誤差、或いは。

 言葉の意味を飲み込めずに、何度もまばたきしてしまう。
 役を譲る。俺の、ロメンナ役を?
 返事に窮していると、富樫は両手で俺の肩をがっと掴んだ。
「……オレは演技力に自信がある! お前は主役だ。なのに、なんだあの演技は!」
 今日の台本読み合わせのことを言っているらしい。富樫は「主役が柱なのに」「あれじゃヴァルゲインを倒せない」と文句を言いながら、俺の肩を揺さぶった。
 つまり、主役である俺の演技が弱いというのだ。文化祭の出し物程度とはいえ、富樫は本当に真っ直ぐな奴だ。肩を掴む手に力が籠る。
「お前っ、練習くらいしてきたらどうなんだ!」
「……は?」
 練習。それは俺が散々やってきたことだ。
 たかがクラスの出し物ではあるが、責任を果たそうと必死だった。隙あらばセリフを復唱していたし、演技も研究していた。原作である小説だってしっかり読み込んだのに。
 廊下に伸びる三人の影が、意思を持ったようにゆらゆら揺れている。富樫の影が、心なしか大きく膨らんだ。
 いや、富樫の言うこともわかる。
 ヴァルゲイン役の迫力に皆が息を呑んだのがわかったし、俺は主人公として明らかに負けていた。今日の台本読み合わせだって、富樫が先導して皆を集めてくれた。一方で俺はただ流されるままで、主役に選ばれたのだって「ロメンナとちょっと雰囲気似てない?」くらいの軽いクラスの雰囲気だっただけだ。俺の演技力を買ってくれたわけでもない。この学校に演劇部があったなら、易々と主役を持っていかれて、俺は村人Fくらいにはなっていただろう。
 そもそもこれはたかが文化祭の出し物で、俺がそんなに意固地に譲らないのも――
「いーや、直人が適任だね」
 静寂を破ったのは、のんきな渉の声だった。猫の前足をちょいと動かして招き猫のようなポーズを取ったあと、その前足を富樫に突きつけた。
「富樫っ、キミはロメンナ直人の伸びしろをわかってない!」
 伸びしろということは、現段階の演技に難ありなのは事実なのか。少なからずショックを受けていると、富樫が「伸びしろぉ?」と眉を寄せた。
「何言ってんだよ、実際オレのほうが」
「ちーーーがう!!」
 猫の前足が、見事に富樫の額を叩いた。猫パンチというやつだ。
「いいか、直人はすごいんだからな。来年にはブロードウェイに立ってるはずだ!」
「ああ? ならオレはハリウッド俳優だ!」
「じゃあ直人は、演劇史も塗り替えるし!」
 張本人である俺を抜きにして、謎の言い争いがはじまっている。廊下に声が響いているし、恥ずかしすぎるから本当に勘弁して欲しい。現実逃避に空を見上げると、ちょうどペンギンが横切っていった。今日はアデリーペンギンが二羽だ。
 三人の影が揺れて、最後は手を繋ぎ始めた頃に、「よしわかった」と富樫が頷いた。
「だったら夏休み明けの高橋を、見せてもらおうか」
「あー、もちろんだね! 拍手しすぎて手ぇ壊すなよ!」
 タコの足でしっしと富樫を追い払う。いつの間にか、話がまとまったらしい。
「もしかして俺、夏休みで猛練習しないとまずい?」
「ま、そういうことになるよね。あんだけ啖呵切っちゃったし」
「啖呵を切ったのはお前だろ……」
 そういえばブロードウェイだの演劇史だの大仰な単語が聞こえた気がする。勢いで、なんてことを言ってくれたのだ。カニの手でピースを向けられたが、いい気なものだ。
 これだけハードルを上げられたのだ。もうなるようにしかならない。
 学校のチャイムが、逆再生に鳴り響く。笑うように伸びた俺たちの影は、のんきに手を取り合って社交ダンスをしていた。