冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 「忠頼、お前は氷室家の嫡男(ちゃくなん)だ。無論、俺と同じ軍師になれ!」

 父は大きく、いつも目の前に立ちはだかる。忠頼は、そんな父を仰ぎ見た。

 「ぼく…… 父上のような軍師になります」

 目を輝かせる少年。強くて立派な武人の父。
 氷室顕忠(ひむろあきただ)氷室忠頼(ひむろただより)は、絵に描いたような理想的な親子。氷室家は代々嫡男(ちゃくなん)が「忠」の字を継ぎ、当主を務める。祖先は名門武家の庶子(しょし)で、武芸をもって将軍に仕えてきた。父、顕忠の代に軍略の才を見出され、軍師として将軍の側近(そっきん)になったのだ。父、顕忠は氷室家の誉れであり、誇りだった。
 嫡男の忠頼は、そんな父を一番の師匠として尊敬している。
 幼き頃から、父の背中を見ながら、父のような軍師になることを夢見てきた。

 薄明かりの差す座敷。畳の上に低い文机がいくつも並び、墨の匂いが静かに漂う。中央には忠頼。まだ若いながらも背筋を正し、兵法書(へいほうしょ)に目を落としている。その左右には弟たち。紙をめくる音、筆を置く音だけが、とぎれとぎれに響く。

 「忠頼、貴様!! こんなこともわからぬのか!!」

 書物を開き、兵法を学べば叱られる。顕忠は、忠頼には特別厳しかった。

 「申し訳ありません……父上」
 「もう一度学び直せ!! 今晩は飯抜きだ!!」

 少しでも返答を間違えれば晩御飯抜き、睡眠抜きは当たり前。たまに父の拳が飛んできて、忠頼の頬は赤く晴れ上がる。
 そんな兄を弟たちは羨ましく思いながら、冷笑の対象にしていた。

 「父上。軍師は、兄上ではなく、ぼくがなりたいです」
 「先に生まれたからって、兄上ばかり。俺のほうが兄上よりも勝っているではないですか!」

 忠頼は弟たちの前で恥をしのぎながら、涙をぬぐった。
 忠頼は、五人兄弟の長男だった。しかし、嫡男とはいえ、性格的に豪胆なほうではない。弟たちのほうが勝ち気で戦を好む血の気の多い性格だった。一人で静かに書を読むのが好きな忠頼は、弟たちに小馬鹿にされることがある。

 ――ぼくは人の血が流れるような戦争や、競い合うのが好きなわけではない。本当は、山深い竹林の中で、隠者(いんじゃ)が心を澄ませて書を読むような穏やかな生活が送りたいんだ。

 それでも忠頼は嫡男としてふるまわなければならず、自らの弱さや繊細さを隠して生きてきた。父のような狡猾で無慈悲に敵を陥れる策略家にならなければ。嫡男たるもの、男らしく強くならなければと。

 「馬鹿者!! 武人たるもの剣が扱えなくてどうする!!」

 土砂降りの雨。庭は泥を跳ね、瓦からは滝のように水が落ちている。
 その中で、氷室家の父子は向かい合う。
 濡れた稽古着が肌に張り付き、握る木剣は雨で重い。
 息子の肩は震え、呼吸は乱れ、何度打たれても足が滑る。

 「立て」

 短い声だけが、雨音を裂く。
 息子は泥に手をつき、歯を食いしばって再び構える。雨は視界を奪い、腕の感覚を鈍らせる。それでも父の太刀は容赦なく落ちてくる。

 「剣は晴れの日のためにあるのではない」

 父の声は低い。

 「飢えた日も、寒い夜も、守るものを失いそうな時も── 振れる者だけが家を守る」

 雷鳴が遠く響く。
 少年は唇を噛み、震える足で踏み込む。未熟な一太刀。だが父は、わずかに目を細めた。

 「甘い!!」

 忠頼の全身に木刀が打ち据えられる。どんな悪天候でも、身動きが取れなくなるまでしごかれた。

 「父上……本当に、申し訳ありません」

 朝から晩まで、軍師となるための鍛錬が続く。 それは、血の滲むような日々だった。それが父の期待であり、優しさでもあるのだと――忠頼は感じていた。


 元服(げんぷく)を迎え、初陣(ういじん)の日。 忠頼は父と共に戦場へ赴いた。戦の最中、忠頼の目には常に父の姿があった。

 「さすが、天下の軍師じゃ」

 若き禍津に称賛され、名だたる武士たちからも信頼される。
 ――常に冷静に戦局を見て、盤面の駒を動かす。父の手にかかれば、敵兵はいとも簡単に操られ、崩れ落ちていく。

 布陣図の駒を動かす父。忠頼は、その端正な横顔を見つめていた。

 (まるで……戦は全て父上が掌握しているみたいだ)

 いつか、と氷室は拳を改めて握りしめる。

 (父上のような軍師にぼくもなりたい……)

 立ちはだかる父の背中は、山のようにそびえ立っていた。

 どんなに悪夢のように苦しい鍛錬の日でも、目に焼きついた父の背中を思い出すことで、忠頼は乗り切ることができた。幼き憧憬(しょうけい)の姿は、忠頼の心に深々と刻み込まれる。
 だからこそ、忠頼は心の奥底へとしまい込まねばならなかった。――自分の弱さや繊細さ、……優しさまでも。それらの忠頼の心の一部分は、鍵をかけた小箱の中にいれられた。そして、海底放りこんだのだ。決して、水面に上がってはこられないように。

 忠頼が十代の終わりを迎える頃には、柔らかな頬はそげおち、優しげな瞳は冷酷に光っていた。竹林の隠者のような生活よりも、血なまぐさい戦場に身を置く生活に慣れていった。