誤差、或いは。

「どういうことなんだよ!!」
 夏休み明けの教室に、富樫の叫びが響き渡る。あまりの声量に空気が震えて、クラス中がしんと静まり返ってしまうほどだった。富樫は「なんでだよ」と低くつぶやき、また「おかしいだろう!」と感情を爆発させた。
 クラスメイトたちは、俯いたり視線を逸らしたり、スマホを触ったりして、何とかこの空気をやり過ごそうとしている。だがそんなことで、怒り狂った富樫が止まるわけがない。
「……オレがロメンナ役になったって、意味わかんねぇだろ!」
 黒板には新しいチョークの白文字で【ロメンナ役 富樫 剛】としっかり書き記されていた。
 富樫が松葉杖を振り上げる。彼が主役になった理由は、すべてそれにあった。

 夏休みが明けての騒がしい教室に、富樫は松葉杖をついて登場した。剛健な富樫と松葉杖という取り合わせはアンバランスで、クラスは大騒ぎになった。
 聞けば富樫は、夏休みの最終週に事故に遭ったという。いつものように野球部の練習を終えた帰り道、信号待ちしているところでコウテイペンギンの群れが富樫へ突っ込んできた。逃げるには赤信号の道路に出るしかないが、真面目な富樫がそんな違反をするわけがない。どうしようかと迷っているうちに、ペンギンの群れに轢かれて転倒したという。ペンギンといえど、コウテイペンギンは1メートル以上もあるし体格もいい。擦り傷を負って足を折ったというが、治る怪我で本当に良かったレベルだ。
 ペンギンに轢かれるというコミカルさよりも、富樫の見た目の痛々しさが勝っていたので、教室は悲痛な空気に包まれていた。怪我に加えて、富樫は野球部の試合にも出られなくなったという。夏休みも毎日部活に出て練習していたというのに、高2の最後の試合を逃す。運動部に入っていない俺でも、その悔しさは痛いほど分かった。
 当の富樫は「ペンギンに轢かれるなんて一生にそうない」と言って笑っていたが、必死に笑顔を作っていることが誰の目にも明らかで、それがまた彼の痛々しさを際立たせていた。
 そして放課後、緊急でクラス会議が開かれた。
 一部の生徒たちで、もう話がまとまっていたのだろう。クラスメイトの一人が黒板の前に堂々と歩み寄り、『ロメンナ役』と『富樫 剛』の名をしっかりと書きつけた。そして俺たちのほうを振り返って、やはり自信満々な口調で言うのだ。
 主役のロメンナ役を、富樫に譲ったらどうか、と。
 俺は驚きすぎて言葉も出なかったが、クラスの皆は「いい考えだ」と大盛り上がりだった。
 確かに理屈は通っている。ロメンナは足に呪いを受けて歩けないという設定だ。今の富樫の状態とも合っていて、例え松葉杖をついて舞台に立ったとしても不自然ではない。富樫の演技力は皆が認めるほどなので、主役にもぴったりだ。
 そしてここに、感動的なエピソードが追加される。
 怪我をした富樫と、元主役が役を交代するのだ。ロメンナは悪役のヴァルゲイン役となり、悪役は正義側のロメンナとなる。これほどドラマ性のある物語はないだろう。感動の瞬間を期待して、クラスメイトたちが俺に詰め寄る。
 交代してやってくれ。富樫は可哀想なんだから。それに高橋、正直なところ演技はあんまりだし。なあ頼むよ。友だちなんだろう? たかがクラスの劇なんだし。
 クラスメイトが口々に俺に言葉を投げかけた。
 皆の目はきらきらと輝いている。何も間違っていないとまっすぐ信じている、正義を映した瞳だった。
「……どういうことなんだよ!!」
 そして声を上げたのが、張本人の富樫だった。松葉杖が振り回されたので、クラスメイトが彼から距離を取った。
「オレは納得していない、憐れまれて譲られるなんて不愉快だ!」
