冷徹軍師は敗国姫を手放さない

 黒装束の男は、宵闇を音もなく進んでいた。男の足は、氷室邸の近くで止まる。
 この東雲国の軍師、氷室忠頼。――天下の策略家。
 男は物陰の中で氷室邸を観察する。垣根は高く、門構えは強固だ。門番、警固兵は張り巡らされ、侵入できる隙はない。

 「風花……」

 瞳が、わずかに緩む。

 「あと少し、待っていなさい」

 風花とわずかに重なる面影の男は、独り言ちた。

 「そこで何をしている!?」

 その時、氷室邸の門番二人が不審な様子に気づいてやってきた。男は即座に走り出した。夜の城下町は静まり返っていた。門番は男を追いかける。

 「曲者だ!!」
 「止まれ!!」

 しかし黒装束の男は答えない。
 次の瞬間、黒い影が一気に間合いへ踏み込む。

 「ぐっ――!」

 銀の刃が闇を裂く。鮮血が飛んだ。

 「が……っ!」

 一人目の門番が崩れ落ちる。もう一人が叫びながら槍を突き出した。

 「賊だ!! 賊が出たぞ!!」

 槍先が黒装束の肩をかすめる。しかし男は怯まない。太刀を返し、槍の柄ごと斬り払った。乾いた音。折れた槍が石畳へ転がる。門番は腰の刀を抜こうとした。だが、その動きより早く、黒装束の刃が喉元を横薙ぎに走る。ごぼり、と血が溢れた。門番は目を見開いたまま膝をつき、前のめりに倒れる。
 黒装束の男は血を払うと、音もなく屋根へ飛び移る。黒い影は、そのまま夜の闇へ溶けるように消えていった。


 翌朝――。
 氷室忠頼は書院で報告を受けていた。
 障子の外に夏の日照りが広がっている。蝉の大合宿が室内まで届いていた。
 颯手は平伏したまま声を震わせた。

 「昨夜、(しの)びが屋敷付近におり、門番二名が討たれました」

 氷室は黙っている。

 「……妙だな」

 低い声が落ちる。

 「は……?」

 氷室は静かに目を細めた。

 「狙いが侵入なら、門番を斬った時点で騒ぎになる。忍びとしては下策だ」
 「では……」
 「……試したのだろう」

 誰かが、氷室家の警備を。あるいは――氷室は視線を窓の外へ向ける。庭木が風に揺れていた。

 「高津の残党か……」

 ぽつりと呟く。風花の存在が脳裏をよぎった。滅びたはずの国。 だが、全ての火種が消えたとは限らない。
 
 「警固を手厚くするように」
 「はっ!」

 颯手が退出した後も、氷室はしばらく動かなかった。――まさか風花を狙ったのか。その可能性だけが、静かに胸の奥へ沈んでいった。