見上げる。
「あと……」
風花の心の中に、吹雪が吹く。冷たくて、凍てつくような寒さを感じた。
「さみしい……」
氷室の背中に腕を回す。彼は風花の腰を抱いた。
「……さみしい、か」
透き通るような氷室の瞳には風花が映し出され、捕らえて離さない。
「あと……熱い……」
風花の胸はほてり、息もできないような圧迫感と落ち着かない気持ちに責め悩まされる。
「赤黒くて……熱い。……どろっとしていて、とても苦しい」
風花の全身を焼くような熱が、氷室の胸から感じられる。思わず身をよじり、風花の呼吸は乱れた。――この気持ちを何と呼ぶのだろうか。
「……これは、恋だ」
氷室は優しくささやいた。
二人の間を胡蝶が舞う。ひらひらと舞うたびに金色の鱗粉が舞う。月明かりが差し込み、金雲が雲霞のごとく現れ、二人を包み込む。
風花は悟った。もうここから、自分は出ることはできない。氷室の胸に手を当てながら、不思議と幸せを感じていた。もうここから出なくて済むと思うと、かえって良かったと思った。この美しい月の光の書院の中で、氷室と共に添い遂げる。もう、外の世界の苦しみや悲しみに苛まれなくて良い――肩の荷が降りた気持ちになる。
胡蝶が風花の胸にとまった。
「そなたのことを愛している」
氷室はそっと風花を抱きしめた。風花はその喜びに、氷室の肩に手を回して目を閉じる。二人の境界線は溶け合って、一つになっていた。
全てこの世界は夢まぼろしのように、儚く、いつかは消え去ってしまう。悠久の時の流れの中で、怨憎会苦、愛別離苦を経験しながら人は消え去っていく。風花も、ここにいる氷室も、いつかは泡のように消えて、朝露のように跡形も残さない。それは滅んだ高津国の運命のように。
悠久の時の流れの中で、翻弄される哀れな人間たち。今は猛威をふるう東雲国も、それを恨む兄も、いつかは消え果て川の流れのように消え、人々の記憶からも忘れ去られて苔むす石塔になる。語る人もいなければ、石塔は崩れ落ち、踏み荒らされ、草葉となり、跡形も残さず消えていく。
「私も、お慕いしております」
二人は見つめ合うと、口づけをした。甘い蜜のような味がする。何度も口づけ、その味が口の中に広がっては消えていく。
どこからともなく桜花が散る。風花は柔らかな笑顔を浮かべた。この幸福な味は、生まれてはじめて味わう味。薄桃色の花びらが雪のように舞い散り、消えていく。風花と氷室は、その中で確かに想いを交わしていた。
全て無常の世だけれど、こうして今感じている恋情は、確かに存在している。この身も、心も灰となり散りゆく定め。しかし、風花と氷室の中には美しい桜花が咲いているのだ。花は散りゆくからこそ美しい。咲き散るからこそ、人はそれを心にとどめるもの。こうして人は命を連ねていく。
二人は永久に離れないように、抱き合っていた。
ハッと風花が目を開くと、目の前には天井があった。汗をかきながら身を起こすと、涼しげな朝。
一人、縁側に出て庭先を見た。すっかり体調は回復しており、身体の軽さに安堵の息が漏れる。
「夢の浮橋……。夢と知りせば覚めざらましを――」
夢かうつつかわからぬまま、風花はそっと我が身を抱きしめた。古歌の意味に思い耽り、夢の余韻に思い乱れて唇を噛んだ。
