氷室は布陣図を広げ、駒を動かす。墨色の直垂姿の氷室は、盤面を静かに見下ろしている。
「……。つまり、次の戦では、敗走するふりをして、敵を窮地に追い込むのです」
滑らかな手つきで自軍の駒を山谷へ動かし、敵の駒を別の手で追走させた。
軍議では、みな重々しい顔でそれを見つめている。
布陣図――陣幕の中に広げられた白い布の上へ、墨で描かれた線が走っていた。それは地図というより、戦そのものの骨格だった。山は黒く塗りつぶされ、谷は鋭く切れ込みのように描かれている。 川は太い曲線で示され、その流れが敵味方の境界を分断していた。所々に朱の印が置かれ、城や砦、兵の集結地を示している。 旗指物の位置は点で記され、各部隊の動線は矢印で書き込まれていた。
「さすが氷室殿。軍師の才があるな」
「天下の策略家だ」
「先の高津国との戦に勝利したのも氷室殿の作戦のおかげであったしな」
上級武士たちは、口々に褒め称えた。老将軍も大きく頷く。
「良い。冬の戦はそれで行こう」
扇を開き、大きく扇いだ。
「さすが名門の氷室家の男じゃ」
氷室は「は、ありがたき幸せ」と一礼した。しかし、「じゃがな」と老将軍は念を押す。
「いまいち、しっくり来ない部分がある」
その言葉に、氷室は顔を上げる。
「……この作戦は少しの予想外の出来事で、たやすく破綻してしまうかもしれぬぞ」
老将軍は扇で自軍の駒を弾いた。
「頭で考えすぎじゃ、氷室。戦は算術ではないぞ」
「もう一度検討いたします」
老人は闊達に笑う。
「やはりのう……先代軍師、そなたは父をまだ超えられぬようじゃな……そなたの父、氷室顕忠は戦の勘も働いておったわ」
表情を一つ変えなかった軍師の眉間に、深い皺が寄る。
「今は領地に戻って当主を務めておるが、やはり軍師としてワシのそばに置いておくべきだったか」
「お言葉ですが」
氷室の喉が鳴った。
「もう一度、私に機会を下さいませ」
じっと床を見つめたまま、氷室は微動だにしない。
「よいよい、もう一度、頼むぞ」
「は。ありがたき幸せに存じます」
氷室はその場に平伏した。いつになく忙しく鳴る心音に、彼の額に汗が浮かんだ。氷室のまぶたの裏に、父の大きな背中が映し出されていた。
「……。つまり、次の戦では、敗走するふりをして、敵を窮地に追い込むのです」
滑らかな手つきで自軍の駒を山谷へ動かし、敵の駒を別の手で追走させた。
軍議では、みな重々しい顔でそれを見つめている。
布陣図――陣幕の中に広げられた白い布の上へ、墨で描かれた線が走っていた。それは地図というより、戦そのものの骨格だった。山は黒く塗りつぶされ、谷は鋭く切れ込みのように描かれている。 川は太い曲線で示され、その流れが敵味方の境界を分断していた。所々に朱の印が置かれ、城や砦、兵の集結地を示している。 旗指物の位置は点で記され、各部隊の動線は矢印で書き込まれていた。
「さすが氷室殿。軍師の才があるな」
「天下の策略家だ」
「先の高津国との戦に勝利したのも氷室殿の作戦のおかげであったしな」
上級武士たちは、口々に褒め称えた。老将軍も大きく頷く。
「良い。冬の戦はそれで行こう」
扇を開き、大きく扇いだ。
「さすが名門の氷室家の男じゃ」
氷室は「は、ありがたき幸せ」と一礼した。しかし、「じゃがな」と老将軍は念を押す。
「いまいち、しっくり来ない部分がある」
その言葉に、氷室は顔を上げる。
「……この作戦は少しの予想外の出来事で、たやすく破綻してしまうかもしれぬぞ」
老将軍は扇で自軍の駒を弾いた。
「頭で考えすぎじゃ、氷室。戦は算術ではないぞ」
「もう一度検討いたします」
老人は闊達に笑う。
「やはりのう……先代軍師、そなたは父をまだ超えられぬようじゃな……そなたの父、氷室顕忠は戦の勘も働いておったわ」
表情を一つ変えなかった軍師の眉間に、深い皺が寄る。
「今は領地に戻って当主を務めておるが、やはり軍師としてワシのそばに置いておくべきだったか」
「お言葉ですが」
氷室の喉が鳴った。
「もう一度、私に機会を下さいませ」
じっと床を見つめたまま、氷室は微動だにしない。
「よいよい、もう一度、頼むぞ」
「は。ありがたき幸せに存じます」
氷室はその場に平伏した。いつになく忙しく鳴る心音に、彼の額に汗が浮かんだ。氷室のまぶたの裏に、父の大きな背中が映し出されていた。
