本堂の奥から、低く長い読経の声が流れてくる。
幾重にも重なる僧たちの声は、まるで絶え間なく降る雨音のように静かだった。焼香の香がゆるやかに漂い、薄暗い堂内を満たしている。
風花は正座したまま、静かに目を伏せていた。指先には数珠の冷たさが伝わってくる。
――父上と兄上は、優しい人だった。
幼い自分の手を引き、雪の日の庭を歩いてくれたこと。父が酒を飲みながら大声で笑い、母が困ったように微笑んでいたこと。
もう、誰もいない。高津の城。燃え落ちる天守。血に濡れた石畳。父の最期の言葉。泣き叫ぶ家臣たち。崩れ落ちるばあやの姿――。
(あぁ、だめ……思い出しては、いけない)
思い出そうとしなくても、記憶は勝手によみがえる。記憶がよみがえるたび、めまいがする。軽い頭痛と吐き気もこみ上げてきた。
風花は、そっと唇を噛んだ。もし、あの時、高津が滅びなければ。考えても仕方のないことばかりが、心に浮かぶ。呼吸が乱れ、息ができない。
(この戦乱の世では、よくあることなのよ……私が特別不幸なわけではないのだから)
床に手をつき、ゼェゼェと苦しくなる呼吸を整える。汗がこめかみを一筋、二筋と伝い落ちる。
(この時代に生まれたのが良くなかったの……来世では一族みんなが平和な時代に生まれ変われるように、仏様に祈らなければ……)
僧の読経が終わり、風花は何とか手を合わせて一礼する。
「終わったか」
風花が被衣で姿を隠し、寺院を後にすると、氷室は手綱を引きながら出迎えた。
「……はい。一族の月命日の供養は済ませてきました」
風花が唯一外出できるのは、この月詣だけ。
穏やかな新緑の季節、高津国が滅んで半年。――風花が氷室家に来て半年も経っていた。
氷室が手を差し伸べると、風花はその馬にのった。風花を抱きかかえるかたちで、氷室は手綱を引く。背の高い彼に、彼女はすっぽりと埋まってしまう。
氷室の屋敷から、約小一時間ほどの山の麓にある寺院までの道中、風花は常に緊張していた。
かすかに氷室の香りがし、……はじめて出会ったあの戦場のことが頭をよぎる。風花の思考を断つように、馬が方向を変えた。
「どちらへ?」
衣を目深く被った風花は、氷室を見上げる。彼の瞳からは感情が読み取れない。
「少し」
氷室はいつも話を短く終わらせてしまう。
風花は、馬上から東雲国の景観をゆったり眺めていた。
城下町の外れを、小さな川が静かに流れていた。山から引かれた清らかな水は浅く、陽光を受けてきらきらと輝いている。
川辺には背の低い草が茂り、丸い川石のあいだから澄んだ水音が絶えず響いていた。
柳の枝が風に揺れる。川沿いには数軒の農家や鍛冶職人の小屋が並び、 軒先には洗った布や、削りかけの木材が干されていた。
目前を流れる小川には、弱々しい小魚が透き通った流れに逆らって泳いでいる。何度押し戻されても、また同じ方へ向かっていく。
「困ったことはないか?」
「あ……そうですね、困ったことは…………」
唐突な質問に、風花は咄嗟に答えた。
「ない、です」
ぎゅっと手を握り、微細な痛みが走り、風花は勇気をふりしぼって言葉に出した。
「あの、あります」
氷室は手綱を引きながら、胸の中にいる風花を見下ろした。
「衣の刺繍が……」
羽織を仕立てた後、氷室から新しく依頼された仕事だ。――衣に刺繍をほどこしてほしい。
「もっとうまくなりたいのですが……誰に聞いても教えてくれなくて。高津にいた時に刺繍はたしなみとして習っていた程度ですし」
風花の碧眼が重く沈んだ。――日々、何着もの氷室の衣服に刺繍をする。どのような文様をこらせばよいのかは風花に任されている。完成品を見せた時の彼の微細な言動から、文様の善し悪しを判断していた。時には「ふん……」と言う。また、ある時には「良い」と短く言う。無表情で言葉数の少ない氷室の気持ちを推測するのが、少しずつ得意にさえなっていた。
氷室はしばらく黙っていた。
「そうか」
片手を顎にあて、氷室は思案する。
「では、教えよう」
「え……?」
風花は思わず顔を上げて、手綱を引く氷室を見上げた。馬は二人を乗せ川沿いを歩いている。
「執務のない十日後、書院へ来い。私と同じように手を動かせ。……私は男だが、細かい作業が得意でな」
氷室はそれ以上何も言わず、再び川へ視線を戻した。
どうやら、風花を気遣ってじきじき刺繍を教えてくれるらしい。屋敷の使用人たちに針仕事の件を話しても、やんわりと距離を置かれていたせいか、胸の奥がじんわりと温かくなる。ただでさえ見知らぬ土地……ましてや敵国にたった一人でいる心細さは、言葉にもできなかった。
――それでも氷室は敵国の軍師だ。
それなのに、刺繍を教えてもらえることが嬉しかった。
風花は小さく目を伏せる。
(この人は不思議といつも静かで安心する……)
