氷室がしばらくの暇をもらい、屋敷に帰宅できた頃には、もう夏も終わりに近づいていた。
夏の終わりの夕暮れは、どこか物悲しかった。西の空は茜色に染まり、その下で群青色の夜がゆっくりと広がっていく。昼間の熱気を残した風が、町の屋根の上を静かに吹き抜けていた。遠くで、ひぐらしが鳴いている。その声は、まるで去っていく季節を惜しむように、細く長く空へ溶けていった。
氷室の足は迷いなく側室の部屋へ向かった。この間、声を上げてしまったことを詫びたい一心で。
風花は夕焼けの縁側で団扇を扇いでいたところだった。薄桃色の衣は汗ばんでおり、じっとりと張り付いている。
やや、やつれた顔で氷室をふりかえった。
氷室に叱責されてから、風花は寝る間も惜しんで直垂を作り直していた。作り直しながら、風花の心は良くない方へ乱れていた。理由はわからないが氷室に嫌われてしまったのだと、あの日の叱責を境に悲しみに暮れていたのだ。
「お帰りなさいませ……」
氷室は、風花の隣に座る。目を合わせようとしない風花を見て、氷室は驚いた。彼女の手には、端切れで作ったうさぎの小物がある。
小さな白いうさぎは、愛らしい顔をしている。
風花は、何も言わない氷室をいつものように戸惑いながら見つめていた。
ひぐらしの鳴き声にかき消えそうな声で、風花は氷室に聞いた。
「あの……氷室様、氷室様は私のことお嫌いですか?」
「なぜだ?」
「なぜって……この間、駄目だ!ってものすごい怒っていたではありませんか」
「それは、詫びる。すまなかった」
「それに……」
風花の青い瞳は涙ぐんでいた。まるで海に白波が立ったかのように煌めいている。
「私との婚儀の時、冷たかったですよね。しょ、初夜もありませんでしたし、その、夫婦らしいことも一切ありませんよね」
「風花」
「……私のこと、お嫌いなんですか?」
氷室は、動揺と共に気づく。――策略に絡め取られた敵の姿と重なる。それはまるで、蜘蛛の糸に引っかかって身動きのとれない揚羽蝶のようだ。
――私の戦略に、風花が支配されている。
婚儀の時に冷たくしたのも、初夜や夫婦らしいことを一切しないのも、あえて氷室が二人の関係に主導権を持つためにしてきたことだ。最初から風花に氷室のことを考えさせるための、距離感の操作。
全て策略通りに、情報を遮断し、課題を要求、賞罰を与えてきた。氷室のことを常に考えさせる課題――針仕事は、最初は羽織の仕立てと刺繍……それが今や直垂を仕立てるまでに大きくなっていた。
氷室のことを考えてしかたない様子の彼女に心が焦れる。
「私のこと、お嫌いでなければ受け取ってください」
風花は、氷室に白うさぎを手渡してきた。
「高津では、雪うさぎを作るんです。平和を願って。氷室様がまた冬戦争に行くと聞いて、いてもたってられなくて。どうか戦争に行っても無事に帰ってきてくださいね」
風花は目を伏せて、唇を噛む。
「私は新しい敵国の夫の妻にはなりたくありません。やっと、氷室様の元で、少し落ち着いてきたのに……。もう見知らぬ土地で、見知らぬ男の妻にはなりたくありません」
高津――根付のことが頭をよぎる。
氷室は少し息をつき、うさぎを手にとった。
「……風花は、私のことどう思っている?」
風花は眉間に皺を寄せる。
「……大切な夫です」
風花の様子に、氷室は顎に手を当てる。
沸き立つ喜びとは裏腹に、氷室は冷静になった。別の男が戦利品として彼女を妻にもらっていれば、それはそれで順応していたに過ぎない。
氷室の視線は鋭くなる。
「風花、一つ頼み事がある」
「何でしょう?」
氷室は、庭先の景色を見た。
「私は自分の気持ちがうまく言えなくてな」
半ば真実で、――半ば嘘。
氷室は冷めた瞳を風花に向ける。
「私がうまく自分の気持ちを言えるようにするにはどうしたらいい?」
風花は眉をつり下げる。
「そ、そうですね……。自分の気持ちがうまく言えないなんて……そうだったんですね……」
氷室の言動をふりかえると合点がいく。――風花がそう思うことくらい、氷室には予想がついた。
「風花」
氷室は目を伏せる。
「私が、自分の気持ちをうまく言えるようにしてほしい……どうしたらいいのか考えてほしいんだ」
困惑しながら、風花は頷いた。
「……わかりました。氷室様が自分のお気持ちがうまく言えるように、私がんばります」
