ぱちぱち鳴るハサミの音を追って廊下を駆ける。
途中で止まって耳を澄ませてみると、階段の上から聞こえているようだった。一段飛ばしで階段を駆け上がると、緑の明かりが見えた。非常口を示すライトで、避難中の逃げるポーズを取った人間がピクトグラムで描かれている。
その下にある頑丈そうな鉄扉には手書きのマジックで書かれた「屋上 立ち入り禁止」という紙が貼られていた。だが、ハサミの音は、この向こうから聞こえている。
ドアノブに手をかけてみると、軽い手応えと共に扉が開いた。どうやら鍵はかかっていないらしい。
屋上に一歩踏み出すと、空は緑がかっていた。青と緑の中間くらいの空の色は、なんとなく、あの田舎で見た木々や川を思い出す。
「……渉」
声をかけると、びくっと背中が揺れた。ついでに彼から生えている片方の翼も、ぶわっと羽毛が膨らんだ。
渉は屋上の柵の前に立って、校庭を見下ろしていた。陽光まで色づいているのだろう、渉の髪もいつもと違う色合いに見えた。一歩、一歩と近づいて、その隣に並び立つ。
「……悪かったよ、勝手に主役を譲って」
渉は顔も上げないし、返事もしない。だが性格的に無視もできないのだろう、クマの爪でこつこつと柵を叩いている。バッグを漁って、未開封のチョコの箱を差し出す。渉はちらっとこちらを見ると「これじゃなくてキノコのチョコがよかった」と文句を言った。こういうところは相変わらずだ。
「じゃあいらないんだな?」
「いらないとは言ってない」
「どっちだよ」
クマの手は、さっとサメのヒレに変わった。薄いそのヒレにチョコの箱を置いてやると、懐に抱きかかえるようにして回収された。俺に分けてくれる気はないらしい。
しばらくそのまま、ふたりで校庭を見下ろした。今日は野球部の連中が校庭を使っているらしい。野太い「ナイスボール!」という声が響いた。本来であれば、ここに富樫も加わって練習をしていたのだろう。
特にかける言葉もなく「ナイスなボールって感じだったな」と適当な感想を言ってみると、長いため息が返ってきた。「はあ~」としっかり発音した、怒っていますと言いたげなため息だった。
「直人、野球わかんないじゃん」
「ルールは全くわかってないけど、ボール投げるのが上手いのは分かる。速いから」
「あーあー、これだから文化系はー!」
嫌味ったらしく言っているが、渉だって今は美術部だ。
とは言え野球のルールが分からないのは事実だ。教えて欲しい、と頼むと、渉は二度目の「はあ~」を言ってから、カニのハサミで校庭を指さした。
「ほら、あの白い線わかる? その先にある、あの四角いのがベースね」
「ベース」
「あれをぐるーっと回ると点が入る。今バット持ってる奴は、とにかく打って一塁目指して走りたいわけ」
「なるほどな」
そういえば野球の試合で、ベースを踏んだ踏んでないで揉めている動画を見たことがある。しかしAIで作った動画だったらしく、最後は皆で踊り出すという突拍子のないものだった。ルールの知らない俺は「そんなもんか」と納得して、あとで渉に大爆笑されたのだった。
かん、と高い音が響いて白球が高く打ちあがる。が、遠くにいる選手がグローブで見事に受け止めてしまった。
「今のでアウト。落ちる前に捕られたら駄目なんだよ」
「なるほどな。二塁は抜かして走ってもいいのか?」
「……駄目に決まってんだろ!」
渉が座り込んで、ぐったりと柵に背中を預けてしまった。「今のはホームランか」と聞くと、「もうこの話やめよ」とばっさり切られてしまった。
そういえば渉は、教室でもこの言葉を言っていた。ハサミを大きく鳴らして、浮かれるクラスメイトたちを止めてくれたのだ。
「そういえば渉、怒ってたのか?」
渉が動きを止める。その手は、俺の渡したチョコの箱を開けようとしていたらしく、半端な位置で止まっていた。数秒経って、ぺりぺりと箱が開けられた。
「ま、怒ってはいたよ」
「そうだよな。ごめん、付き合ってもらったのに」
直人は夏休みを削ってまで、俺の練習に付き合ってくれていた。わざわざ空き家まで用意してくれて、朝から晩まで俺の稽古に時間を使っていた。半分ほどはふざけていたとはいえ、参考になる駄目出しも多かったように思う。俺がロメンナ役は、確かに渉のおかげでクオリティが上がっていた。
