冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 風花の父、高津国当主――玉響義実(たまゆらよしざね)は北国特有の豪快な気性の大男だった。氷室とは正反対の、髭面の気さくな義実。家臣を集めては宴を開き、大酒を飲む。雪深い高津国では、酒を鍋にいれて温めて、皆にふるまう。
 義実はひときわ大きな酒杯を傾けながら、大笑いしていた。

 「見よ! ワシの愛する妻と娘を!!」

 その横には、金色の髪の異民族の女がいる。
 ――風花の母、ローザ。
 ローザの青い瞳は、膝にちょこんと座る風花と同じ色をしている。
 家臣たちは義実と共に大笑いする。
 国の北部の山にいる先住民族、リスト民族。北方の民、リスト民族は、長く外縁に押し込められて生きていた。白い雪原と深い森を知り尽くし、獣を狩り、薬草を編み、風を読む。だが中央の人間たちは「粗野な辺境民」と呼び、文明の外に置いた。その言葉は、何百年も彼らの上に降り積もった。城下町では、リストの衣装を笑う者がいた。独特の文様を野蛮と呼ぶ者もいた。リスト民族は、冬至の夜には古い歌を口伝し、子らには森の名前を教え、死者には故郷の風の名を添えて送る。自然信仰の元に生きるリスト民族は、争いを好まない。
 リスト民族のローザは雪山の中で義実と出会った。金色の髪が雪の中で乱れ、青い瞳は頼りなさそうに義実を見やる。先住民族の伝統的な赤いベルベットのスカートが揺れている。雪女か……あやかしか――。 義実は、幻想的な美貌のローザを一目で見て、恋に落ちる。幾度も義実はローザの元を熱心に訪ね、アプローチした。そんな彼の姿に心動かされ、ローザも義実を愛した。ローザはリスト民族の姫で、首長の二番目の娘。先住民族と高津国は敵対していたが、二人の婚姻を機に和睦が成立した。
 義実は感情を包み隠さず表現する男だった。ローザも異国特有の大らかな愛情表現をした。
 ――宴の最中、二人が人目もわきまえず口づけする。
 家臣たちは大騒ぎをする。そんな姿を見ては、風花は夫婦ってああいうものなのだと幼心に思った。

 「仲良しだね」
 「兄上」

 腹違いの兄――正妻の嫡男、玉響義彦(たまゆらよしひこ)は、妹の頭を撫でる。義彦は父によく似た大柄な男で、これまた父譲りで武芸に秀でていた。大きな手のひらは、風花の小さな頭をすっぽりと包み込む。風花は腹違いではあるが、義彦のことを兄として慕っていたのだ。

 「兄上の母にごめんなさい」

 風花がしょんぼりすると、義彦は戸惑う。

 「え! いや……大丈夫だよ。ぼくもローザさん嫌いじゃないし」

 義彦は朗らかな心優しい兄だ。先住民族の私生児である風花のことを差別したり疎外せず、一族の姫として大切に扱っている。いくら国の当主がローザを寵愛し、リスト民族と和睦が成立したとはいえ、これまでの歴史が覆るわけではない。城の中でローザを見かけると、侮蔑的な視線を向ける者も少なくはなかった。
 しかし、ローザは明るく陽気な性格で、そんな陰湿な空気をはね返す強さがあったのだ。たびたび、高津国の女性にはない大胆さで皆を驚かせた。自ら馬に乗り、好きなところへ勝手に行くし、先住民族の伝統的な舞踊で国中を驚かせた。
 義彦は頭をかきながら、はにかんで微笑む。

 「それに……風花のことも、好きだよ」

 照れくさそうに風花も笑う。二人は、にっこりと笑いあった。 

 風花は昔の記憶に思いを馳せながら、ため息をつく。
 頭では状況をわかっているのに、気持ちが追いつかないのだ。そんな兄は、もうこの世にはいない。涙があふれてくる。気持ちが追いつくよりも先に、涙が頬を伝い落ちる。もう泣かないでよそうと決意したのに。風花は床に手をついて、呼吸を乱れさせる。そのまま、大声で泣きわめいた。
  兄上に会いたい、できることならもう一度だけ。
 ――その時、笛の音が聞こえてくる。旋律はどこか聞き覚えがあり、懐かしい気持ちになった。
 風花は顔を上げて、音の源を辿る。――宵闇の庭先から。

 (この笛の音……高津のものだわ……)

 これは高津の伝統舞踊の際に奏でられる音楽。風花はこの旋律と共によく舞った。そうだ、兄と共に。なぜこの笛の音が、敵の東雲国で流れているのか。はやる心を抑えて庭に飛び出す。

 (嘘……まさか)

 木の上で笛を吹く黒装束の男――玉響義彦。
 風花は、理解するのに時間はかからなかった。

 (兄上!!)

 覆面の奥の瞳は、風花を一瞬見る。指を口に当てて、しっと言った。風花は慌てて頷く。
 これは夢のできごとなのだろうか。討死にしたと聞いていた義彦は、五体満足で生きている。あまりの驚きに、風花はめまいを覚えた。
 そうか、討死にしたのは影武者で、義彦は手勢を連れて落ち延びたのだ。風花は、義彦にそっくりな影武者がいることを思い出した。当主嫡男として、命を狙われることは昔からあったから。
 立ち尽くす風花を前に義彦は、懐から紙の小包みを手渡した。

 「氷室忠頼を殺せ」

 思わぬ言葉に、風花は目を丸くする。氷室忠頼を殺せという言葉が深々と胸に突き刺さる。義彦が迷いなく言い捨てる様子に、風花は再び驚きを隠せない。本当に兄なのだろうか。以前のような朗らかさはなく、夜の闇のように沈んだ瞳で風花を見下ろしていた。
 風花は理由もわからず、立ち尽くす。一つ一つ、虚を突かれることばかりで、完全に思考が停止してしまっている。そんな妹の様子を見て苛立ちを隠せず、義彦は急いで、風花に受け取るように強引に手の中に小包みを握らせた。

 「毒だ」

 義彦は、それだけ言う。木によじ登り、塀を越えて、夜の中へ消えていく。
 風花はただ立ち尽くしていた。
 ――毒だ。
 頭の中で反芻し、小包みを握る手が小刻みに震えてしまった。

 「奥さま! 入ってもよろしいですか」

 廊下に控えていた颯手の大声に、風花は我に返る。小包みを懐に隠した。

 「え、ええ」

 颯手が刀に手をかけながら、部屋の中に飛び込んでくる。

 「今しがた、不審な笛の音が……。お呼びしても奥さまも反応なさらないし、いかがなさいましたか?」

 風花の心音が早まる。

 「そ……そうね、なんか変な笛の音が外から聞こえてきていたわ」
 「少し庭を調べてもよろしいですか。失礼します」

 颯手が庭先をくまなく調べている。その背後で、風花は懐に手を当てた。衣の下には毒薬がある。

 (……どうしよう)

 月は高く昇り、秋の気配が近づいていた。