冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 氷室の書院の円窓(えんそう)から、大きな満月が昇っていた。
 氷室は、藍鼠(あいねずみ)色の小袖に着替えていた。軍席で見せる張り詰めた姿とは違い、肩の力が抜けている。秋の夜風は肌寒く、小袖の上には薄手の羽織を重ねていた。それでも背筋だけは崩れず、長年身についた軍師の気配がどこかに残っている。

 「旦那様、奥さまがお見えです」
 「通せ」

 襖が開く。そこには、艶やかな天女のような風花が立っていた。風花は、どこか不安そうに微笑んでいる。

 「こちらへ」

 氷室は、切れ長の瞳をわずかに細めた。風花を隣へ座らせると、二人は並んで円窓の前に座り、雲間の向こうに浮かぶ月を見上げる。

 「少し、そなたとゆっくり過ごしたくてな」

 風花は気恥ずかしさを覚えながらも、横に座る。風花は不思議と氷室の近くにいることに安堵していた。
 月明かりの落ちる風花の横顔。彼女の髪には、氷室から贈られた柘植の櫛が挿してある。飾り気のない櫛だったが、丁寧に磨かれた木肌はやわらかな艶を帯び、月光を受けてほのかに光っていた。

 「その櫛を使っているのか」
 「はい」

 風花は視線に気づき、慌てて微笑んだ。

 「毎日、使わせていただいております……とても素敵な櫛で、本当に気に入りました」
 「それなら良かった」
 「ありがとうございます、氷室様」

 その言葉に、氷室の胸の奥が静かに満たされる。風花が身につけている姿を見たいと思っていた。――風花の髪を撫でたいと、強い衝動に駆られる。想像の中の彼女の髪の質感と、同じだろうかという気持ちになる。触れられそうで触れられない距離感が、じれったい。
 月明かりの中で見上げてくる風花の瞳は、どこか幼く、無防備だった。
 氷室は、そっと手を伸ばす。指先が櫛の脇をかすめ、黒髪に触れた。

 「氷室様!?」

 風花の肩がわずかに震える。だが、逃げはしなかった。氷室はそのまま、幼子を慈しむように頭を撫でた。絹糸のような髪が指の間を流れ、サラサラと深紅の衣の上に落ちていった。

 「よく似合っている」

 低い声でそう告げると、風花は頬をみるみるうちに赤く染めた。氷室の透き通るような鋭利な視線がわずかに緩んでいることに気づいた。心臓の音がうるさく、風花は自分を落ち着かせようと、下を向く。

 「……ありがとうございます」

 氷室は髪を撫でる手を止めず、ただ黙って風花の儚げな美貌を見下ろしている。
 風花は、動揺しながらも氷室の気持ちを考えていた。櫛を贈ったことも。今こうして髪に触れていることも。
 そのすべてが、氷室からの愛情なのではないのかと。――確かな言葉は二人の間にはなかったけれど、風花は氷室の瞳の奥の気持ちを悟った。

 (氷室様は、私のことが本当に好きなんだわ……)

 氷室は頭を撫でる手を止め、そのまま風花の髪をすくい、口元へと運んだ。

 「すまない。しばらく、良いか?」

 淡々とした抑揚のない声が、かすかに柔らかさを帯びていた。氷室は風花の黒髪に唇を当てて、目を伏せている。風花は耳まで赤く染めて、目を丸くした。

 「ひ、氷室様……!?」

 月は静かに二人を照らしていた。まるで、その小さな幸福を誰にも知られぬよう見守るかのように。
 風花の髪をもてあそび、満足した様子の氷室は、そっと銚子(ちょうし)を風花へ差し出した。促されるまま、風花は慣れない手つきで氷室の盃へ酒を注ぐ。
 氷室はそれをひと口含むと、静かに風花の盃に酒をそそぎ、差し出した。

 「そなたも」

 風花は、おずおずと盃を受け取る。盃の中では、月が静かに揺れていた。風花は一口だけ酒を口に含む。二人は無言のまま、盃を交わした。
 なみなみと酒をそそぎ、氷室は再び酒を飲み始める。風花が一杯目を飲み終える前に、氷室は三、四杯と酒を飲みすすめていく。ほろ酔い加減の氷室は、対面に席を移動させて、満月が浮かぶ円窓にもたれかかる。襟元をゆるめた。その様子は男性でありながら月下麗人(げっかれいじん)という名が似合うほど、耽美(たんび)だった。氷室の細長い首の喉仏は酒が通るたびに上下する。風花は酒にほとんど口をつけていないものの、雰囲気に流されて酔いが回ってくる。

 (男の人なのに、すごく綺麗だわ……)

 男性と酒を二人きりで飲むことがはじめてだったのもあり、風花は緊張を高ぶらせていた。ただでさえ、氷室からの好意に気づくことができたため、余計に挙動不審になる。良い雰囲気になったとしても、この先どうふるまったら良いかは、わからない。それに――。

 (氷室様は私のことを憎からず想ってくださってるのはなんとなくわかったわ。でも私は……? 私は氷室様のこと……)

 月は高く昇っている。高津国の月も、東雲国の月も同じように美しかった。同じ月を眺めているのに、風花をとりまく環境は全て変わってしまった。昨年の中秋の月は、まだ故郷で見上げていたのだ。

 (時の流れにまだ心が追いついていないのかもしれない……。だってやっぱり氷室様は敵で、兄上のこともある。でも、正直なところ……私は氷室様のこと、嫌いではない。いやむしろ――)

 ふと、氷室と目が合った。彼は少しだけ熱を帯びた瞳で、風花を見る。風花の青い瞳に動揺の色が走る。二人は見つめ合ったまま、互いにこう想っていた。

 ――氷室様/風花のことが、好きだ――……。

 書院から見える庭のすすきが夜風にたなびく。鈴虫の鳴き声だけが辺りに響いていた。まるで時が止まったかのようだ。心地のよい静寂の中、二人はしばらく秋の空を眺めていた。

 「……秋は良いな」

 氷室は、ほんの少しだけ鼻先を赤くしている。

 「高津は一年中冬みたいなものだったので……。東雲の秋って素敵なのですね。」
 「ああ。紅葉も見ものだ。ぜひ楽しむといい」
 「……は、はい。今度、紅葉も見てみます」

 氷室は銚子を傾け、酒杯を仰いだ。銚子がなくなると侍女に酒樽(さかだる)から柄杓(ひしゃく)で酒をすくって持ってこさせた。氷室は喉を鳴らして酒を飲んだ。その酒の飲みっぷりに、風花は驚く。氷室は繊細な見た目をしていたので下戸な印象だったが、かなりの酒豪のようだ。