どこからともなく雁が鳴く。月下を雁の列が横切った。遠く故郷を目指すように鳴き交わしながら飛ぶその姿に、風花は思わず目を伏せた。
雁は秋になると北から来る鳥。その北の果てには、かつて自分が生まれ育った高津国がある。父がいた城。幼い頃に駆け回った庭。今はもう失われたものばかりだった。雁たちは、その空を越えてきたのだろうか。風花はもう北へは帰れない。雁のように季節が巡れば故郷へ戻れるわけではない。
風花はその姿が見えなくなるまで、静かに見送っていた。
(兄上)
ふと、氷室から気持ちがそれる。
毒薬を渡された後から、風花は不眠に悩まされている。兄の「氷室忠頼を殺せ」という声が耳に残る。そうだ。氷室は敵なのだ。故郷を滅ぼした憎むべき相手だ。けれど思い出すのは、頭を撫でてくれた手の温もりや、穏やかに名を呼ぶ声ばかりだった。兄を選べば氷室を失う。氷室を選べば兄を裏切る。どちらにも手を伸ばしたいのに、それは叶わない。心が二つに裂け、互いを引き合っているようだった。
風花は、肩を落とす。
(私に人を殺せなんて酷なことを……ましてや、敵とはいえ夫になった人を)
兄から渡された小さな包み紙ひとつが、自分の運命を変えてしまう気がしてならなかった。
「風花」
秋風が吹き、桔梗の花が音を立て揺れていた。物思いに沈んでいた風花は、慌てて顔を上げる。
「は、はい。氷室様」
「嫦娥のことは知ってるか?」
氷室は長い睫毛を伏せる。風花が「ジョウガ?」と聞き返すと、氷室は盃に映る自分の顔を眺めながら言った。
「……異国の伝説だ」
氷室は、顎に手を当てて、その透き通る瞳を風花にそそいだ。
「愛する人と別れ、月へ帰ってしまった美女の話だ」
酒気を帯びた氷室の瞳に、風花が映っている。熱を帯びた視線から、風花は目がそらせない。
「私が自分の気持ちをうまく言えるにはどうしたらいいと思う?」
風花は戸惑う。またその話題だ。――氷室の気持ちをこれまでたくさん考えてきた風花には明確な答えがある。
「まずは、自分の気持ちに気づくことが大切なのかもしれません」
「では、私が自分の気持ちがよくわかっていないとしたら、どうしたらいい?」
「それなら、誰かに推測してもらうとか」
「そうか。……では、私は今どんなことを思っていると推測する?」
秋風で氷室のやわらかな髪が揺れる。それにあわせて風花の心も、すすきのように揺れ動いた。
氷室の瞳はまっすぐに風花を捉えて離さない。その意味ありげな雰囲気に、風花はふと不思議に思った。氷室はわずに微笑んでいる。
「妻と共に月見をしている私は、今どんな気持ちか……」
「それは……」
心臓の音がうるさくて、風花はうまく言葉が出ない。
これまでの氷室の話に插入された、嫦娥の伝説。愛する人と別れ、月へ帰ってしまった美女の話。この話を氷室のような軍師が思いつきでするものだろうか。愛する人とは、月へ帰った美女とは誰のことを例えて持ち出した話なのか、見当がつく……いや見当がつかないほうが無粋だ。
氷室は、硬直する風花に向かって静かにささやいた。
「私の気持ちは?」
甘い声が耳元に落ちる。
「あ……あの、えっと、その」
風花は両手の指を絡ませながら言った。
「…………秋の月がきれいだなーとか!!」
陳腐な回答に、氷室は笑い出した。目を細めて無邪気に笑う彼は、ほんの少し少年のように見える。
(わ、笑った……!? )
初めて見る笑顔。風花はますます顔を赤くする。
(そんな顔ができるなんて、反則だわ……)
――いつも冷徹な軍師が、無邪気な少年のような笑顔になるなんて。
(ど、どうしよう……私)
酒が回ったのか、風花はめまいがしてくる。先ほどから鼓動がうるさく、氷室の視線に動揺してばかりだ。
氷室は笑いながら「ここまでにしよう」と言う。
「今宵は戻って、少し考えてみよ」
