渉と親しくなったのはあの出来事からだと、今でもはっきり断言できる。
あれは小学四年生のときのことだ。はじめて渉と同じクラスになっていたが、不思議な腕を持つ奴がいる、というくらいの認識で、特に親しくなかったように思う。そもそも俺は昔から図書室で本を読んでいるようなタイプで、渉のほうは隙あらば校庭で走り回っていたようなタイプだ。保健係と体育係、科学クラブとサッカークラブと、所属しているものも見事に真反対だった。
そんな俺たちに接点ができたのは、プールの時間だった。
授業も終わり、最後に与えられた自由時間で、俺たちは思い思いに遊んでいた。大きなボールを浮かべたり、浮き具をつけて泳いでみたりと盛り上がり、何故か誰かのゴーグルまで飛んでいく始末だった。俺はなんとなく、プールの壁にある吐水口に手をあてて、水流を観察していた。相変わらず大人しい小学生だったのだ。
眩暈のするような夏の日差し。生ぬるいプールの水温。足の裏に伝わるざらつき。水中でぶつかるクラスメイトの肌。
いつも通りのにぎやかな時間は、女子たちの甲高い叫び声で中断された。
――日下部くんが! 日下部くんが!
口々に叫ばれているのは渉の名で、皆が慌ててプールからあがっていく。人がはけていくと、ばしゃばしゃと水を叩いて溺れている渉の姿が目に入った。出血しているのか、彼を中心に水は真っ赤に染まっている。カニになった腕が水を引っ掻き、タコになった腕が赤い血を掻き混ぜ、赤い飛沫を散らす様は彼ひとりだけが燃やされているようにも見えた。
逃げ遅れた俺だけが、暴れる渉を見つめていた。生徒が溺れているというのに、先生さえも手を出さない。いや、今思えば出せなかったのだろう。
俺は両手で水を掻くようにして歩いて、よたよたと渉に近づいていった。そして、渉をしっかりと両手で抱きかかえた。今でこそわずかに身長を抜かされているが、この頃は俺のほうがずっと身体が大きかったのだ。渉は一瞬だけ腕の中で暴れたが、すぐに力を抜いて身を委ねてくれた。そのまま抱えるようにしてプールサイドに引き上げると、さっと生徒たちが離れていった。
まっすぐ、渉と視線がぶつかった。
渉の胸元には、一本線を引かれたように傷がついている。濡れた肌を伝って赤が広がっているので、実際よりもずっと派手な怪我に見えた。溺れた際に暴れて、引っ掻いてしまったのだろう。いつの間にラッコの腕に変わっていた、渉の手を握る。
「あの、俺、日下部くんを保健室つれていきます」
俺にあったのは優しさや正義感ではない。ただ、自分が保健係であるという責任感だった。
保健室に向かうべく、渉の手を引いて校庭端をぺたぺた歩いていると、手のひらの感触が硬いものに変わった。視線を向けると、俺が握っていたのはカニのハサミだった。ざらついたカニのハサミに思わずぎゃっと叫んだが、何とかそのハサミを離さずにいられた。
俺は妙な汗をかいていたというのに、当の本人はニヤニヤ笑って俺を見つめている。
「ね、ビビった?」
もう元気を取り戻したらしい。悪戯する子供のように、渉の口角はにいっと持ち上がっている。
「……ビビってない」
「うそだ。ぎゃって言ったし」
「俺、カニ好きだし。美味しいから」
強がりでもなくそれは事実だったのだが、渉は目を丸くしたあとに弾けるように腹を抱えて笑い出した。肩を震わせてしゃがみこもうとするので、保健室に連れていくのが困難になったほどだ。
その日からなんとなく話す回数が増え、遊ぶ回数が増え、共有する時間が増えていった。
有り体に言えば、懐かれたのだろう。
俺たちに在ったのはそれだけの出来事で、大したことではなかった。
あれは小学四年生のときのことだ。はじめて渉と同じクラスになっていたが、不思議な腕を持つ奴がいる、というくらいの認識で、特に親しくなかったように思う。そもそも俺は昔から図書室で本を読んでいるようなタイプで、渉のほうは隙あらば校庭で走り回っていたようなタイプだ。保健係と体育係、科学クラブとサッカークラブと、所属しているものも見事に真反対だった。
そんな俺たちに接点ができたのは、プールの時間だった。
授業も終わり、最後に与えられた自由時間で、俺たちは思い思いに遊んでいた。大きなボールを浮かべたり、浮き具をつけて泳いでみたりと盛り上がり、何故か誰かのゴーグルまで飛んでいく始末だった。俺はなんとなく、プールの壁にある吐水口に手をあてて、水流を観察していた。相変わらず大人しい小学生だったのだ。
眩暈のするような夏の日差し。生ぬるいプールの水温。足の裏に伝わるざらつき。水中でぶつかるクラスメイトの肌。
いつも通りのにぎやかな時間は、女子たちの甲高い叫び声で中断された。
――日下部くんが! 日下部くんが!
口々に叫ばれているのは渉の名で、皆が慌ててプールからあがっていく。人がはけていくと、ばしゃばしゃと水を叩いて溺れている渉の姿が目に入った。出血しているのか、彼を中心に水は真っ赤に染まっている。カニになった腕が水を引っ掻き、タコになった腕が赤い血を掻き混ぜ、赤い飛沫を散らす様は彼ひとりだけが燃やされているようにも見えた。
逃げ遅れた俺だけが、暴れる渉を見つめていた。生徒が溺れているというのに、先生さえも手を出さない。いや、今思えば出せなかったのだろう。
俺は両手で水を掻くようにして歩いて、よたよたと渉に近づいていった。そして、渉をしっかりと両手で抱きかかえた。今でこそわずかに身長を抜かされているが、この頃は俺のほうがずっと身体が大きかったのだ。渉は一瞬だけ腕の中で暴れたが、すぐに力を抜いて身を委ねてくれた。そのまま抱えるようにしてプールサイドに引き上げると、さっと生徒たちが離れていった。
まっすぐ、渉と視線がぶつかった。
渉の胸元には、一本線を引かれたように傷がついている。濡れた肌を伝って赤が広がっているので、実際よりもずっと派手な怪我に見えた。溺れた際に暴れて、引っ掻いてしまったのだろう。いつの間にラッコの腕に変わっていた、渉の手を握る。
「あの、俺、日下部くんを保健室つれていきます」
俺にあったのは優しさや正義感ではない。ただ、自分が保健係であるという責任感だった。
保健室に向かうべく、渉の手を引いて校庭端をぺたぺた歩いていると、手のひらの感触が硬いものに変わった。視線を向けると、俺が握っていたのはカニのハサミだった。ざらついたカニのハサミに思わずぎゃっと叫んだが、何とかそのハサミを離さずにいられた。
俺は妙な汗をかいていたというのに、当の本人はニヤニヤ笑って俺を見つめている。
「ね、ビビった?」
もう元気を取り戻したらしい。悪戯する子供のように、渉の口角はにいっと持ち上がっている。
「……ビビってない」
「うそだ。ぎゃって言ったし」
「俺、カニ好きだし。美味しいから」
強がりでもなくそれは事実だったのだが、渉は目を丸くしたあとに弾けるように腹を抱えて笑い出した。肩を震わせてしゃがみこもうとするので、保健室に連れていくのが困難になったほどだ。
その日からなんとなく話す回数が増え、遊ぶ回数が増え、共有する時間が増えていった。
有り体に言えば、懐かれたのだろう。
俺たちに在ったのはそれだけの出来事で、大したことではなかった。
