誤差、或いは。

 遠くでカラスが鳴いている。とは言えほとんどノイズのような音だったが、ぎりぎりカラスと分かる程度だった。山本は怯えるように身を縮めると、耳を塞いでしまった。どう接していいのかわからずに、その背を撫でてやった。骨張った感触が伝わるので、やはり随分と痩せたのだろう。
 ようやくカラスも遠ざかった頃に、山本がゆっくりと耳を塞ぐ手を外した。それからしばらく視線を彷徨わせて、俺をおずおずと見上げた。こんな窺うような表情をする奴ではなかったはずなのに。
「……生徒会室で、僕は……」
 山本が、消え入りそうな声で呟いた。またその身が震え出したので、宥めるようにぽんぽんと背を叩く。山本は深い呼吸を繰り返したあとに、再び俺を見据えた。
「……何もなかった」
「何も? そんなわけないだろ。何かしらは」
「そうじゃない!」
 もう涙声になっている。近くを通ったおじさんがびくっと肩を震わせたが、山本はもうそれどころではないようだ。
「何もなかったんだよ、そこには、なんにも……」
 途切れ途切れに呟く山本の言葉から、内容を推察する。
 あの日。突如生徒会室に閉じ込められた彼は、まずドアが開かないことに驚いたらしい。悪戯なのかドアの故障なのかと考えていたが、窓から見える空は何故かどんどん暗くなっていく。電気のあるはずの室内も闇に包まれていき、山本はとにかくパニックになっていたそうだ。
 叫んでみても、外からの返事はない。そうこうしているうちに視界は完全に真っ暗になった。立っているのかも、それどころか上下左右もわからない。例えるなら、音もない真っ暗な宇宙に放り出されたようだと、身振り手振りを交えて説明してくれた。
 山本はそこで、数週間ほどの時間を過ごしたという。実際に閉じ込められていた時間は一時間程度ではあるので、それが本当の時間なのか、彼の体感時間の話なのかはわからない。
 闇に揺蕩ったまま、無の空間を過ごす。体感時間だろうが、それはひどいトラウマになったことだろう。
 色々なことを諦めかけていた、その時。ぎしぎしと鈍い音が聞こえてきて、空間に光る裂け目ができたという。その裂け目から触手のようなものが顔を出し、一気にその裂け目をこじ開けた。光が飛び込んできて、次に見えたのは学校の廊下。そして同じ生徒会の友人が泣き叫んでいる場面だったという。
 その触手には覚えがある。渉が右腕をツルに変えて、扉の隙間に突っ込んでいたからだ。
「じゃあ、渉に助けられたってことだな」
「……それは」
 山本はイエスともノーとも答えずに、俯いた。またたっぷりした時間をかけてから、首を振る。
「……助けられたとは思わない。そもそもあいつが……日下部がいるからだ」
 話が思わぬ角度になってきて、今度は俺が目を見開いた。山本の肩が震えているのでまた叫び出すかと思ったが、意外にも冷静に話を続けてくれた。
「だっておかしいだろうあいつの腕。なんで今までおかしいと思わなかったんだ……あんな変な腕持ってるの、日下部だけだ。あいつのせいとは思わないのか?」
「思ったことないよ」
「だってあんな、危ない腕で……」
「確かに変わってるけど見慣れるだろ。俺たち幼馴染みたいなもんだし、別に今さら……」
「幼馴染?」
 山本がふんと鼻で笑った。ペットボトルをぎゅっと抱き締めながら、こちらに一歩踏み出す。
「じゃあ高橋。お前は日下部の何を知ってるんだよ」
「何って、色々知ってるだろ」
「じゃああいつの兄妹は? 両親は? 出身だとか血液型は?」
 詰問するような口調で、ずいずいと距離を詰められる。
 なんて簡単なことを聞くのだろうと思ったが、ふと気がついた。
 兄妹、両親、出身地、血液型――
 親しければ知っているはずの情報なのに、俺はひとつも答えることができなかった。
 両親について尋ねたときに「いない」で流した彼のことを思い出す。
 あれは答えられないような、恐ろしい秘密があったからではないか。
 そもそも、なぜ今まで考えもしなかったのだろう。
 ――俺は、渉のことを何も知らなかったのだ。
 返事に窮していると、「ほらな」と山本が泣きそうに笑った。
「あの部屋に閉じ込められてから、この世界が変だってようやく気づいたんだ。花が歌うわけないし、空の色が緑になるわけもない。クラスメイトの腕が自由に変わるなんて、もっとおかしい。あいつは……」
 山本が長く息を吐く。
「あいつは、化け物だ」
 辺りが、しんと静まり返ったような気がした。首筋に這う、ぬるりとした感触が蘇る。
 山本がペットボトルのフタに手をかけたが、震える手では上手く開けられないようで、俺が手早く開けて渡してやった。
「なあ、高橋。とにかくもう、日下部とは関わらないほうがいい」
「そんなこと言ったって」
「お前が心配なんだよ」
 今日、俺を呼び出したのは忠告するためだったらしい。
 礼を言うと、ゆっくりと首を振ったあとに踵を返した。外に出るのも恐ろしいだろうに、俺を気遣ってわざわざここまで来てくれたのだろう。山本が優しい奴だということは、俺もよく知っていた。
 時刻は18時を回っている。夕焼けの端は黒く染まって、夜の気配が近づいてきていた。
 電線にとまったカラスが、今度はきゅっと鳴いた。押すと鳴き声を出すぬいぐるみのような、間抜けな音だ。

 ちょうど0時。
 ――6時間後に、俺は学校に向かう。

 なまぬるい風が流れていって、カラスがまたきゅっと鳴く。
 急に喉の渇きを覚えて、俺は一気にスポーツドリンクを飲み干した。