あの事件に悩まされた氷室は、外の空気を吸おうと思い――風花を庭散策に誘った。
夏の夕暮れ、書院の庭にはぬるい風が流れていた。縁側から続く飛び石のまわりには青々とした苔が広がり、小さな池では水面が夕焼けを揺らしている。風鈴が、ちりん――と静かに鳴った。
風花は薄藍の単衣をまとい、氷室の半歩後ろを歩く。
昼の暑さはまだ残っていたが、日が傾きはじめた庭にはわずかな涼気があった。蝉の鳴き声が響いている。
「今年の夏は、雨が少ない」
氷室が池を見ながら言う。
「はい……お庭の草木も、少し元気がないように見えます」
風花がそう答えると、氷室は静かに頷いた。以前の風花なら、氷室の隣を歩くだけで緊張していた。今は、彼の沈黙の意味を少しずつ考えるようになっていた。
氷室は、言葉の少ない人だ。風花はそっと横目で彼を見る。夕暮れの光を受けた横顔は静かで、美しかった。自分の気持ちをうまく言えないとおっしゃっていたが――氷室様は、いつも何を考えておられるのだろう。
「……どうした」
不意に氷室が視線だけを向ける。風花は小さく肩を揺らした。
「い、いえ……氷室様の気持ちを考えていました。今、どんなお気持ちなのかなと」
「そうか」
風花は少し迷ったあと、口を開く。
「氷室様がご自分の気持ちをうまく言えるようになるためには、どうしたらよいのか考えているんですけど……」
氷室は足を止めた。蝉の声だけが遠く響いている。
「氷室様のことを、私はよく知らないから……」
「……そうか」
氷室はしばらく何も答えなかった。
やがて池の水面へ目を落とし、低く言う。
「そのうちわかる」
それだけ言って、また歩き出す。
少ししてから、ぽつりと続けた。
「……ずっと屋敷にいるだけでは、気が塞ぐだろう」
氷室は前を向いたまま、風花を見ない。
「だから、こうして庭を歩く時間を作った」
その言い方は不器用だったが、確かに気遣いだった。風花は少しだけ目を見開き、それから小さく笑う。
「……ありがとうございます、氷室様」
夕暮れの庭に、ふたりの足音だけが静かに重なっていった。
「まだ少し、涼まないか?」
侍女は桶へ井戸水を張り、風花に足を浸すよう勧めた。
冷水に触れた瞬間、火照っていた身体から熱が引いていく。蒸し暑さの残る夕暮れ時、二人はそこに足をいれて縁側に座った。暑さに慣れていない風花にとって、初めて触れる文化だ。
「先ほど、私のことがわからないと言っていたな」
「はい」
氷室は涼しげな瞳を夕焼けに向けた。風花が足を動かすたび、桶の水面は光を反射する。
「……簡単に言えば、私は父親の写しみたいなものだ」
「写し……?」
「ああ、私の父上も軍師でな。小さな頃から私は父上のような軍師になることが定められていた」
風花は言葉数の多い氷室の様子に驚きながら、足の動きを止めた。
「私も父上を尊敬していたし、今でも父上のようになりたいと思っている」
「そ、そうだったんですね……」
「父上のような軍師になる。その目標に、私は脇目も振らずに邁進してきた」
氷室は目を伏せる。
「そういう男だ」
夏の夕暮れ、書院の庭にはぬるい風が流れていた。縁側から続く飛び石のまわりには青々とした苔が広がり、小さな池では水面が夕焼けを揺らしている。風鈴が、ちりん――と静かに鳴った。
風花は薄藍の単衣をまとい、氷室の半歩後ろを歩く。
昼の暑さはまだ残っていたが、日が傾きはじめた庭にはわずかな涼気があった。蝉の鳴き声が響いている。
「今年の夏は、雨が少ない」
氷室が池を見ながら言う。
「はい……お庭の草木も、少し元気がないように見えます」
風花がそう答えると、氷室は静かに頷いた。以前の風花なら、氷室の隣を歩くだけで緊張していた。今は、彼の沈黙の意味を少しずつ考えるようになっていた。
氷室は、言葉の少ない人だ。風花はそっと横目で彼を見る。夕暮れの光を受けた横顔は静かで、美しかった。自分の気持ちをうまく言えないとおっしゃっていたが――氷室様は、いつも何を考えておられるのだろう。
「……どうした」
不意に氷室が視線だけを向ける。風花は小さく肩を揺らした。
「い、いえ……氷室様の気持ちを考えていました。今、どんなお気持ちなのかなと」
「そうか」
風花は少し迷ったあと、口を開く。
「氷室様がご自分の気持ちをうまく言えるようになるためには、どうしたらよいのか考えているんですけど……」
氷室は足を止めた。蝉の声だけが遠く響いている。
「氷室様のことを、私はよく知らないから……」
「……そうか」
氷室はしばらく何も答えなかった。
やがて池の水面へ目を落とし、低く言う。
「そのうちわかる」
それだけ言って、また歩き出す。
少ししてから、ぽつりと続けた。
「……ずっと屋敷にいるだけでは、気が塞ぐだろう」
氷室は前を向いたまま、風花を見ない。
「だから、こうして庭を歩く時間を作った」
その言い方は不器用だったが、確かに気遣いだった。風花は少しだけ目を見開き、それから小さく笑う。
「……ありがとうございます、氷室様」
夕暮れの庭に、ふたりの足音だけが静かに重なっていった。
「まだ少し、涼まないか?」
侍女は桶へ井戸水を張り、風花に足を浸すよう勧めた。
冷水に触れた瞬間、火照っていた身体から熱が引いていく。蒸し暑さの残る夕暮れ時、二人はそこに足をいれて縁側に座った。暑さに慣れていない風花にとって、初めて触れる文化だ。
「先ほど、私のことがわからないと言っていたな」
「はい」
氷室は涼しげな瞳を夕焼けに向けた。風花が足を動かすたび、桶の水面は光を反射する。
「……簡単に言えば、私は父親の写しみたいなものだ」
「写し……?」
「ああ、私の父上も軍師でな。小さな頃から私は父上のような軍師になることが定められていた」
風花は言葉数の多い氷室の様子に驚きながら、足の動きを止めた。
「私も父上を尊敬していたし、今でも父上のようになりたいと思っている」
「そ、そうだったんですね……」
「父上のような軍師になる。その目標に、私は脇目も振らずに邁進してきた」
氷室は目を伏せる。
「そういう男だ」
