誤差、或いは。

 瞬間、鼻の奥につんとした匂いが蘇った。
 すぐに、これが塩素の匂いだと思い当たる。
 そう、あの日。プールの授業があった日のことだ。
 小学四年生の俺は、赤く染まったプールから渉を引き上げて、彼の手を引いて保健室に向かった。
 ――ね、ビビった?
 ――ビビってない。
 ――うそだ。ぎゃって言ったし。
 ――俺、カニ好きだし。美味しいから。
 何百回と渉に聞かされた、あの日のやり取り。
 わざわざ聞かされなくたって、本当は俺もよく覚えていた。
 ふと息苦しさがなくなった。カニのハサミが喉元から離れて、改めて俺の目の前に差し出されている。恐る恐るそのハサミを両手で包むと、温度のない殻の質感があるだけだった。
 俺はこの手を持つ渉と、ずっと一緒にいたのだ。
 渉が、表情を歪めた。笑っているのか泣いているのか、その真ん中くらいの表情だ。
「お前だけは、オレの手引いてくれるんだろ?」
 一気に鳥肌が立って、泣き出したくなるような心地に襲われた。

 この手を引かなくてはいけない。あの日のように。

 カニのハサミをきつく掴む。彼の手首を捻るように押し込むと、ハサミを繋ぐ関節はごきっと嫌な音を立てた。ハサミは妙な角度に捩れて、生々しい断面が覗いている。力任せに引っ張ると、ぼたぼたと透明な液を垂らしながら、大きなハサミが腕から離れる。
 普段楽しげに動いているハサミが、渉の手が、俺の手のひらの上にあった。
 さっと背筋が冷たくなる。気が遠くなりそうになったが、先のもげたカニの脚で、胸元をとんとつつかれた。歌うような口調で、渉が続ける。
「呪いを解いて大団円だよ」
 そうだ、この劇を終わらせないといけない。
 俺はハサミの断面に指をつっこんで、力任せに開こうとした。が、カニの殻は硬く、開く気配を見せない。それでももう、俺は引き下がれない。何度も指を突っ込んで、手のひらで押し込む。切り傷だらけになった手指がカニを赤く染めていく。
 ばきん、と鈍い感触が伝わって、ようやく殻にヒビが入った。
 裂け目をこじ開けるようにして、真っ赤になった手のひらを突っ込む。ねっとりとした生のカニの身を掴んでは、繊維に沿ってぐちゃぐちゃと千切りながら口に運んだ。透明な身はゴムのようで、噛むたびに嫌な甘さが舌に絡む。
 俺は思い出していた。
 教室でくだらないじゃれ合いをしてくる彼を。
 二週間の合宿で、散々稽古に付き合ってくれた彼を。
 中学生の彼を。
 小学生の彼を。
 この日々を。
 犬のように顔を突っ込んで、手で掻きまわすようにして、俺は泣きながらその身を貪った。両手はもう血だらけになっていたが、痛みは感じない。最後のひとくちを飲み込むと、どこからかファンファーレのような音が鳴り響いた。シャボン玉が舞台一面に浮かんでいる。
 顔中、涙ともカニの汁ともわからない液体で濡れていた。視界が滲んで、眼前に丸い光が散っているように見える。
 ごしごしと腕で拭っていると、急に力が抜けて、舞台にへたりこんだ。立ち上がろうとしてみるが、やはり力は入らない。
 隣に立った渉を見上げるが、表情はわからないままだ。
 渉はハサミのなくなった細いカニの腕を広げると、大仰に言い放った。
「ラストシーンだ、直人!」
 ロメンナの、ラストのセリフを言わなくてはならない。散々あの合宿で練習した、あのセリフ。口を開くが、意識が遠退いてきて、上手く言葉を繋げない。血にまみれた拳をぎゅっと握って、何とか力を振り絞って声を上げる。
「俺は、この正しい世界で――」
 最後まで言えたかどうかはわからない。
 ただ、大きな拍手のような音が鳴り響いていた。
 とにかく俺はやりきったのだ。ロメンナ役で、この劇を。 
 渉と共に。
 上下左右もわからない中で、ただ視界が眩しかった。
 拍手の音の中で「この手じゃ拍手できないや」なんて能天気な呟きが聞こえた。相変わらず渉らしい、と思うと口元が緩みそうになる。

 そうして緞帳が閉まるように、俺の瞼もゆっくりと落ちていった。