誤差、或いは。

「……山本っ! 大丈夫か?」
 山本は廊下に出ると、すとんと座り込んでしまった。腰が抜けたのかもしれない。少しでも生徒会室から離れたいのか、必死に這って廊下の先へと進もうとしている。時折よろけて身を崩す山本の背中を、カニの大きなハサミがコツコツとつついた。
「生まれたての小鹿みたいになってる」
 ようやく動きを止めた山本は、四つん這いのままで俺たちを見て、それから生徒会室を見た。つられて開いた扉の先を見たが、よくある机と椅子、それから本棚が並んでいるだけの、平凡な空間だった。
「怪我してないか? 具合は?」
 俺もしゃがみこんで、山本の状態を確認する。震えた声で「怪我はない」と言うので、意識はあるのだろう。眼鏡が大きくずれているだけで、目立った外傷もなさそうで安心した。
「中で、何があったんだ?」
 その問いには返事がない。当の本人は俯いてしまって、その身体も震えていた。言えないくらいの、怖い思いをしたのだろうか。
 気づけば陽の光はいつもの色に戻っていて、再びサッカー部の掛け声が響いている。
 まずは山本を保健室へ連れて行くべきだろうか、と悩んでいると、聞き覚えのある足音が聞こえてきた。踏みしめるような足音は徐々に大きくなって、そのスピードも増していく。
「やっ、山本おおおおおお!?」
 件のクラスメイトが、絶叫に近い声を上げた。その両手には、ノコギリやドライバー、金槌なんかが山ほどに抱えられている。何故か紙やすりも乗っているが、この扉を綺麗にするつもりなのだろうか。渉は人間の腕と猫の前足をそれぞれ伸ばして「つかれたー」と、のんきに呟いている。
「じゃ直人、オレたち帰ろっか」
「いや、あんなことあった後だぞ。置いていけないだろ」
「残るのはいいけど、あれに付き合うの?」
 渉が顎をしゃくって、山本のほうを示した。クラスメイトは座り込む山本に抱きついて、おいおい泣いている。まさに感動の再会ではあるが、山本はすっかり青褪めているので、二人の温度差がひどい。
「……そうだな、俺たちは帰るか」
 渉が「いえーい」と、植物のツタのようなものをこちらに向けてきた。どうやらハイタッチを求めている形なのだろう。先ほど扉を破壊してうねっていた、あのツタだ。
  俺がその手に手のひらをぱちんとぶつけると、渉が二度目の「いえーい」を言った。
「よしっ! じゃあ駅前のカラオケ?」
「お前……あんなことあったのに、なんで歌うテンションになれるんだよ」
「歌える歌える。結局無事だったしね。ぜんっぜんよゆー」
 廊下の窓を見ると、空をペンギンらしき生き物が横切っていった。
 渉の調子はずれの歌声が、廊下に響く。ところどころ歌詞が間違っていたが、面倒なので指摘はしないでおいた。