誤差、或いは。

 あれこれ話しているうちに、バスが来るまで残り五分となった。こういった場所は時間通りではないにせよ、忘れられることはないだろう、多分。
 途中に何度か、バスが来たと思って立ち上がったが、それは滑って通過するだけのコウテイペンギンだった。なんとも紛らわしい。
 隣でかしゃっと軽い音が響いた。渉が自然いっぱいの風景を、スマホで撮影していた。相変わらず圏外ではあるが、俺も真似て景色を収めておく。思い出を画像で残すタイプではないのだが、あとで両親に見せる用だ。渉はそれさえも見透かしていたようで「直人ママと直人パパによろしく」と笑って、自分を入れて写真を撮れとまで要求してきた。清々しくなるほどの無遠慮さだ。
 渉は俺の撮影に「なんでお前が撮るとブレるんだよ」と怒ってリテイクを出し、次は「指を入れるな」と叱られ、13テイクほど撮り直してようやく納得できる写真になったようだ。俺はこの合宿で、撮影技術まで向上したらしい。
「直人っ! その写真送って、今送って!」
「ここ圏外だから無理だ」
「おじいちゃんかよお前。スマホ同士なら画像直接送れるんだよ」
 渉が俺のスマホを奪って、勝手に画像を送信していた。文句を言いたいが、こういった機械の扱いは渉のほうがずっと得意だ。あれこれとスマホをいじって、ようやくスマホを返してくれた渉が、深く息を吐いた。
「早く戻らなきゃなー」
「戻るっていっても、移動であと十四時間はかかるだろ」
 渉が大きく伸びをする。彼の人間の腕の二倍の長さで、タコの腕が空に向かって伸びている。妙な形をした影が、道に伸びている。
「戻らなきゃ」
 今度ははっきりと発音した。瞬間、わっと風が吹きつけたので、渉の表情はわからなかった。風に流されてきたシャボン玉が、一斉にぱちんと弾けて消えた。
 それからなんとなくの無音が落ちた。何度も向きを変えて吹く風を浴びていると、ふと遠くに黒い影が見えた。またペンギンかと思ったが、今度は影が大きくなってくる。
「あっバスだ! おーい!!」
「呼ぶなバスを」
 渉は救助船が現れたかのように、元気に跳ね回って両手を振っている。とにかくテンションが高すぎる。その片腕も、クマの腕になったり、鳥の翼になったりと忙しい。
 俺はベンチに座ったままで、もらった石を片手で握ってみた。角があってざらついている、適当に拾ったというだけあって、何の変哲もない石ころだった。飴を転がすように手のひらで何度か角度を変えたあとに、立ち上がる勢いでそのまま放り投げた。
 石は、道の真ん中を転がったあとに、不自然に動きを止めた。そして地面を這うように、ゆっくりと戻ってくる。
 その石はいつの間に手足が生えていた。
 短い手足を動かして、こちらに近づいてくる。
 見覚えのある動きでざわざわと動くそれは、サワガニだった。
 横向きになってこちらに向かってくるサワガニは、残り数メートルというところで動きを止めた。時折震えるように手足が動いて、日に照らされた茶色い身体はちかっと光る。 
「あっ現金だけですよねー。二人分の荷物もー……」
 渉の声が聞こえてきたので、はっとしてそちらを見遣る。もうバスは停まっていて、運転手のおじさんが渉の荷物を受け取っているところだった。俺も慌てて駆け寄って、トランクを手渡した。行きとは違う運転手の人だ。
 再び道へと目を向けてみるが、サワガニはもう姿を消していた。手のひらに残ったざらついた感触を振り払うように、拳を握る。
「今日も貸し切りだー!」
 はしゃいだ渉の声につられて、俺もバスに乗り込んだ。相変わらず冷房はきいておらず、行きでダメージを受けた尻の痛みを思い出した。
 バスがぶるりと揺れて動き出す。さっそく菓子の袋を開け始める渉を横目に、窓の外に視線を投げる。やはりサワガニはそこにはいなかった。あれは何だったのだろうと考えるよりも早く、口にキノコのチョコ菓子が突っ込まれたので有耶無耶になってしまった。まあこれだけ不思議なことが起こるのだ、今さら考えても仕方のないことだろう。
 
 ともあれ、この景色を見るのも最後だ。たっぷり稽古もしたし、サバイバルのような日々も越えた。
 やはり尻にダメージを受けながら、俺たちの合宿は慌ただしく幕を閉じたのだった。