誤差、或いは。

 お昼休みを告げるチャイムが鳴り響いた。クラスメイトがばらばらに散って、なんとなくいつもの場所に固まっていく。六月下旬ともなれば、新しいクラスのメンバーもなんとなく固定されていく。俺は自分の席で弁当箱と、台本を取り出した。
 隣の席に座った渉が、猫の前足を持ち上げて「ロメンナ直人くん」と、俺を指した。お笑い芸人みたいな呼び方はやめて欲しい。わざと無視をすると「ロメンナくん」と、役のほうで俺を呼び直す。今日も変わらず、絡み方が鬱陶しい。
「で、セリフは覚えられたの? 主役ってめちゃくちゃ多いじゃんセリフ」
「これくらい覚えられるよ」
「そ? オレは自分のセリフだって怪しいけど」
 渉に与えられているのは、村人Cの役だ。「奇妙な呪いじゃ!」の一言しかないくせに、何がどう怪しいのだろう。というより、渉の腕のほうが奇妙なはずなのだが。
 弁当箱のフタを開けると、らくがきみたいな猫の顔と目が合って「げっ」と声が出た。顔は細く切った海苔で象られて、鮭フレークでうっすら頬が赤くなっている。
「おー、相変わらず直人のママすっごいなー!」
 身を乗り出した渉が覗き込んでくる。女児ならば喜ぶだろうが、俺はもう高校2年生だ。キャラ弁なるファンシーな昼食を机に置いて「いただきます」をした。
「一応言うけど、俺の趣味じゃないから」
「知ってる知ってる。直人ママ、美人で料理も上手いって最高じゃんか」
「美人じゃないしSNSのためだよ。今朝も色んな角度から撮ってたし」
「いーじゃん、インフルエンサーママ。でも羨ましいよ」
 渉もビニールをがさがさやって、コンビニ弁当を取り出した。講堂に行けば電子レンジが使えるはずだが、何故か「冷たいほうがおいしい」と言い張ってそのまま食べている。まあいつもコンビニ弁当の渉からしたら、手作りというだけで羨ましいのだろう。
 渉は両親の話を一切しない。ただ小中学生のときから俺の家で食べていくことが多かったので、何かしらの事情はあるのだろう。
 渉の弁当には、揚げ物やハンバーグが詰まっている。プラスチックのフタに貼られた「増量」の通り、すごいボリュームだ。すらりとした体型であるのに、渉はよく食べる。ついでに顔も整っているので、他校の女子に声を掛けられることも多く、男子校の俺たちは「裏切り者!」と罵声を浴びせたものだった。まあ、不思議な腕のせいで女子との付き合いは長続きしないようだったが。
 その奇妙なカニの腕が、ぬっと動いて――
「おい、カニの腕を箸代わりにすんなよ!」
「え、これ使いやすいんだよ」
「だって素手みたいなもんだろそれ」
 渉はすました顔で、カニのハサミを使ってハンバーグを切り分けた。今年から同じクラスになった連中は、まだ渉に慣れていないようで「うおっ」と声が聞こえてきた。当然だ、冷静に見れば普通におかしい。
 やめろと止めると、今度は右腕が木になった。割り箸だって木なんだからという主張だったが、それは絶対に理屈が通ってない。
「あの、いいですか。そこ」
 俺たちのくだらない言い争いをぶった切ったのは、クラスメイトの山本だった。優等生を絵に描いたような彼は、黒縁の眼鏡をぐっと中指で押し上げて俺たちを見下ろした。
「僕の席ですから、そこ」
「あ、ごめんごめーん」
 指摘された渉はぱっと立ち上がると、イモリの手でコンビニ弁当をぺたりと持ち上げながら、俺の後ろの自席へと戻っていった。そういえば渉は、山本の席に勝手に座っていたのだった。
「……別に座ってるのに文句がある訳じゃないんですよ。いやそんな小さなこと気にはしてないよ。別にね。でも今日はちょっとノート取りたいだけで、僕が去ったら全然座ってていいですし」
 山本はぶつぶつ言いながら、席からノートを取り出している。回りくどい喋り方は、昔からの彼の癖だ。つるんでいるわけではないが、山本もまた小中高と一緒で、それなりに知った仲だった。
「つまり、ノート取る時だけどいてくれってこと?」
「うん。そういうこと……うわっ!?」
 山本が情けない悲鳴を上げた。彼の背にはタコの足がぺったり触れて、動くたびに吸盤でシャツが引っ張られている。やめてやれとタコの足を叩いて止めると、可愛い猫の前足に変わった。
