教室では、部活がないメンバーが残って、あれこれと文化祭の準備を進めていた。繋ぎ合わせたダンボールでぬりかべを模したものや、狼男の頭まで置いてある。お化けが和洋折衷だ。
俺は皆が見ていない隙に、騒がしい教室から抜け出した。
廊下の窓から差し込む日が、宙に漂うほこりをきらきらと照らしている。
どこか浮かれた放課後の空気の中、俺はゆっくりと廊下を進んで、階段に向かった。上り階段を一歩、一歩と踏みしめながら、思い返す。
今日も平和な一日だった。何もない、楽しい一日だ。
屋上の扉の前で、足を止める。非常口を示すライトが緑に光って、見慣れたピクトグラムが目に映る。その緑の光を見上げながら、俺は思う。
楽しい一日、というのは、嘘だ。
扉に貼られた「屋上 立ち入り禁止」の紙がめくれていたので、手のひらを押し付ける。
花は笑わないし、魚も空を飛ばない。ペンギンも走らないし、空も青色。ニュースは連日なんだか難しい政治の話をしているし、俺が考えるべきは自分の進路のことだ。
ポケットに入れていたスマホを取り出す。祈るような気持ちで連絡先の一覧を眺めてみるが、『変わったところのない』クラスメイトの名が連なっているだけだ。
――渉。
心の中で呼んでみるが、もちろん返事はない。
俺の両親も、クラスメイトの誰もが、何故か渉のことを覚えていなかった。それどころか、不思議な世界の記憶もないようだった。先生にそれとなく聞いてみたが、逆に心配されて、危うく保健室送りになるところだった。
あの不思議な世界と渉の存在は、俺の記憶にしかない。
屋上のドアノブを掴むと、ざらりとした感触があった。もうしばらく誰も使っていないのだろう、埃を被っているようだ。本当なら先日ここで渉と話していたというのに、その事実さえもなくなっているらしい。
駄目元でそのノブをひねってみると、妙な感触が伝わった。まさかと思って力を込めてみると、がこん、と鈍い音を立ててノブが回った。久し振りの『変わった』出来事に、思わず息を呑む。ぐっと押し込むと、重い扉がゆっくりと動く。
――開いた。屋上の扉が、開いた!
扉の隙間から澄んだ空気が流れてきて、叫び出しそうになる。
もしも空が緑色だったら。ペンギンが滑っていたら。魚が泳いでいたら。
期待をしながら屋上に一歩を踏み出す。
が、そこにあるのはなんの変哲もない、ただの屋上だった。
校庭のほうから「ナイスボール!」と元気な声が聞こえてくる。
ふと目を向けると、校舎に続くに扉の隙間から何かが覗いている。小さな期待と共に覗き込んだが、それは扉に固定されているはずの蝶番だった。壊れてて開いたままになっているらしい。がたついた扉を動かしてみると、外れかけた蝶番もがちゃがちゃと乾いた音を立てる。初めから、まともに扉も閉まっていなかったらしい。
「……なんだ、壊れてただけか」
期待をした自分が馬鹿らしくなって、自嘲気味に笑った。
この世界ではもう、妙なことは起こらないというのに。
俺は屋上のフェンスに歩み寄って、空を見上げた。
もう部屋に閉じ込められる心配もないし、突っ込んでくる魚を避ける心配もない。
どこまでも世界は正しく在る。
夜の校舎で「お前の友だちじゃない?」と笑った彼の姿を思い出す。
フェンスにしがみつくようにして、俺は目を瞑った。目の奥がじんじんと響くように熱い。高2にもなって学校で泣くなんて、本当に格好悪い。
嗚咽が漏れそうになるのを、必死で噛み殺す。
本当は、間違ってるだなんて思っていなかった。
花が笑うのもクラゲが飛ぶのも、妙な腕を持つ友人がいることも、俺にとっては誤差みたいなものだったのに。
正しい世界に、渉はもういない。
滲んだ目元を腕で擦って、目を開けた。嫌になるほど青い空を睨みながら、すっと息を吸い込む。
「……この正しい世界で生きるのだ」
ラストシーンでのセリフだ。あの不思議な舞台上では、最後まで言えていたのだろうか。
未だにしっかり覚えている。すべてのセリフも、彼に散々付き合ってもらった日々も。
ようやく迎えられたラストシーンに、俺は「よし」と気合を入れ直す。
日々は続く。俺だけはずっと、あの友人のことを覚えているだろう。