だというのに、俺は自分の言葉で、皆に「ロメンナ役を譲る」と宣言してしまったのだ。渉が怒るのも無理ない話だ。
俺も隣に座り込む。チョコの箱が開いたので手を伸ばそうとしたが、猫の前足でやんわりと押し返されてしまった。菓子に関しては、えらくガードが固い。
「めちゃくちゃ、怒ってはいるけど」
渉が低く呟いた。迫力ある低音というよりは、子供が拗ねたときのような声色だった。
「お前が怒ってないことに怒ってる」
「なんだそれ」
「言葉のままだろ」
がりがりとチョコを齧る音が聞こえる。隙をついてひとつチョコを奪ってみたが、今度は咎められることはなかった。
「怒ってるか怒ってないかといえば……怒ってはないけど」
「出たよ、人格者!」
渉の猫の腕が、ぶわっと逆立った。それから「道徳の教科書に載りたいのか」とか「聖人君子野郎」だとか、よくわからない罵られ方をしてしまった。最後のほうはもう思いつかなかったようで「いいやつ」とストレートな誉め言葉を告げられた。なんなんだ。
「……別に怒ってないだけで、思ってないわけじゃない」
「へー?」
「ただ、先に富樫も渉も怒ってくれたから。タイミング逃したってだけ」
「それは気持ち分かんなくもないけどさ」
チョコをつまんでいると、校庭から野太い悲鳴が聞こえてきた。渉と共に振り返って確認すると、野球部の持っていたバットは虹色に輝いていて、ボールは目潰しかというくらいに発光していた。こちらまで目がチカチカしてしまったので、また顔を戻す。渉も同じだったようで、瞬きを繰り返している。
「なんか視界に白いの残ってる。なにこれ、やば」
「残像だろ」
「いやいやめちゃくちゃ泳いでるって。オレの視界で、クラゲみたいなのが」
残像どころか、今の世界ではクラゲくらい泳いでいてもおかしくはない。というより、クラゲが空に浮かぶのは、夕暮れにたまに見かける光景だ。
口の中が甘くなってきたので、ペットボトルの水をひとくち飲んだ。渉に奪われるかとも思ったが、まだ「クラゲが増えた」と言って、目を擦っている。片方の腕は、柔らかそうなネズミの手に変わっている。
「……世界もなんか、変な感じになっちゃったよな」
ぼそっと呟くと、渉が手を止めた。ちょうど額のあたりにネズミの手があるので、ハムスターが毛づくろいをしているようにも見える。小さな手指が、遠慮がちに動いた。
「変な感じって?」
「いや全体的な話だよ。ペンギンが人を轢くなんて、小さい頃には聞かなかったし」
あの富樫でさえ轢かれて怪我をしたのだ。せめて小柄のイワトビペンギンならばと思うが、そういう問題ではないだろう。そもそもペンギンに轢かれること自体がおかしいのだ。
渉が再び毛づくろいを再開して、それからいつものカニの腕に戻った。
「まー、確かに間違ってるかもね」
「だろ? 山本だって生徒会室に閉じ込められたし」
「あー、そういえばあったね」
すっかり姿を見なくなった山本に、俺は何度か連絡を入れていた。あんな怯えた顔を見てしまっては、心配するに決まっている。「大丈夫か」とか「困ったことはないか」といった簡素な文面だったが、既読がつくのに一週間以上はかかった。あの合宿から帰った頃にようやく返事がきていたが「うん」の二文字だけで、具体的な状況はわからなかった。
渉は山本を心配しているのかしていないのか、カニのハサミを軽く鳴らしたり、ヤモリの腕でぺたぺたと柵を触るだけだった。一応俺たちは小学校から同じ仲だというのに、何も思うところはないのだろうか。
「お前、山本が心配じゃないのか」
「心配には心配だけど、俺が何かしたところで逆効果っていうかー?」
「薄情だな」
「直人が怒れないのと同じだよ。先に心配されちゃったらね」
その理屈を持ち出されると、少々弱い。渉が、言い負かしたとでも言うようにふっと笑みを浮かべた。その顔が妙に憎たらしくて、残りの菓子を一気に食べてやると「極悪人!」と、先ほどとは真反対な評価で怒られてしまった。
「……どうなっちゃうんだろうな、この世界も」
俺の呟きに返事はなく、渉は空を見上げていた。小学生の頃の面影もあるが、全体的にしっかりした体つきになっている。お互い様なのだろうが「大きくなったものだ」と、親戚の大人のような感慨にふけった。
