誤差、或いは。

 気づけば再び、野球部の声が響くようになっていた。ちらっと振り返って確認すると、もうボールもバットも輝いていない。ようやく練習に戻れたのだろう。再び野球の疑問を口に出そうとすると「いいから!」と必死に止められてしまった。
 空は青色よりも、もう緑色のほうがずっと強い。何故か赤い紅葉の葉が二列に整列して、緑の空を突っ切っていった。
 小さくなっていく紅葉の列を眺めていると、渉が大きく伸びをした。片腕は鳥の翼になっているので、影だけ見れば半分は天使にも見える。が、そんなことを言えば調子に乗るだろう。片翼の天使なんてこいつが浮かれそうなこと、絶対に言わない。
「ロメンナ直人、見たかったなー」
「渉は散々見ただろ。しかもほぼ毎日」
「あれは稽古でってことだろ。本番で見たかった!」
 不服を訴えているのか、片方の翼がばさばさ動く。屋上に落ちる影だけはやはり天使を連想させる。しばらくその動きを見詰めていると、渉が「あっ!」と声を上げた。まさか片翼云々と続くのだろうかと、先回りをして身構える。
「あのさー、直人」
「渉っ、お前天使とかそういうのは流石に強く出すぎっていうか」
「いや何言ってんだよ」
 渉は訝しげに眉を寄せたが、すぐにいつもの笑みに変えて立ち上がった。
「オレ、いいこと思いついたんだよ!」
「いいことって」
「だって明日、祝日じゃん! うん、そうだ!」
 何を思いついたのか、片方の翼が勢い良く風を起こしている。菓子の空き箱が飛びそうになっていたので、慌てて回収した。渉のこういう思い付きは、いつも大抵とんでもないアイデアだ。恐る恐る言葉を差し込んでみる。
「……法に触れないことにしろよ」
「触れない触れない。ちょっと学校に忍び込むだけだから」
「はぁ!?」
 忍び込むということは、学校が開いていない状態だろう。案の定、渉は「深夜に行けばさ!」とめちゃくちゃなことを言い出した。
「よしじゃあ深夜ね! そうだなあ、明日の0時に学校前に集合で!」
「いや待て、色々間違ってるだろ!」
「あ、明日っていうのは日付変わった明日じゃなくて、33時間後って意味で……」
 そこを心配しているわけではない。一体、深夜の学校で何をしようというのだ。まさか、何かを盗むのか。それとも言えないようなものを仕込むのか。今回のクラス劇に不満があって、クラスメイトに何かする可能性――とさまざまなことを心配していたが、そこは「誰も傷付かないし壊さないから」と先回りをされた。
「まあ理由はあとで伝えるからさ。33時間後の0時! 学校前集合!」
「深夜の学校となると、警備員とかいるだろ。どうするんだよ」
「あーもー、細かいところを気にするな、ロメンナ直人は」
「もうロメンナじゃない」
 俺のツッコミは見事に無視されてしまって、渉は「うーん」と首を傾げて何かを考えているようだった。しばらくすると、よしっ、と人間の手とカニのハサミで、ぽんと手を打った。
「じゃあこうしよう。高橋直人はクラス劇に青春をかけていた。しかしロメンナ役交代により、心は深く傷ついていた!」
 何を急に言い出すんだ。ツッコミを入れようとしたが渉の勢いは止まらず、今度は猫の手を自分の胸に当てた。
「傷ついた直人は、ずっと考え込んでいた。眠れない夜を過ごした。ロメンナ役でなくなった自分に価値はあるのだろうかと――」
「今日も普通に寝るし、俺はもう切り替えてるから」
「だがしかし!」
 再び翼に変わった腕が、ぱっと開かれた。
「直人は泣いた。具体的には33時間も泣いた。そしてヴァルゲイン役を受け入れ、新たな役者として生まれ変わることを決めたんだ!」
「……今のところ嘘しかないが」
「そして新たな気持ちのまま、直人は深夜の学校に訪れる。忘れた台本を取りに来るために!」
