北の果てへ向かうほど、空の色は変わっていった。低く垂れ込める雲は重く、陽光は薄く削がれ、風は肌を刺すほどに冷たい。山々は深い緑というよりも、黒に近い影をまとい、谷間には霧がたなびいていた。針葉樹の森が果てしなく続き、足を踏み入れると薄暗い。 獣道は細く、湿った土に足跡がすぐに飲み込まれていく。川は冷たく速い流れで岩を削り、白い泡を立てながら北へ向かっていた。
「軍師殿、ここらへんで野営をいたしましょう」
「高津の夜は本当に暗いと聞いております」
氷室は高津国の山中にいる。
「わかった、そうしよう」
白く煙る山々のあいだに、野営の火だけが赤く揺れている。
兵たちは雪を踏み固め、その上に粗末な陣幕を張っていた。軍馬は吐く息を白く染め、寒さに耐えるように身を寄せ合っている。槍や太刀には雪が積もり、火の粉が舞うたび、じゅっと小さな音を立てて溶けた。
白い息を吐きながら、従者たちと火を囲んだ。焚き火の周囲では、武士たちが黙々と手をかざしている。凍えた指先を温めながら、硬い干飯を噛み、水筒の酒で喉を焼く。誰も口数は多くない。寒さが、人の声さえ奪っていた。
「これは国境を越えるのも一苦労ですなあ」
「高津攻めの折、たどり着くまでに脱落する兵士も多いかもしれません」
氷室は白い息を吐き、顎に指先を当てる。
「その対策もしなければならないな」
身を切るような寒さが偵察隊を悩ませる。高津国はこの気候により守られてきた国と言っても過言はなかった。
あの大戦――東雲国と高津国の戦いは、国境付近の紛争からはじまった。
東雲国は穏やかな気候の東の国で、作物がよく採れた。高津国は、北方の痩せた土地。高津国の賊が、東雲国の村民を襲うことが多かった。その紛争を治めるため、たびたび東雲国の武士は派遣されていた。小さな火種はいつしか大きな災いを呼ぶ。――気づけば国同士の大きな戦になった。東雲国と高津国は国境付近の領土を奪い合う。東雲国が勝ち、進軍を進めている。最終的には、高津国の攻略を目標にしている。
「軍師殿、あれが城です!」
雪を踏みしめながら、偵察隊は城下町の縁へと身を潜めた。雪深い山をいくつも越え、少ない手勢を引き連れた偵察隊は、高津国の城下町に侵入していた。
商人に扮した氷室は、白い息を吐きながら、実地調査をはじめた。
我が軍がここに攻め込んだ時は、この通路から城を落とすのがよいか……と、氷室は腕を組む。従者たちに城下町の地形を記録させた。――その時だった。
――高津の姫と出会ったのは。
氷室はこの国一の大きな神社を訪れていた。長い参道を進むたび、城下町の喧騒は遠ざかっていく。
やがて朱塗りの鳥居が現れ、その奥に拝殿が静かに佇んでいた。黒く反った屋根には年月を経た風格があり、軒先には大きなしめ縄が垂れている。風が吹くたび、紙垂がかすかに揺れた。
境内には、神楽を奉納するための舞台が設けられている。
檜造りの舞台は高床になっており、四隅の柱には色褪せた朱が残っていた。屋根付きの舞台の奥には松が描かれ、夜には篝火が焚かれる。
民たちがざわめき、舞台の周辺には人だかりができている。高津国の一の姫君……風花姫が立っていた。
あれが……高津国の当主の姫……と、氷室は目を奪われる。
痩せた土地の五穀豊穣を願い、当主の姫が巫女役を引き受けるという。――御神楽の舞と鈴の音が、神聖な社の中で響き渡る。
青い瞳が、不可思議に氷室の視線を奪う。どくりと心音が鳴り、氷室の顔が熱くなった。これは……今まで感じたことのない感覚だった。あの姫が扇をひるがえし、鈴を鳴らす。舞うたびに、氷室の心はさざ波立つ。
常に冷徹で心を動かされないように、氷室は注意深く生きてきた。それは尊敬する父親の態度を真似して、自分もああなりたいと願ってきたからだ。父親を師匠として、氷室は様々な修羅場を冷徹な戦局で乗り越えてきた。――淡々と、無慈悲に、冷酷に、勝利を重ねてきた。同じ軍師であった父のようになりたい。その一心で徹底的に感情を排し、敵を操り、勝利を得てきた。
しかし、そんな氷室の心は一瞬にして動かされた。ごくりと喉が鳴る。氷室は、世界がまるで自分と姫だけになったように錯覚した。この感情を何と表現したらよいのか、氷室には検討もつかない。まるで城を攻める際に、どうしてでも勝利を得たいと渇望するような渇きにも似た感情だ。城を攻略し敵を支配したい――得たい。心も、魂も――姫の全てを、得たい。氷室は、舞台を見上げながら、手に汗握った。