途中で止まって耳を澄ませてみると、階段の上から聞こえているようだった。一段飛ばしで階段を駆け上がると、緑の明かりが見えた。非常口を示すライトで、避難中の逃げるポーズを取った人間がピクトグラムで描かれている。
その下にある頑丈そうな鉄扉には手書きのマジックで書かれた「屋上 立ち入り禁止」という紙が貼られていた。だが、ハサミの音は、この向こうから聞こえている。
ドアノブに手をかけてみると、軽い手応えと共に扉が開いた。どうやら鍵はかかっていないらしい。
屋上に一歩踏み出すと、空は緑がかっていた。青と緑の中間くらいの空の色は、なんとなく、あの田舎で見た木々や川を思い出す。
「……渉」
声をかけると、びくっと背中が揺れた。ついでに彼から生えている片方の翼も、ぶわっと羽毛が膨らんだ。
渉は屋上の柵の前に立って、校庭を見下ろしていた。陽光まで色づいているのだろう、渉の髪もいつもと違う色合いに見えた。一歩、一歩と近づいて、その隣に並び立つ。
「……悪かったよ、勝手に主役を譲って」
渉は顔も上げないし、返事もしない。だが性格的に無視もできないのだろう、クマの爪でこつこつと柵を叩いている。バッグを漁って、未開封のチョコの箱を差し出す。渉はちらっとこちらを見ると「これじゃなくてキノコのチョコがよかった」と文句を言った。こういうところは相変わらずだ。
「じゃあいらないんだな?」
「いらないとは言ってない」
「どっちだよ」
クマの手は、さっとサメのヒレに変わった。薄いそのヒレにチョコの箱を置いてやると、懐に抱きかかえるようにして回収された。俺に分けてくれる気はないらしい。
しばらくそのまま、ふたりで校庭を見下ろした。今日は野球部の連中が校庭を使っているらしい。野太い「ナイスボール!」という声が響いた。本来であれば、ここに富樫も加わって練習をしていたのだろう。
特にかける言葉もなく「ナイスなボールって感じだったな」と適当な感想を言ってみると、長いため息が返ってきた。「はあ~」としっかり発音した、怒っていますと言いたげなため息だった。
「直人、野球わかんないじゃん」
「ルールは全くわかってないけど、ボール投げるのが上手いのは分かる。速いから」
「あーあー、これだから文化系はー!」
嫌味ったらしく言っているが、渉だって今は美術部だ。
とは言え野球のルールが分からないのは事実だ。教えて欲しい、と頼むと、渉は二度目の「はあ~」を言ってから、カニのハサミで校庭を指さした。
「ほら、あの白い線わかる? その先にある、あの四角いのがベースね」
「ベース」
「あれをぐるーっと回ると点が入る。今バット持ってる奴は、とにかく打って一塁目指して走りたいわけ」
「なるほどな」
そういえば野球の試合で、ベースを踏んだ踏んでないで揉めている動画を見たことがある。しかしAIで作った動画だったらしく、最後は皆で踊り出すという突拍子のないものだった。ルールの知らない俺は「そんなもんか」と納得して、あとで渉に大爆笑されたのだった。
かん、と高い音が響いて白球が高く打ちあがる。が、遠くにいる選手がグローブで見事に受け止めてしまった。
「今のでアウト。落ちる前に捕られたら駄目なんだよ」
「なるほどな。二塁は抜かして走ってもいいのか?」
「……駄目に決まってんだろ!」
渉が座り込んで、ぐったりと柵に背中を預けてしまった。「今のはホームランか」と聞くと、「もうこの話やめよ」とばっさり切られてしまった。
そういえば渉は、教室でもこの言葉を言っていた。ハサミを大きく鳴らして、浮かれるクラスメイトたちを止めてくれたのだ。
「そういえば渉、怒ってたのか?」
渉が動きを止める。その手は、俺の渡したチョコの箱を開けようとしていたらしく、半端な位置で止まっていた。数秒経って、ぺりぺりと箱が開けられた。
「ま、怒ってはいたよ」
「そうだよな。ごめん、付き合ってもらったのに」
直人は夏休みを削ってまで、俺の練習に付き合ってくれていた。わざわざ空き家まで用意してくれて、朝から晩まで俺の稽古に時間を使っていた。半分ほどはふざけていたとはいえ、参考になる駄目出しも多かったように思う。俺がロメンナ役は、確かに渉のおかげでクオリティが上がっていた。
