冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 たまは、氷室からもらった柘植の櫛で風花の髪を結い上げる。豊かな黒髪は絹のように音を立てて風花の背中にこぼれ落ちていった。

 「奥さま、こちらをおかけくださいませ」

 たまは、香を焚きしめた小袖(こそで)の上から、そっと打掛(うちかけ)を羽織らせる。(こう)で焚きしめた良い匂いが、風花の鼻腔をくすぐる。その打掛は深紅色で、目が覚めるような赤だった。袖先には銀糸で白菊の刺繍が施されており、動くたびに光が波打つ。その見事さに、風花は息を呑んだ。
 高津国の姫ではあったが辺境の北国とは違い、東雲国の衣服は洗練されており、色鮮やかで豪華絢爛だ。

 「ねぇ、たま。これも氷室様の私への愛情なのでしょうか? この国に来てから、祖国にいた頃と変わらず姫君のように大切にしてもらえているから……」
 「そうかもしれませんね」
 「……彼は自分の気持ちがうまく言えないから、こうやって愛情を示してくれてるのですね」

 風花には美しい部屋が与えられ、着る物にも食べる物にも困らなかった。侍女たちも丁重に接した。
 だが、それは風花が大切にされているからではない。この家の主がそう命じているからに過ぎない。氷室の気持ちひとつで、その待遇は明日にも変わるかもしれなかった。実家は滅び、父も兄もいない。帰る城も、頼る一族もない。この家から追われれば、自分には行く場所がなかった。足元の地面は薄氷のように頼りない。
  風花はそっと障子を開けて、縁側に出た。
 ――中秋の名月。
 夜空には中秋の名月が静かに浮かんでいた。雲ひとつない蒼黒い空の中央で、月は磨き上げられた銀盤のように冴え冴えと輝いている。庭の薄は白く穂を揺らし、虫の音は絶えることなく草むらから流れてきた。月明かりは昼の残照にも似て、縁側や庭石を淡く照らし出す。
 風花は思わず足を止めた。故郷の城から眺めた月も、きっと今夜は同じように美しいのだろう。……しかし今は、東雲国から眺める月が美しいと感じる。

 「まぁ、奥さま、なんと美しい。月に照らされるお姿は、伝え聞く竹取(たけとり)の姫君のようでございます。ささ、旦那様がお待ちです。月へ帰られてしまう前に、旦那様の元へお送りしなければ」
 「タケトリノヒメギミ?」

 北方の辺境の高津国では聞いたことがない。

 「月から来たとても美しいお姫様のことです。昔話ですよ」

 たまは風花の手を取って、書院へ案内した。離れの廊下を歩きながら、風花は胸を高鳴らせていた。

 (氷室様が、お月見に誘ってくださった……。これは、私のことをやはり好きだということなのでしょうか)

 今宵、観月会が開かれる。それは、氷室と風花の二人きりのお月見だった。