「軍師殿、ここらへんで野営をいたしましょう」
「高津の夜は本当に暗いと聞いております」
氷室は高津国の山中にいる。
「わかった、そうしよう」
白く煙る山々のあいだに、野営の火だけが赤く揺れている。
兵たちは雪を踏み固め、その上に粗末な陣幕を張っていた。軍馬は吐く息を白く染め、寒さに耐えるように身を寄せ合っている。槍や太刀には雪が積もり、火の粉が舞うたび、じゅっと小さな音を立てて溶けた。
白い息を吐きながら、従者たちと火を囲んだ。焚き火の周囲では、武士たちが黙々と手をかざしている。凍えた指先を温めながら、硬い干飯を噛み、水筒の酒で喉を焼く。誰も口数は多くない。寒さが、人の声さえ奪っていた。
「これは国境を越えるのも一苦労ですなあ」
「高津攻めの折、たどり着くまでに脱落する兵士も多いかもしれません」
氷室は白い息を吐き、顎に指先を当てる。
「その対策もしなければならないな」
身を切るような寒さが偵察隊を悩ませる。高津国はこの気候により守られてきた国と言っても過言はなかった。
あの大戦――東雲国と高津国の戦いは、国境付近の紛争からはじまった。
東雲国は穏やかな気候の東の国で、作物がよく採れた。高津国は、北方の痩せた土地。高津国の賊が、東雲国の村民を襲うことが多かった。その紛争を治めるため、たびたび東雲国の武士は派遣されていた。小さな火種はいつしか大きな災いを呼ぶ。――気づけば国同士の大きな戦になった。東雲国と高津国は国境付近の領土を奪い合う。東雲国が勝ち、進軍を進めている。最終的には、高津国の攻略を目標にしている。
「軍師殿、あれが城です!」
雪を踏みしめながら、偵察隊は城下町の縁へと身を潜めた。雪深い山をいくつも越え、少ない手勢を引き連れた偵察隊は、高津国の城下町に侵入していた。
商人に扮した氷室は、白い息を吐きながら、実地調査をはじめた。
我が軍がここに攻め込んだ時は、この通路から城を落とすのがよいか……と、氷室は腕を組む。従者たちに城下町の地形を記録させた。――その時だった。
――高津の姫と出会ったのは。
氷室はこの国一の大きな神社を訪れていた。長い参道を進むたび、城下町の喧騒は遠ざかっていく。
やがて朱塗りの鳥居が現れ、その奥に拝殿が静かに佇んでいた。黒く反った屋根には年月を経た風格があり、軒先には大きなしめ縄が垂れている。風が吹くたび、紙垂がかすかに揺れた。
境内には、神楽を奉納するための舞台が設けられている。
檜造りの舞台は高床になっており、四隅の柱には色褪せた朱が残っていた。屋根付きの舞台の奥には松が描かれ、夜には篝火が焚かれる。
民たちがざわめき、舞台の周辺には人だかりができている。高津国の一の姫君……風花姫が立っていた。
あれが……高津国の当主の姫……と、氷室は目を奪われる。
痩せた土地の五穀豊穣を願い、当主の姫が巫女役を引き受けるという。――御神楽の舞と鈴の音が、神聖な社の中で響き渡る。
青い瞳が、不可思議に氷室の視線を奪う。どくりと心音が鳴り、氷室の顔が熱くなった。これは……今まで感じたことのない感覚だった。あの姫が扇をひるがえし、鈴を鳴らす。舞うたびに、氷室の心はさざ波立つ。
常に冷徹で心を動かされないように、氷室は注意深く生きてきた。それは尊敬する父親の態度を真似して、自分もああなりたいと願ってきたからだ。父親を師匠として、氷室は様々な修羅場を冷徹な戦局で乗り越えてきた。――淡々と、無慈悲に、冷酷に、勝利を重ねてきた。同じ軍師であった父のようになりたい。その一心で徹底的に感情を排し、敵を操り、勝利を得てきた。
しかし、そんな氷室の心は一瞬にして動かされた。ごくりと喉が鳴る。氷室は、世界がまるで自分と姫だけになったように錯覚した。この感情を何と表現したらよいのか、氷室には検討もつかない。まるで城を攻める際に、どうしてでも勝利を得たいと渇望するような渇きにも似た感情だ。城を攻略し敵を支配したい――得たい。心も、魂も――姫の全てを、得たい。氷室は、舞台を見上げながら、手に汗握った。
