冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 書院の奥は昼でも静まり返っていた。障子越しの光が畳の上に淡く落ち、風もほとんど入あのらない。その中で氷室は、ひとつの小箱を手にしていた。中にあるのは、女物の櫛。
 柘植(つげ)の細櫛で、歯は細く揃い、実用に堪える堅さを持ちながらも、表面は丁寧に磨き上げられている。
 地には薄く朱が刷かれ、そこへ金で流水(りゅうすい)が引かれていた。 さらにその流れの端に、小さな撫子(なでしこ)が一輪だけ描かれている。
 氷室はしばらく、それを見ていた。

 ――この櫛は、氷室自身が初めて女性のために選んで買ったものだ。

  先日、「櫛をご覧になりますかな」と、店の老人に声をかけられ、氷室は足を止める。店先には様々な櫛が並んでいた。これまで、城下町の店先……しかも女の物を売る店の前で足を止めたことはなかった。
 様々な櫛に、氷室は目を止めた。風花の豊かな黒髪が、胸の中に浮かんだのだ。どの櫛も、彼女に似合いそうなものばかりだ。蒔絵を施した豪華なもの。飾り彫りのあるもの。氷室は並んだ櫛の中から一本を手に取った。柘植の櫛。

 「おお、なんと、それはこの店一番の高級な櫛でございますぞ。その柘植は、どこのものより品の良いものです」

 氷室の手に馴染む質感だった。これならば、髪にも優しいだろう。陽の光を受けると、わずかに茶を帯びる風花の黒髪。指に絡めたことはない。それなのに、その髪がどんな感触か想像できてしまう自分に、氷室はわずかに眉をひそめた。

 ……氷室は、櫛を小箱を閉じると、侍女のたまを呼んだ。

 「これを風花へ」

 たまは一瞬だけ目を丸くしたが、すぐに丁寧に頭を下げる。

 「かしこまりました」

 氷室は、たまを見送り天井を仰ぎ見た。――あの髪飾りを日常的つけた彼女は目にするたびに思い出すだろう、贈り主のことを。風花が身につけるものの一つに、氷室の分身を埋め込むように。

 (私のものだという、(しるし))

 氷室は、彼女の全てを自分の色に染めてしまいたかった。できれば、彼女の身につけるもの全てに、自分の色を乗せたかった。しかし、あれこれと氷室が彼女の身の回りのものを整えているとなれば、かえって氷室の影響力は弱まる。櫛のような……一点に風花の心を奪えるような贈り物のほうが、その存在感は目立つし、効果的だろう。
 そして、櫛には古来、神の霊力が宿ると伝えられている。ここ最近の残党の騒ぎから、彼女を守ってもらえるように……お守りとしての意味もあった。
 
 ――その夜。
 たまは風花の部屋へ、小箱をそっと差し出した。

 「奥さま、旦那様より」

 風花は一瞬息をのんでから、箱を受け取る。
 中を開けると、柘植の櫛が静かに横たわっていた。撫子と流水紋。控えめで、けれど確かに意図のある意匠。
 風花は、嬉しさに感嘆の声を漏らした。

 「まあ……」

 ここ最近は元気のなかった風花だが、声がこぼれる。兄と毒のことについて心を悩ませていたのだ。体調が少しずつ良くなってきたのに、あの晩以来、めまいに襲われて寝込むことが増えている。
 風花は美しい櫛を両手で持ち、しばらく見つめていた。氷室からの特別な贈り物だと思うと、ことさら嬉しさがこみ上げてくる。
 それから、そっと髪へ当てる。たまが笑いながら手伝い、黒髪の中へ丁寧に差し込んだ。

 「よくお似合いです。旦那様が贈り物だなんて、とても珍しいことですよ」

 風花は少しだけ視線を落とし、小さく頷いた。――彼からの愛情を感じる。それは、深いけれど柔らかいものだ。やはり氷室は、風花に対して憎からず想っているのではないか……と、風花は憶測する。初夜や夫婦らしいことがなくても、こうしたことで氷室が自分の気持ちを表現しようとしているのではないか……そう思うと次第に考えが深みにはまっていく。彼が何を考え、何を想っているのかが気になってしかたがない。自分の気持ちがうまく言えないということは、言葉数少ない彼の態度に真意があるのではないか。
 その日から、風花はその櫛を毎日のように使うようになった。何気なく髪に触れるたび、その櫛の感触が指に残る。そのたびに、氷室のことが頭に浮かんで胸を高鳴らせた。こんな素敵な贈り物をするなんて、氷室は風花のことを嫌いではないはず、と逡巡(しゅんじゅん)する。そうして、その贈り物は、風花の生活に馴染んでいった。