誤差、或いは。

 風が吹き込んできて、雨がばらばらと身体にかかった。夏の雨は生ぬるい。スコールのような雨が降っているのに、相変わらず雨音はしない。
 俺たちは向かい合ったままで、黙り込んでいた。
 なんと言っていいのか分からずに、俺のほうから口を開く。
「……仕方ないだろ」
 渉が顔を上げたが、やはり視線は合わない。
「お前に殺意があったとかじゃないし、熱出て無意識だったんだろ? なら仕方ない……」
 殺意、と声に出してみて、ひやりと背中が冷たくなって、続ける言葉は小さくなってしまった。
 俺はこの友人に、殺されかけたらしい。あの触手のような手で。
 気が遠くなりそうだったが、当の本人のほうがショックを受けているのだろう。小さく「うん」と「ごめん」を二回ずつ言ったあとに、また俯いてしまった。
 ぐにゃりと室内が歪む。腰を下ろした床は肉にでも変わってしまったように、柔らかくなった。咳払いをしてみると、その歪みはすっかり消えた。
「だから、大丈夫だ」
 言葉を続けてみても、曖昧な相槌しか返ってこない。
 渉はどこか心細そうな、迷子になった子供のような顔をしていた。
 この顔はどこかで見たことがある。いつも渉が嬉々として話している、あのプール事件のときだ。プールサイドから引き上げた小学四年生の渉も、こんな迷子のような表情をしていた。
 咄嗟に俺は、そのイカの足を掴んだ。渉が「え」と間の抜けた声を洩らした。吸盤が手のひらに張り付いているのか、妙な感触だ。
 渉と、まっすぐ目が合った。そうだ。プールサイドに渉を引き上げた時も、こうして視線がぶつかったのだった。妙に真面目くさった空気に耐え切れなくなったのか、渉がふっと息を漏らした。つられて俺の口元も緩む。そしていつもの如く、肩を揺らして大笑いを始めた。
「……っあははは! あーもー、変わんないよなぁ、直人」
「お前だって変わらないだろ。昔からその笑い方」
「そりゃ昔から、直人が笑わせるからね」
 なんという責任転嫁だろうか。イカの足は、気づけば猫の前足に変わっている。握手の要領でぎゅっと掴むと、さらに渉が笑った。
「笑いすぎだろ。というか、一応病人なんじゃないのか」
「そうだったけど治った。いやー、笑うと治るもんなんだね」
「色々間違ってるだろ、お前は」
 めちゃくちゃな理屈ではあったが強がりではないようで、渉の顔色はすっかり良くなっていた。さらに「シイタケ食べたい。直人が焼いたやつ」と図々しいことまで言っている。
 ただ、いつもと変わらない友との空気に安堵していた。
 猫の肉球はひんやりして気持ちいい。俺はなんとなく、その手を離す気にはなれなかった。