冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 たたらを踏みながら逃げ去る兄の背を見送った夜から、風花は熱を出した。最初は少し身体が重いだけだった。
 だが翌朝には起き上がれなくなり、昼には額が焼けるように熱くなっていた。侍女たちが慌ただしく出入りし、医師も呼ばれたが、熱はなかなか下がらない。
 風花は夢と現の狭間を漂った。瞼を閉じれば、兄の顔が浮かぶ。
 ――なぜだ。
 責めるような眼差し。
 あの夜、兄は確かにそう問いかけていた。故郷を滅ぼした男を守ったのか。なぜ裏切ったのか、と。

 「兄上……」

 寝台の上で呟く
 だが次の瞬間、別の顔が浮かんだ。月明かりの下で驚いたように目を見開いた氷室。
 考えるよりも先に、風花の身体は動いていた。あのまま氷室を見殺しにすることもできた。そうすれば、風花は兄と一緒にこの国から逃亡することだってできていたかもしれない。兄を裏切った。そのことに気づいた瞬間、胸が苦しくなった。熱のせいではない。
 風花は薄く目を開いた。天井がぼやけて見える。なぜ自分は飛び出したのだろう。兄の刃を前に、身体は勝手に動いた。考える暇などなかった。もし理屈で選ぶなら、兄を選ぶべきだったはずだ。血を分けた家族であり、故郷に残された唯一の肉親なのだから。父や(たみ)を殺した敵の一人なのだから。だがあの時、風花は確かに兄ではなく氷室を守った。
 ――なぜなのか。
 風花は何度も自問した。答えは一つしかなかった。
 氷室が斬られてほしくなかった。失いたくなかった。それだけだった。損得を考えたわけではない。恩義を返そうとしたわけでもない。ただ、彼を失うことがこんなにも怖かった。
 その想いに気づいた瞬間、風花は小さく息を呑んだ。

 「……ああ」

 ようやく理解した。
 自分は氷室を、兄……故郷よりも恋慕っている。
 いつからだったのかは分からない。初めて優しくされた時か。櫛を贈られた時か。月を眺めながら言葉を交わした時か。あるいはもっと前からだったのかもしれない。気づけば氷室の姿を探していた。こらから起きる戦争の無事を願っていた。もしも氷室が戦死し、次の新しい敵国の男が夫になるならば、自害をしたいほど想像できない未来だった。
 いつのまにか、氷室の姿を見ると安堵していた。家族に感じていたものとは別の、安心感。理由など説明できない。恋とは、きっとそういうものなのだろう。正しいから好きになるのではない。好きになってしまった後で、理由を探すだけなのだ。
 だが理解した途端、今度は罪悪感が押し寄せた。――兄の顔が脳裏に浮かぶ。滅ぼされた父と家臣たち。焼け落ちた城。戦で命を落とした者たち。自分は敗国の姫だ。生き残った者たちは今も苦しんでいる。その中で自分だけが敵国の軍師を想うなど許されるのか。兄は今も命を懸けて戦っている。

 ――それなのに自分は。

 「申し訳……ございません……」

 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。兄か。故郷か。それとも氷室か。
 風花の熱はさらに高くなった。夜毎に悪夢を見る。兄が血を流して倒れる夢。氷室が刃に貫かれる夢。どちらを助けようとしても間に合わない夢。
 風花はうわ言を繰り返し、幾度も目を覚ました。そのたびに誰かが額の手拭いを替えてくれていた。時には氷室の声が聞こえた気もする。だが夢だったのか現実だったのか分からない。ただ熱だけが続いた。
 三日。四日。五日。ようやく熱が下がり始めた頃には、身体はひどく痩せていた。
 窓の外では秋風が吹いている。
 風花はゆっくりと身を起こした。久しぶりに見る空は高く青かった。不思議なほど心が静かだった。悩みが消えたわけではない。兄への罪悪感も消えない。故郷を忘れたわけでもない。これから先も、その痛みは抱え続けるだろう。風花はそっと胸に手を当てた。答えだけは見つかっていた。

 ――自分はあの夜、すでに選んでいたのだ。

 兄の刃の前へ飛び出した瞬間に。氷室を守りたいと思った瞬間に。理屈ではなく、身体が先に答えを出していた。兄を見捨てたかったわけではない。故郷を捨てたかったわけでもない。ただ、自分の心が氷室を選んでしまったのだ。それならば、もう目を背けたくはなかった。
 風花は静かに目を閉じる。そして小さく息を吐いた。

 「私は……」

 言葉は驚くほど自然に口をついた。

 「氷室様について参ります」

 その先に待つものが苦しみであろうと後悔であろうと構わない。兄への想いも、故郷への罪悪感も抱えたまま生きていく。それでも、氷室の隣で生きたい。それが今の自分の望みだった。
 窓から吹き込む秋風が、熱の残る頬を優しく撫でた。

 「夫婦の(ちぎ)りは二世(にせい)の契り……まさか、私がそう思うことになるなんて」

 遠い昔に聞いた語り話がよみがえっていた。夫婦となればその縁は、今世だけではなく来世でも夫婦になる縁の深さだと……。
 秋風が落ち葉を揺らして音を鳴らす。さみしげな風の音が部屋の中まで響いていた。秋は、「飽き」に昔から例えられていた。風花のこの恋心もいつかは冷めてしまうのかもしれない。それでも今は、あの(ひと)のことが胸の灯を燃やして焦がれてしかたなかった。