その彼女の様子を丁寧に心の中にしまった。
夏の終わりの夕暮れは、どこか物悲しかった。西の空は茜色に染まり、その下で群青色の夜がゆっくりと広がっていく。昼間の熱気を残した風が、町の屋根の上を静かに吹き抜けていた。遠くで、ひぐらしが鳴いている。その声は、まるで去っていく季節を惜しむように、細く長く空へ溶けていった。
氷室の足は迷いなく側室の部屋へ向かった。この間、声を上げてしまったことを詫びたい一心で。
風花は夕焼けの縁側で団扇を扇いでいたところだった。薄桃色の衣は汗ばんでおり、じっとりと張り付いている。
やや、やつれた顔で氷室をふりかえった。
氷室に叱責されてから、風花は寝る間も惜しんで直垂を作り直していた。作り直しながら、風花の心は良くない方へ乱れていた。理由はわからないが氷室に嫌われてしまったのだと、あの日の叱責を境に悲しみに暮れていたのだ。
「お帰りなさいませ……」
氷室は、風花の隣に座る。目を合わせようとしない風花を見て、氷室は驚いた。彼女の手には、端切れで作ったうさぎの小物がある。
小さな白いうさぎは、愛らしい顔をしている。
風花は、何も言わない氷室をいつものように戸惑いながら見つめていた。
ひぐらしの鳴き声にかき消えそうな声で、風花は氷室に聞いた。
「あの……氷室様、氷室様は私のことお嫌いですか?」
「なぜだ?」
「なぜって……この間、駄目だ!ってものすごい怒っていたではありませんか」
「それは、詫びる。すまなかった」
「それに……」
風花の青い瞳は涙ぐんでいた。まるで海に白波が立ったかのように煌めいている。
「私との婚儀の時、冷たかったですよね。しょ、初夜もありませんでしたし、その、夫婦らしいことも一切ありませんよね」
「風花」
「……私のこと、お嫌いなんですか?」
氷室は、動揺と共に気づく。――策略に絡め取られた敵の姿と重なる。それはまるで、蜘蛛の糸に引っかかって身動きのとれない揚羽蝶のようだ。
――私の戦略に、風花が支配されている。
婚儀の時に冷たくしたのも、初夜や夫婦らしいことを一切しないのも、あえて氷室が二人の関係に主導権を持つためにしてきたことだ。最初から風花に氷室のことを考えさせるための、距離感の操作。
全て策略通りに、情報を遮断し、課題を要求、賞罰を与えてきた。氷室のことを常に考えさせる課題――針仕事は、最初は羽織の仕立てと刺繍……それが今や直垂を仕立てるまでに大きくなっていた。
氷室のことを考えてしかたない様子の彼女に心が焦れる。
「私のこと、お嫌いでなければ受け取ってください」
風花は、氷室に白うさぎを手渡してきた。
「高津では、雪うさぎを作るんです。平和を願って。氷室様がまた冬戦争に行くと聞いて、いてもたってられなくて。どうか戦争に行っても無事に帰ってきてくださいね」
風花は目を伏せて、唇を噛む。
「私は新しい敵国の夫の妻にはなりたくありません。やっと、氷室様の元で、少し落ち着いてきたのに……。もう見知らぬ土地で、見知らぬ男の妻にはなりたくありません」
高津――根付のことが頭をよぎる。
氷室は少し息をつき、うさぎを手にとった。
「……風花は、私のことどう思っている?」
風花は眉間に皺を寄せる。
「……大切な夫です」
風花の様子に、氷室は顎に手を当てる。
沸き立つ喜びとは裏腹に、氷室は冷静になった。別の男が戦利品として彼女を妻にもらっていれば、それはそれで順応していたに過ぎない。
氷室の視線は鋭くなる。
「風花、一つ頼み事がある」
「何でしょう?」
氷室は、庭先の景色を見た。
「私は自分の気持ちがうまく言えなくてな」
半ば真実で、――半ば嘘。
氷室は冷めた瞳を風花に向ける。
「私がうまく自分の気持ちを言えるようにするにはどうしたらいい?」
風花は眉をつり下げる。
「そ、そうですね……。自分の気持ちがうまく言えないなんて……そうだったんですね……」
氷室の言動をふりかえると合点がいく。――風花がそう思うことくらい、氷室には予想がついた。
「風花」
氷室は目を伏せる。
「私が、自分の気持ちをうまく言えるようにしてほしい……どうしたらいいのか考えてほしいんだ」
困惑しながら、風花は頷いた。
「……わかりました。氷室様が自分のお気持ちがうまく言えるように、私がんばります」
その彼女の様子を丁寧に心の中にしまった。
