冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 氷室が、風花を部屋に送り届けようとした時だった。ふと、庭の木陰に人影が動いた。氷室は盃を床に置く。ほとばしる酒が床に染みを作った。

 「何者だ……!」

 氷室が声を上げ、風花の胸がざわつく。氷室は風花を自分の背の後ろに隠した。いつも冷静沈着な氷室がいつになく焦る――観月会のため帯刀していなかったのだ。その上、酔いも回っている。戦闘には不利な状況だ。

 「曲者(くせもの)だ!! 誰かいるか!!」

 月光がその男の顔をかすかに照らす。――黒装束の男が一人、庭に立つ。男が握る白刃に、月光が反射するのが遠目からでも見えた。

 「……忍びか」

 氷室は後ずさりしながら、声をふりしぼる。
 黒装束の男は目元しか露出していなかったが、それが、再会したばかりの兄であることは、風花の目には明白だった。

 (兄上……!?)

 風花は思わず声を呑む。兄の言葉が頭によみがえる。「氷室忠頼を、殺せ」という言葉だ。

 (兄上なのね……!?)

 間違えるはずがなかった。玉響義彦だった。
 兄は刀を握りしめ、切っ先を氷室に向けて駆けてくる。その視線の先には氷室しかいない。
 風花の全身から血の気が引いた。このままでは、氷室が兄の手によって討たれてしまう。このまま氷室が討たれれば、風花が祖国の復讐の一部を果たすことができるのだ。しかし、その代わりに氷室は亡くなってしまう。氷室は敵国の軍師だが、今は夫だ。

 ――兄を選ぶか、夫を選ぶか。

 その二択が今、目の前に浮上する。
 兄の足音はほとんど聞こえなかった。獣のような素早さで距離を詰める。縁側に飛び乗り、書院の室内へと刀をふりあげる。黒装束の兄の背に浮かぶ大きな満月。その満月が一際大きく見える。抜き放たれた刃が月光を垂直に弾いて(きら)めく。

 (氷室様をお守りしなければ…!!)

 その瞬間だった。風花は氷室の身体を掴んで引っ張っていた。考えるより先に身体が動いている。

 「氷室様……お逃げください!」

 風花は、手を広げて叫びながら氷室の前に飛び出した。氷室が驚いたように振り返る。

 「風花――」

 兄の刃が振り下ろされる。ひゅっと風を裂く音が二人の耳元をかすめた。氷室が風花の肩を引き寄せ抱きかかえる。二人は縁側へ倒れ込んだ。刃は畳の縁を深く抉って止まった。

 「風花!!」

 氷室の声が響いた。

 「風花、無事か!!」

 無言のまま、兄の顔が苦痛に歪む。――なぜだ、と責めるような目だった。
 風花の胸が張り裂けそうになる。兄を裏切りたくはない。故郷を忘れたこともない。けれど――氷室が斬られる姿だけは見たくなかった。
 兄は攻撃の手をゆるめない。脇差(わきざし)(さや)を抜き、もう一度ふりかぶる。しかし、風花がそばにいるせいで狙いが定まらない。そのわずかな隙だった。

 「曲者だ!」

 廊下の奥から怒号が響く。颯手が率いる家来たちだった。足音が一斉に近づいてくる。
 兄は舌打ちした。勝機が消えたことを悟ったのだろう。今からでは討ち取れない。そのまま庭木の影へ飛び込んだ。追手が駆け込んできたときには、すでに姿は消えていた。家臣たちが周囲を警戒する声が飛び交う。しかし風花には何も聞こえなかった。ただ兄が消えた闇だけを見つめていた。
 不意に肩へ温かな手が置かれる。氷室だった。

 「怪我はないか」

 低い声だった。風花は答えられない。
 月は変わらず美しく夜空に浮かんでいる。中秋の名月だけが、誰の味方もせず静かに二人を照らしていた。