だというのに、俺は自分の言葉で、皆に「ロメンナ役を譲る」と宣言してしまったのだ。渉が怒るのも無理ない話だ。
俺も隣に座り込む。チョコの箱が開いたので手を伸ばそうとしたが、猫の前足でやんわりと押し返されてしまった。菓子に関しては、えらくガードが固い。
「めちゃくちゃ、怒ってはいるけど」
渉が低く呟いた。迫力ある低音というよりは、子供が拗ねたときのような声色だった。
「お前が怒ってないことに怒ってる」
「なんだそれ」
「言葉のままだろ」
がりがりとチョコを齧る音が聞こえる。隙をついてひとつチョコを奪ってみたが、今度は咎められることはなかった。
「怒ってるか怒ってないかといえば……怒ってはないけど」
「出たよ、人格者!」
渉の猫の腕が、ぶわっと逆立った。それから「道徳の教科書に載りたいのか」とか「聖人君子野郎」だとか、よくわからない罵られ方をしてしまった。最後のほうはもう思いつかなかったようで「いいやつ」とストレートな誉め言葉を告げられた。なんなんだ。
「……別に怒ってないだけで、思ってないわけじゃない」
「へー?」
「ただ、先に富樫も渉も怒ってくれたから。タイミング逃したってだけ」
「それは気持ち分かんなくもないけどさ」
チョコをつまんでいると、校庭から野太い悲鳴が聞こえてきた。渉と共に振り返って確認すると、野球部の持っていたバットは虹色に輝いていて、ボールは目潰しかというくらいに発光していた。こちらまで目がチカチカしてしまったので、また顔を戻す。渉も同じだったようで、瞬きを繰り返している。
「なんか視界に白いの残ってる。なにこれ、やば」
「残像だろ」
「いやいやめちゃくちゃ泳いでるって。オレの視界で、クラゲみたいなのが」
残像どころか、今の世界ではクラゲくらい泳いでいてもおかしくはない。というより、クラゲが空に浮かぶのは、夕暮れにたまに見かける光景だ。
口の中が甘くなってきたので、ペットボトルの水をひとくち飲んだ。渉に奪われるかとも思ったが、まだ「クラゲが増えた」と言って、目を擦っている。片方の腕は、柔らかそうなネズミの手に変わっている。
「……世界もなんか、変な感じになっちゃったよな」
ぼそっと呟くと、渉が手を止めた。ちょうど額のあたりにネズミの手があるので、ハムスターが毛づくろいをしているようにも見える。小さな手指が、遠慮がちに動いた。
「変な感じって?」
「いや全体的な話だよ。ペンギンが人を轢くなんて、小さい頃には聞かなかったし」
あの富樫でさえ轢かれて怪我をしたのだ。せめて小柄のイワトビペンギンならばと思うが、そういう問題ではないだろう。そもそもペンギンに轢かれること自体がおかしいのだ。
渉が再び毛づくろいを再開して、それからいつものカニの腕に戻った。
「まー、確かに間違ってるかもね」
「だろ? 山本だって生徒会室に閉じ込められたし」
「あー、そういえばあったね」
すっかり姿を見なくなった山本に、俺は何度か連絡を入れていた。あんな怯えた顔を見てしまっては、心配するに決まっている。「大丈夫か」とか「困ったことはないか」といった簡素な文面だったが、既読がつくのに一週間以上はかかった。あの合宿から帰った頃にようやく返事がきていたが「うん」の二文字だけで、具体的な状況はわからなかった。
渉は山本を心配しているのかしていないのか、カニのハサミを軽く鳴らしたり、ヤモリの腕でぺたぺたと柵を触るだけだった。一応俺たちは小学校から同じ仲だというのに、何も思うところはないのだろうか。
「お前、山本が心配じゃないのか」
「心配には心配だけど、俺が何かしたところで逆効果っていうかー?」
「薄情だな」
「直人が怒れないのと同じだよ。先に心配されちゃったらね」
その理屈を持ち出されると、少々弱い。渉が、言い負かしたとでも言うようにふっと笑みを浮かべた。その顔が妙に憎たらしくて、残りの菓子を一気に食べてやると「極悪人!」と、先ほどとは真反対な評価で怒られてしまった。
「……どうなっちゃうんだろうな、この世界も」
俺の呟きに返事はなく、渉は空を見上げていた。小学生の頃の面影もあるが、全体的にしっかりした体つきになっている。お互い様なのだろうが「大きくなったものだ」と、親戚の大人のような感慨にふけった。