けれど胸の奥が、ほのかに苦しかった。
幾重にも重なる僧たちの声は、まるで絶え間なく降る雨音のように静かだった。焼香の香がゆるやかに漂い、薄暗い堂内を満たしている。
風花は正座したまま、静かに目を伏せていた。指先には数珠の冷たさが伝わってくる。
――父上と兄上は、優しい人だった。
幼い自分の手を引き、雪の日の庭を歩いてくれたこと。父が酒を飲みながら大声で笑い、母が困ったように微笑んでいたこと。
もう、誰もいない。高津の城。燃え落ちる天守。血に濡れた石畳。父の最期の言葉。泣き叫ぶ家臣たち。崩れ落ちるばあやの姿――。
(あぁ、だめ……思い出しては、いけない)
思い出そうとしなくても、記憶は勝手によみがえる。記憶がよみがえるたび、めまいがする。軽い頭痛と吐き気もこみ上げてきた。
風花は、そっと唇を噛んだ。もし、あの時、高津が滅びなければ。考えても仕方のないことばかりが、心に浮かぶ。呼吸が乱れ、息ができない。
(この戦乱の世では、よくあることなのよ……私が特別不幸なわけではないのだから)
床に手をつき、ゼェゼェと苦しくなる呼吸を整える。汗がこめかみを一筋、二筋と伝い落ちる。
(この時代に生まれたのが良くなかったの……来世では一族みんなが平和な時代に生まれ変われるように、仏様に祈らなければ……)
僧の読経が終わり、風花は何とか手を合わせて一礼する。
「終わったか」
風花が被衣で姿を隠し、寺院を後にすると、氷室は手綱を引きながら出迎えた。
「……はい。一族の月命日の供養は済ませてきました」
風花が唯一外出できるのは、この月詣だけ。
穏やかな新緑の季節、高津国が滅んで半年。――風花が氷室家に来て半年も経っていた。
氷室が手を差し伸べると、風花はその馬にのった。風花を抱きかかえるかたちで、氷室は手綱を引く。背の高い彼に、彼女はすっぽりと埋まってしまう。
氷室の屋敷から、約小一時間ほどの山の麓にある寺院までの道中、風花は常に緊張していた。
かすかに氷室の香りがし、……はじめて出会ったあの戦場のことが頭をよぎる。風花の思考を断つように、馬が方向を変えた。
「どちらへ?」
衣を目深く被った風花は、氷室を見上げる。彼の瞳からは感情が読み取れない。
「少し」
氷室はいつも話を短く終わらせてしまう。
風花は、馬上から東雲国の景観をゆったり眺めていた。
城下町の外れを、小さな川が静かに流れていた。山から引かれた清らかな水は浅く、陽光を受けてきらきらと輝いている。
川辺には背の低い草が茂り、丸い川石のあいだから澄んだ水音が絶えず響いていた。
柳の枝が風に揺れる。川沿いには数軒の農家や鍛冶職人の小屋が並び、 軒先には洗った布や、削りかけの木材が干されていた。
目前を流れる小川には、弱々しい小魚が透き通った流れに逆らって泳いでいる。何度押し戻されても、また同じ方へ向かっていく。
「困ったことはないか?」
「あ……そうですね、困ったことは…………」
唐突な質問に、風花は咄嗟に答えた。
「ない、です」
ぎゅっと手を握り、微細な痛みが走り、風花は勇気をふりしぼって言葉に出した。
「あの、あります」
氷室は手綱を引きながら、胸の中にいる風花を見下ろした。
「衣の刺繍が……」
羽織を仕立てた後、氷室から新しく依頼された仕事だ。――衣に刺繍をほどこしてほしい。
「もっとうまくなりたいのですが……誰に聞いても教えてくれなくて。高津にいた時に刺繍はたしなみとして習っていた程度ですし」
風花の碧眼が重く沈んだ。――日々、何着もの氷室の衣服に刺繍をする。どのような文様をこらせばよいのかは風花に任されている。完成品を見せた時の彼の微細な言動から、文様の善し悪しを判断していた。時には「ふん……」と言う。また、ある時には「良い」と短く言う。無表情で言葉数の少ない氷室の気持ちを推測するのが、少しずつ得意にさえなっていた。
氷室はしばらく黙っていた。
「そうか」
片手を顎にあて、氷室は思案する。
「では、教えよう」
「え……?」
風花は思わず顔を上げて、手綱を引く氷室を見上げた。馬は二人を乗せ川沿いを歩いている。
「執務のない十日後、書院へ来い。私と同じように手を動かせ。……私は男だが、細かい作業が得意でな」
氷室はそれ以上何も言わず、再び川へ視線を戻した。
どうやら、風花を気遣ってじきじき刺繍を教えてくれるらしい。屋敷の使用人たちに針仕事の件を話しても、やんわりと距離を置かれていたせいか、胸の奥がじんわりと温かくなる。ただでさえ見知らぬ土地……ましてや敵国にたった一人でいる心細さは、言葉にもできなかった。
――それでも氷室は敵国の軍師だ。
それなのに、刺繍を教えてもらえることが嬉しかった。
風花は小さく目を伏せる。
(この人は不思議といつも静かで安心する……)
けれど胸の奥が、ほのかに苦しかった。