どこか遠くで、調子外れの拍手が聞こえた気がした。
-end-
俺は皆が見ていない隙に、騒がしい教室から抜け出した。
廊下の窓から差し込む日が、宙に漂うほこりをきらきらと照らしている。
どこか浮かれた放課後の空気の中、俺はゆっくりと廊下を進んで、階段に向かった。上り階段を一歩、一歩と踏みしめながら、思い返す。
今日も平和な一日だった。何もない、楽しい一日だ。
屋上の扉の前で、足を止める。非常口を示すライトが緑に光って、見慣れたピクトグラムが目に映る。その緑の光を見上げながら、俺は思う。
楽しい一日、というのは、嘘だ。
扉に貼られた「屋上 立ち入り禁止」の紙がめくれていたので、手のひらを押し付ける。
花は笑わないし、魚も空を飛ばない。ペンギンも走らないし、空も青色。ニュースは連日なんだか難しい政治の話をしているし、俺が考えるべきは自分の進路のことだ。
ポケットに入れていたスマホを取り出す。祈るような気持ちで連絡先の一覧を眺めてみるが、『変わったところのない』クラスメイトの名が連なっているだけだ。
――渉。
心の中で呼んでみるが、もちろん返事はない。
俺の両親も、クラスメイトの誰もが、何故か渉のことを覚えていなかった。それどころか、不思議な世界の記憶もないようだった。先生にそれとなく聞いてみたが、逆に心配されて、危うく保健室送りになるところだった。
あの不思議な世界と渉の存在は、俺の記憶にしかない。
屋上のドアノブを掴むと、ざらりとした感触があった。もうしばらく誰も使っていないのだろう、埃を被っているようだ。本当なら先日ここで渉と話していたというのに、その事実さえもなくなっているらしい。
駄目元でそのノブをひねってみると、妙な感触が伝わった。まさかと思って力を込めてみると、がこん、と鈍い音を立ててノブが回った。久し振りの『変わった』出来事に、思わず息を呑む。ぐっと押し込むと、重い扉がゆっくりと動く。
――開いた。屋上の扉が、開いた!
扉の隙間から澄んだ空気が流れてきて、叫び出しそうになる。
もしも空が緑色だったら。ペンギンが滑っていたら。魚が泳いでいたら。
期待をしながら屋上に一歩を踏み出す。
が、そこにあるのはなんの変哲もない、ただの屋上だった。
校庭のほうから「ナイスボール!」と元気な声が聞こえてくる。
ふと目を向けると、校舎に続くに扉の隙間から何かが覗いている。小さな期待と共に覗き込んだが、それは扉に固定されているはずの蝶番だった。壊れてて開いたままになっているらしい。がたついた扉を動かしてみると、外れかけた蝶番もがちゃがちゃと乾いた音を立てる。初めから、まともに扉も閉まっていなかったらしい。
「……なんだ、壊れてただけか」
期待をした自分が馬鹿らしくなって、自嘲気味に笑った。
この世界ではもう、妙なことは起こらないというのに。
俺は屋上のフェンスに歩み寄って、空を見上げた。
もう部屋に閉じ込められる心配もないし、突っ込んでくる魚を避ける心配もない。
どこまでも世界は正しく在る。
夜の校舎で「お前の友だちじゃない?」と笑った彼の姿を思い出す。
フェンスにしがみつくようにして、俺は目を瞑った。目の奥がじんじんと響くように熱い。高2にもなって学校で泣くなんて、本当に格好悪い。
嗚咽が漏れそうになるのを、必死で噛み殺す。
本当は、間違ってるだなんて思っていなかった。
花が笑うのもクラゲが飛ぶのも、妙な腕を持つ友人がいることも、俺にとっては誤差みたいなものだったのに。
正しい世界に、渉はもういない。
滲んだ目元を腕で擦って、目を開けた。嫌になるほど青い空を睨みながら、すっと息を吸い込む。
「……この正しい世界で生きるのだ」
ラストシーンでのセリフだ。あの不思議な舞台上では、最後まで言えていたのだろうか。
未だにしっかり覚えている。すべてのセリフも、彼に散々付き合ってもらった日々も。
ようやく迎えられたラストシーンに、俺は「よし」と気合を入れ直す。
日々は続く。俺だけはずっと、あの友人のことを覚えているだろう。
どこか遠くで、調子外れの拍手が聞こえた気がした。
-end-
