戦利品の花嫁〜冷徹軍師は敗国姫を手放さない〜

 氷室がしばらくの暇をもらい、屋敷に帰宅できた頃には、もう夏も終わりに近づいていた。
 晩夏の夕暮れは、退廃(たいはい)的で物悲しかった。
 西の空は茜色に染まり、その下で群青色の夜がゆっくりと広がっていく。昼間の熱気を残した風が、町の屋根の上を静かに吹き抜けていた。
 遠くで、ひぐらしが鳴いている。その声は、まるで去っていく季節を惜しむように、細く長く空へ溶けていった。
 ――風花。
 氷室の足は迷いなく側室の部屋へ向かった。この間、声を上げてしまったことを詫びたい一心で。
 ――風花は、息災か。
 母屋から離れへつづく渡り廊下を通る。
 戸口を開けると、風花は夕焼けを見上げながら、縁側で団扇を扇いでいたところだった。さみしげな横顔。彼女のなだらかな背中が小さく見える。
 氷室の足音が近づいて、団扇を置く。ゆっくりとふりかえった。

 (氷室様……?)

 薄桃色の衣は汗ばんでおり、じっとりと張り付いている。

 「風花」

 やや、やつれた顔をしていた。

 (氷室様だわ……)

 氷室に叱責されてから、風花は寝る間も惜しんで直垂を作り直していた。彼女の膝には反物と針道具がある。

 (私のことお嫌いなのに……なぜいらっしゃったのかしら)

 あの日の叱責以来、風花は氷室に嫌われたのだと思い込んでいた。

 「お帰りなさいませ……」

 氷室は、風花の隣に座る。目を合わせようとしない彼女を見て、氷室は驚いた。白く小さな手には、端切れで作ったうさぎの小物がある。
 小さな白いうさぎは、愛らしい顔をしている。
 風花は、何も言わない氷室をいつものように戸惑いながら見つめていた。
 ひぐらしの鳴き声にかき消えそうな声で、風花は氷室に聞いた。

 「あの……氷室様、氷室様は私のことお嫌いですか?」

 風花の目の下には影がある。
 氷室は膝を立てて、風花の横に座った。

 「何? 理由を聞こう、なぜそう思う?」

 彼女はしおれた花のように頭をもたげた。

 「……この間、駄目だ!ってものすごい怒っていたではありませんか」

 白い首筋――動揺を隠す氷室の姿。
 氷室は長い睫毛をふせて、深い息を吐いた。

 「……すまなかった」

 彼女は指先をからめながら言う。

 「それに……」

 青い瞳は涙ぐんでいた。今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
 瞳は、まるで海に白波が立ったかのように煌めいている。
 ――もう失いたくない
 風花は勇気をふりしぼり、口を開いた。

 「私との婚儀の時、冷たかったですよね。……しょ、初夜もありませんでしたし、その、夫婦らしいことも一切ありませんよね……」
 
 女性の口から(ねや)の話題を出すのははしたないことだ。それを承知の上で、頬を赤らめながら聞いた。

 (でも、今の私は聞かなければ心が壊れてしまいそうで……)

 彼のことを知りたい。彼に少しでも悪くは思われたくない。
 そんなふうに願う相手ができたのは、初めてだった。

 「……風花」

 彼は敵国の軍師なのだからどう思われようとも勝手だ。――そう割り切って放っておけばいいものを。
 風花の心臓は忙しくなく脈打っていた。

 「……私のこと、お嫌いなんですか?」
 「……」

 氷室は、わずかな動揺と共にふと気づく。これは見覚えのある感覚だった。

 そうだ――策略に絡め取られた敵の姿と重なる。
 
 ――蜘蛛の糸に引っかかって身動きのとれない揚羽蝶のようだ。

 ――私の策略に、風花の心が支配されている。

 婚儀の時に冷たくしたのも、初夜や夫婦らしいことを一切しないのも、あえて氷室が二人の関係に主導権を持つためにしてきたことだ。
 最初から風花に氷室のことを考えさせるための、距離感の操作(コントロール)
 全て策略通りに、情報を遮断し、課題を与えてきた。氷室のことを常に考えさせる課題――針仕事は、最初は羽織の仕立てと刺繍……それが今や直垂を仕立てるまでに大きくなっていた。
 氷室のことを考えてしかたない様子の彼女に心が()れる。
  風花は懇願するような切ない目を向ける。

 「……私のこと、お嫌いでなければ受け取ってください」

 風花は、氷室に白うさぎを手渡してきた。

 「高津では、雪うさぎを作るんです。平和を願って。氷室様がまた冬戦争に行くと聞いて、いてもたってられなくて。どうか戦争に行っても無事に帰ってきてくださいね」

 風花は目を伏せて、唇を噛む。

 「私は新しい敵国の夫の妻にはなりたくありません。やっと、氷室様の元で、少し落ち着いてきたのに……。もう見知らぬ土地で、見知らぬ男の妻にはなりたくありません」

 高津――根付のことが頭をよぎる。
 氷室は少し息をつき、うさぎを手にとった。

 「……風花は、私のことどう思っている?」

 風花は眉間に皺を寄せる。

 「……大切な夫です」

 風花の様子に、氷室は顎に手を当てる。
 ――大切な夫。
 沸き立つ喜びとは裏腹に、氷室は冷静になった。
 別の男が戦利品として彼女を妻として得ていれば、それはそれで順応していたに過ぎないものだ。
 氷室の視線は、かすかに鋭くなる。

 「風花、一つ頼み事がある」

 雪うさぎを握りしめる。

 「な……何でしょう? 私でできることなら、良いのですが」

 氷室は、意味ありげに庭先の方へ視線を向けた。晩夏の夕焼けは、すでに宵闇へと馴染んでいった。

 「……私は自分の気持ちがうまく言えなくてな」

 半ば真実で、――半ば嘘だ。
 氷室は頭の中で算術がひらめき、滔々と流れてくるのを感じた。

 「自分の気持ちが、言えない……?」

 風花は呆気にとられた。

 「そうだ。軍師として、敵に感情を悟られてはなるまい。私は自分の気持ちを抑えるばかりに、平時もうまく言えなくなってしまった」

 夕焼けには烏が群れをなして飛んでいく。殺伐とした鳴き声がひぐらしと混ざり遠くからこだまする。

 「――私がうまく自分の気持ちを言えるようにするにはどうしたらいいか」

 大仰に腕を組み、ため息を吐き捨てる。

 「風花よ、考えてほしい」

 どこか腑に落ちたように――涙ぐんでいた彼女の瞳は見開かれた。

 「そ、そうですね。それは……氷室様から、そんな感じがしていました」

 常に感情の薄い(ひと)

 「自分の気持ちがうまく言えないなんて……それは、知りませんでした……。それなのに、強引に気持ちを聞いてしまって、ごめんなさい」

 これまでの氷室の言動をふりかえると合点がいく。――風花がそう思うことくらい、氷室には推測がついた。

 「風花」

 氷室は、わざとらしく目を伏せる。

 「私が、自分の気持ちをうまく言えるようにしてほしい……どうしたらいいのか考えてほしいんだ。そなたに、私の気持ちを考えてほしい」

 困惑しながらも、風花は真摯に頷いた。

 「……わかりました。氷室様が自分のお気持ちがうまく言えるように、私がんばってみますね」

 氷室は、その彼女の様子を丁寧に心の中にしまった。