 台本を教室に置いたままにしてしまったことだけは、悔しいが本当だった。全くの嘘ではないというところが、強く言い返せなくて悔しい。ひと芝居が終わったからか、渉はいつもの雰囲気に戻ってこちらに向き直った。
「って感じで、警備員に会ったら説明すればいいんじゃない?」
「いや、台本忘れたって言うだけでいいだろ。そもそも台本だって、今から教室に行けば普通に回収できるし」
「このっ、馬鹿真面目! お前、嘘つけない性格なんだから台本は忘れとけよ!」
 渉の猫の手で、軽く頭をはたかれた。弱めの猫パンチだ。しかし満足しなかったようで、翼でも叩かれる。痛くはないが、一応の痛がるポーズを取ってみる。
 言い訳があったほうが心強いのは確かだが、そもそも忍び込むこと自体、問題しかないだろう。実際に行くかどうかは置いておくとして、俺もバッグを掴んで立ち上がった。一応辺りを見回すが、人の気配はない。誰にも聞かれていないようで安心した。
「はー、楽しみだな。夜の学校も多分、楽しいだろうし!」
「俺は心配しかない。ていうか俺が行かない可能性もあるだろ」
「いーや。絶対来るね! だって直人なんだから!」
「どんな理屈だ。お前は色々間違ってんだよ……」
 いつものツッコミを入れた瞬間に、ざっと風が吹きつけた。
 屋上全体がふっと歪む。足元の感触が薄れて、よろめきそうになった。眩暈を起こしたと思ったがそれは一瞬のことで、すぐに意識を取り戻した。
 渉とほとんど同じ目線で目が合った。
「そうだね。オレ、間違ってるから」
 うっすら口元は笑っているが、感情は読み取れない。緑の光に照られているからか、不思議な迫力があった。吹き付ける風が渉の髪を揺らしている。
「絶対来いよ、直人」
 空が、ふっと真っ暗に変わった。だがまばたきする程度の間で、次の瞬間にはオレンジ色の夕焼けに戻っていた。
 そのほんの一瞬、渉の両手は人間のものに変わっていた――ように見えた。もしかしたら、気のせいだったのかもしれない。
 今の彼の片腕はいつものカニの状態だ。ハサミを元気にぱしんと鳴らすと、長い影も同じように動いた。渉の雰囲気がふっと和らいで、「よしっ」といつもの口調で言葉を続けた。
「そうと決まれば、さっそく準備準備ー!」
「だから待てって、渉! 俺は行くとは言ってない!」
「言ってないけど、行くって顔が言ってた!」
 まためちゃくちゃなことを言いながら、渉が走り出したので俺も追った。本当に何をするつもりなのだろう。準備と言うが、嫌な予感しかしない。
 渉は跳ねるように屋上を駆けていくと、扉を開けてするりと校内に戻っていった。その重そうな扉が閉まる前に、俺も手を突っ込んで引き開ける。一歩中に入ったところで、違和感に気がついた。
 一瞬前に校内に戻ったはずの渉だが、姿が見えないのだ。
 扉のすぐ目の前は階段になっていて、どんなに早く駆け下りたとしたって、後ろ姿くらいは見えるだろう。それどころか、走っていく足音も聞こえない。
「……渉!?」
 俺の声は階段下へと響いたが、返事はない。
 不意に後ろから、かちゃん、と軽い音が聞こえた。すぐに振り返るが、そこにあるのは変わらない、「屋上 立ち入り禁止」の紙が貼られた扉だった。ドアノブを掴んで押してみるが、鈍い感触が伝わるだけで、扉は開かない。鍵がかけられたらしい。
 こんな扉にオートロックが搭載されているわけがない。というより、直前まではスムーズに開閉していたのだ。念のためもう一度開けようとしてみるが、やはり鍵のかかっている手応えしかなかった。
 もう一度、貼られた紙を眺めてみる。そこには確かに「立ち入り禁止」と書かれていて、扉が開くほうが不自然だ。
 扉の上の、非常口を示すライトが点滅した。
 逃げるポーズを取っていた人間のマークだけが、そこから消えていた。