酒杯を置いて、息をついた。
「私の気持ちを、な」
雁は秋になると北から来る鳥。その北の果てには、かつて自分が生まれ育った高津国がある。父がいた城。幼い頃に駆け回った庭。今はもう失われたものばかりだった。雁たちは、その空を越えてきたのだろうか。風花はもう北へは帰れない。雁のように季節が巡れば故郷へ戻れるわけではない。
風花はその姿が見えなくなるまで、静かに見送っていた。
(兄上)
ふと、氷室から気持ちがそれる。
毒薬を渡された後から、風花は不眠に悩まされている。兄の「氷室忠頼を殺せ」という声が耳に残る。そうだ。氷室は敵なのだ。故郷を滅ぼした憎むべき相手だ。けれど思い出すのは、頭を撫でてくれた手の温もりや、穏やかに名を呼ぶ声ばかりだった。兄を選べば氷室を失う。氷室を選べば兄を裏切る。どちらにも手を伸ばしたいのに、それは叶わない。心が二つに裂け、互いを引き合っているようだった。
風花は、肩を落とす。
(私に人を殺せなんて酷なことを……ましてや、敵とはいえ夫になった人を)
兄から渡された小さな包み紙ひとつが、自分の運命を変えてしまう気がしてならなかった。
「風花」
秋風が吹き、桔梗の花が音を立て揺れていた。物思いに沈んでいた風花は、慌てて顔を上げる。
「は、はい。氷室様」
「嫦娥のことは知ってるか?」
氷室は長い睫毛を伏せる。風花が「ジョウガ?」と聞き返すと、氷室は盃に映る自分の顔を眺めながら言った。
「……異国の伝説だ」
氷室は、顎に手を当てて、その透き通る瞳を風花にそそいだ。
「愛する人と別れ、月へ帰ってしまった美女の話だ」
酒気を帯びた氷室の瞳に、風花が映っている。熱を帯びた視線から、風花は目がそらせない。
「私が自分の気持ちをうまく言えるにはどうしたらいいと思う?」
風花は戸惑う。またその話題だ。――氷室の気持ちをこれまでたくさん考えてきた風花には明確な答えがある。
「まずは、自分の気持ちに気づくことが大切なのかもしれません」
「では、私が自分の気持ちがよくわかっていないとしたら、どうしたらいい?」
「それなら、誰かに推測してもらうとか」
「そうか。……では、私は今どんなことを思っていると推測する?」
秋風で氷室のやわらかな髪が揺れる。それにあわせて風花の心も、すすきのように揺れ動いた。
氷室の瞳はまっすぐに風花を捉えて離さない。その意味ありげな雰囲気に、風花はふと不思議に思った。氷室はわずに微笑んでいる。
「妻と共に月見をしている私は、今どんな気持ちか……」
「それは……」
心臓の音がうるさくて、風花はうまく言葉が出ない。
これまでの氷室の話に插入された、嫦娥の伝説。愛する人と別れ、月へ帰ってしまった美女の話。この話を氷室のような軍師が思いつきでするものだろうか。愛する人とは、月へ帰った美女とは誰のことを例えて持ち出した話なのか、見当がつく……いや見当がつかないほうが無粋だ。
氷室は、硬直する風花に向かって静かにささやいた。
「私の気持ちは?」
甘い声が耳元に落ちる。
「あ……あの、えっと、その」
風花は両手の指を絡ませながら言った。
「…………秋の月がきれいだなーとか!!」
陳腐な回答に、氷室は笑い出した。目を細めて無邪気に笑う彼は、ほんの少し少年のように見える。
(わ、笑った……!? )
初めて見る笑顔。風花はますます顔を赤くする。
(そんな顔ができるなんて、反則だわ……)
――いつも冷徹な軍師が、無邪気な少年のような笑顔になるなんて。
(ど、どうしよう……私)
酒が回ったのか、風花はめまいがしてくる。先ほどから鼓動がうるさく、氷室の視線に動揺してばかりだ。
氷室は笑いながら「ここまでにしよう」と言う。
「今宵は戻って、少し考えてみよ」
酒杯を置いて、息をついた。
「私の気持ちを、な」