 やはり富樫の美学では許されないことだったらしい。それもそうだろう。富樫は自分の都合で役を譲れと迫ったわけではなく、俺の演技に不満があったというだけだ。夏休み明けのオレの演技を見るとも言っていた、フェアな奴なのだ。
 クラスは静まり返っていたが、それでもやはり富樫に主役をやって欲しそうな雰囲気があった。皆が俺の返事を待っているのが分かる。
 あれだけ練習したのだから、俺だってやりたいと思っている。
 散々練習をしてきた上に、二週間も合宿をしたのだ。
 ――だが。
【ロメンナ役 富樫 剛】
 黒板に書かれた名に視線を向ける。
 これがクラスの総意だ。俺が自分を通したところでクラスの雰囲気は最悪なことになるだろうし、上手く歩けない富樫だってヴァルゲイン役から下ろされることになる。ただでさえ富樫は部活にも出られないのだ。内申点にだって響く可能性はあるだろう。悲しむ奴の人数を考えたら、俺が選べる道はひとつだ。
「……わかった。ロメンナ役は富樫に譲る。頼んだ」
 わっとクラスが大盛り上がりをした。怪我をしたクラスメイトに、主役が譲られる。誰かが「撮っとけば良かった」なんて呟いているので、周りから見ても感動的なシーンだったのだろう。主役の座を奪われた俺がここで見せ場を作られるなんて、なんとも皮肉なものだ。
「お前はそれで本当にいいのか、高橋」
 張本人である俺が譲ったからか、富樫は勢いを失っていた。
「いいよ別に。多分お前のが上手いだろうし」
 流石に富樫もそれ以上は言えないのか「ありがとう」と小さく返ってきた。本当は富樫自身も、自分の足のことで落ち込んでいたのだろう。少しでも救いになるのならいいが。
 クラスはもう「これを裏話として発表しようか」とまで盛り上がっている。勝手なものだ。
 カーテンがばさばさと不自然な動きで揺れて、蛍光灯のひとつが赤や青に色を変えて点滅している。ちょうど富樫の上の電気だったので、彼がカラフルな舞台照明に照らされているようにも見えた。
 クラスがわあわあと盛り上がる中で、そういえば山本がいないと考える。生徒会室に閉じ込められたあの一件から姿を見かけていないが、夏休みが明けたというのに復帰できていない。彼と仲の良かったクラスメイトは寂しがっているのかもしれないが、そういえば今日は話題にもあがらなかった。
 山本が来なくなる。主役が変わる。そんなのはクラス全体から見れば些末なことだったのだろう。
 ざわめきが大きくなる。富樫は体格がいいから衣装は特注だ、と誰かが言うとひと笑いが起こった。クラスにとっての正しい日常に戻るのは、簡単だ。なんともなしに揺れるカーテンを眺めている、その時。
 ぱあん、と鋭い音が響いた。
 教室が静まり返る。
 音の主は、カニの片腕を上げていた渉だった。皆が黙って渉を見詰めている。今度は小さめに、ぱん、とカニのハサミが鳴る。渉はいつもの胡散臭い笑顔を浮かべている。
「もういいでしょ、この話」
 静かな教室に、渉の声がはっきり響いたようだった。カニのハサミだけがぱちぱち音を立てている。
 一度カーテンが膨らんで、それから静かになる。
 渉がこちらに顔を向けた。だが、視線が合ったのかもわからない程度の早さで、さっと顔が逸らされてしまう。
「おい、渉……」
 声をかけたが、渉は素早く立ち上がって「お先ー」と、早足で教室を去っていってしまった。ぱちぱち聞こえる音が、少しずつ遠くなっていく。取り残された俺たちは数秒ほど固まってしまい、そのあとで顔を見合わせる。弾かれたように立ち上がったのは、俺だけだった。
「俺も帰る! あとは皆で決めといて!」
 バッグを引っ掴んで、慌てて渉を追って駆け出した。後ろから「待て!」と叫ぶ富樫の声が聞こえたが、あいつは足を怪我しているので好都合だ。遠くから「話は終わってない!」と声だけが追ってくるが、見事な声量に『やはり富樫こそが主役に向いている』と、深く納得したのだった。