「くっ、日下部! そういうのはやめろって言ってるだろ!」
 張本人たる渉は平然としているが、山本のほうは、シャツはめちゃくちゃになっているし、眼鏡も斜めになっていて可哀想な有様だった。
「えー? コミュニケーションだしー?」
「僕はっ、そういうのは良くないと思っている! 昔から思っていた! どうして改善する気がないのかと、呆れ果てるばかりで……」
 慌ててずれた眼鏡を直しているが、その眼鏡が伊達メガネであることは知っている。ついでに一人称だって「僕」ではなく「俺」なはずなのに、高校からは優等生キャラに転身したらしい。
 右腕を大きな翼に変えた渉が、ばっと大きく羽を広げた。
「こんな間違った世界でも、オレは人の輝きを信じている!」
 タカなのかワシなのか、恐らく猛禽類のしっかりした羽がばさばさ揺れる。風圧で前髪をふわふわ浮かせた山本が、ああと頷いた。
「それは日下部ではなく、ロメンナのセリフですね」
「そーそー、ロメンナ直人くんのね」
 もう呼び方にツッコミを入れる気力もなく、俺は自分の弁当に描かれた猫の鼻先を箸で崩した。
 今回のクラス劇である『呪いの英雄』の主人公・ロメンナの決めゼリフだ。足に呪いを受けたロメンナが村人たちに迫害されるも、まだ人々の優しさを信じて旅に出る――といった感動的なシーンだ。ちなみに山本は村人Bで、セリフは「なんと!」だけなので、渉よりも短い。
「とっ、とにかく。僕はもう行きますから。日下部はそういうのやめろよ」
 最後は素に戻りながら、慌てて山本が去っていった。
「……渉。あんま山本からかうと可哀想だろ」
「からかってないよ。あれは親愛のコミュニケーション」
 渉が人に嫌がらせをするタイプでないのは、俺がよく知っている。多分、昔なじみの山本のことをそれな りに気に入っているのだろう。
 なんとなく空気が落ち着いて、互いに弁当を食べ進める。俺の弁当にいた猫は、もうひげしか残っていない。
 風が吹き込んできて、教室の白いカーテンがわっと膨らんだ。そのまま広がったカーテンは、のり付けされたみたいに天井にぴったり張り付いて、一カ所の蛍光灯を覆ってしまう。いつ剥がれるのだろうかと十秒ほど見詰めてみるも、動く様子はない。教室のざわめきは変わらず、楽し気な笑い声が響いている。こんな小さな不思議なことは、誰もが気にしない世界になっていた。
「ねーねー、直人。見て見て」
 弾んだ声の渉が、カニの腕を持ち上げて見せた。
「カニのハサミがはさむ、カニクリームコロッケ!」
「ああ、そう……」
 少しでも意識を向けた自分に後悔した。渉といると力が抜けて、なんだか世界の輪郭がぼやけるような気がする。笑いが取れなくて不服なのか、コロッケを静かに食べたあとに、今度は何かのヒレのようなものでぺちんと叩かれた。
「今のは笑うとこだったのにさー?」
「ネタが微妙過ぎなんだよ、っていうかなんだそのヒレは」
「ヒレじゃない、ペンギンの翼」
 薄いその翼を握ってみると、鱗のような硬い羽毛が密集していて、何かの板を握っているかのような硬さがあった。少し魚のような生臭さもある。まじまじと眺めて表面を撫でていると、表面の羽毛がざわざわと逆立っていく。あっと思ったときには茶色い毛に覆われて、むくむくと膨れて太いクマの腕に変わった。うおっと声を上げてのけぞると「山本よりも声でかい」とけらけら笑われた。
「クマはやめろほんとに。危ない」
「いやー、直人いい反応するからさ。山本もだけど」
 リアルなクマの腕が楽しげに振られて、爪が宙を切り裂いている。あの爪に少しでも引っ掻かれたらと思うと、少し、いやかなり怖い。
 よく考えてみれば、渉が腕を使って誰かを傷つけることは容易だ。そんな凶暴なことを思いつくようには見えないが、すごい友人を持ったものだと思う。
 熊の腕が、ぴたりと止まる。渉が「あっ!」とわざとらしい声を上げたあとに、こちらに悪戯っぽい視線を向けた。
「オレ思い出したんだけど! 直人さあ、あのときも」
「ああ、保健室連れてったときな」
「……は、なんで分かった!? 心読まれた!?」
 いつも出る話題だから当然だろう。こちらはもう何百回と聞かされているので、もうお腹いっぱいだ。