「やめよ」
同時に、一人の男の声が響いた。低く落ちたその声に、場の空気が凍りついた。まるで、この空間が彼に支配されてしまったかのようだ。
「軍師……氷室殿!?」
現れた瞬間、打たれたように室内が静まり返った。陣羽織を着た甲冑姿の武者が家来を連れて音もなく佇んでいた。それは冬の霜柱のような静謐さをまとっている。彼の周りを取り囲む冷気に、辺りが凍てつく。
「な、なぜ最前線に……!?」
氷室は兵士を見据える。兜の下の面頬――目元まで覆った仮面の上の瞳は微動だにしない。静寂の後、ややあって短く言った。
「――下がれ」
氷室が軍配を振り上げると、兵士たちは一糸乱れぬ動きで平伏した。たちまち歩を並べて辞去した。
氷室は、風花の元へ音もなく歩み寄る。
(嫌……! 来ないで!)
風花の肩は小刻みに震えていた。顔は青ざめており、唇は紫色に染まっている。
「こちらへ」
淡々とした、抑揚のない声。
「失礼する」
手を伸ばした氷室は攫うように風花を抱きかかえる。
(な、何……!?)
彼の顔がぐっと近づいた。目元まで覆った面頬で表情はわからない。得体の知れぬ不気味さに、背筋が凍る。
(こ、恐い……嫌!!)
ややあって、静かに歩き出した。
異様な落ち着きのあるこの男は、呼吸一つ乱さず戦場跡を歩いている。
(ど、どこに連れて行かれるの……?!)
風花は身体を硬直させ、身震いが止まらない。
氷室の衣から、わずかに香の匂いに気づいた。風雅な香りが風花の鼻腔をくすぐる。血なまぐさい戦場にそぐわず、その異様さを際立たせる。
氷室に抱えられたまま、風花の瞳には陥落した故郷の城の景色が映った。
――高津国、落城。
滅びた城は、まるで息絶えた獣のように沈黙して横たわっている。腐臭を帯びた黒煙が立ち昇り、漂っていた。焼け落ちた瓦屋根は無残に崩れている。白壁には無数の矢傷と火縄銃の銃弾の痕が生々しく浮かぶ。焼け焦げた家屋の灰が、風が吹くたびに舞い上がっていった。
ここで生まれ、育った風花の思い出の景色は灰色に塗り替えられている。
絶望と驚愕に、気持ちが追いつかない。ただ一筋の涙が頬を伝い落ちた。
(嘘だわ……こんな日がくるなんて――)
城門は破られ、砕けた木片と血に濡れた旗指物が泥の中へ転がっている。かつて武士たちの号令が響いた城内には、今は風の音しかなく、沈黙が広がるばかりだ。北国の冷風が吹くたび、焼け残った幟がぼろぼろと揺れ、城の柱が軋む音がすすり泣くように聞こえた。
(やめて……嘘だと誰か言って……)
石段には血痕が残り、討ち死にした無数の兵たちが人形のように転がっていた。兵たちが最後まで立て籠もった本丸は半ば焼け落ち、薄い煙が遠く雲の果てまで立ちのぼっている。
(お願い、誰か……私を夢から覚ませてよ――)
遠くで、烏の鳴き声がした。死肉をついばんだ烏は、空を円を描きながら飛んでいる。烏は、敵軍の旗の上で、羽を休めた。――敵軍の旗が、波のようにはためいているのが、風花の目に焼きついた。
――それらが現実だと受けとめる前に、風花のまぶたはゆっくりと落ちていった。
同時に、一人の男の声が響いた。低く落ちたその声に、場の空気が凍りついた。まるで、この空間が彼に支配されてしまったかのようだ。
「軍師……氷室殿!?」
現れた瞬間、打たれたように室内が静まり返った。陣羽織を着た甲冑姿の武者が家来を連れて音もなく佇んでいた。それは冬の霜柱のような静謐さをまとっている。彼の周りを取り囲む冷気に、辺りが凍てつく。
「な、なぜ最前線に……!?」
氷室は兵士を見据える。兜の下の面頬――目元まで覆った仮面の上の瞳は微動だにしない。静寂の後、ややあって短く言った。
「――下がれ」
氷室が軍配を振り上げると、兵士たちは一糸乱れぬ動きで平伏した。たちまち歩を並べて辞去した。
氷室は、風花の元へ音もなく歩み寄る。
(嫌……! 来ないで!)
風花の肩は小刻みに震えていた。顔は青ざめており、唇は紫色に染まっている。
「こちらへ」
淡々とした、抑揚のない声。
「失礼する」
手を伸ばした氷室は攫うように風花を抱きかかえる。
(な、何……!?)
彼の顔がぐっと近づいた。目元まで覆った面頬で表情はわからない。得体の知れぬ不気味さに、背筋が凍る。
(こ、恐い……嫌!!)
ややあって、静かに歩き出した。
異様な落ち着きのあるこの男は、呼吸一つ乱さず戦場跡を歩いている。
(ど、どこに連れて行かれるの……?!)
風花は身体を硬直させ、身震いが止まらない。
氷室の衣から、わずかに香の匂いに気づいた。風雅な香りが風花の鼻腔をくすぐる。血なまぐさい戦場にそぐわず、その異様さを際立たせる。
氷室に抱えられたまま、風花の瞳には陥落した故郷の城の景色が映った。
――高津国、落城。
滅びた城は、まるで息絶えた獣のように沈黙して横たわっている。腐臭を帯びた黒煙が立ち昇り、漂っていた。焼け落ちた瓦屋根は無残に崩れている。白壁には無数の矢傷と火縄銃の銃弾の痕が生々しく浮かぶ。焼け焦げた家屋の灰が、風が吹くたびに舞い上がっていった。
ここで生まれ、育った風花の思い出の景色は灰色に塗り替えられている。
絶望と驚愕に、気持ちが追いつかない。ただ一筋の涙が頬を伝い落ちた。
(嘘だわ……こんな日がくるなんて――)
城門は破られ、砕けた木片と血に濡れた旗指物が泥の中へ転がっている。かつて武士たちの号令が響いた城内には、今は風の音しかなく、沈黙が広がるばかりだ。北国の冷風が吹くたび、焼け残った幟がぼろぼろと揺れ、城の柱が軋む音がすすり泣くように聞こえた。
(やめて……嘘だと誰か言って……)
石段には血痕が残り、討ち死にした無数の兵たちが人形のように転がっていた。兵たちが最後まで立て籠もった本丸は半ば焼け落ち、薄い煙が遠く雲の果てまで立ちのぼっている。
(お願い、誰か……私を夢から覚ませてよ――)
遠くで、烏の鳴き声がした。死肉をついばんだ烏は、空を円を描きながら飛んでいる。烏は、敵軍の旗の上で、羽を休めた。――敵軍の旗が、波のようにはためいているのが、風花の目に焼きついた。
――それらが現実だと受けとめる前に、風花のまぶたはゆっくりと落ちていった。
