誤差、或いは。

 布団に寝かせてやると、渉の呼吸は一気に苦し気なものになった。荒い呼吸に合わせて、毛布が大きく上下している。熱があるのならばと、青いラベルのスポーツ飲料を手渡すと、仰向けのままで器用に飲んで半分ほど減らした。そのあとにはペットボトルを腹にこつこつとぶつけていたので、彼のあの右腕は恐らく、ラッコなのだろう。
「あー、オレ、病気って思うと、病気になるタイプー」
 切れ切れに、なんだかわけの分からないことを言っている。まあ適当なこと言える元気くらいはあるのだろう。
 まだ日は高いが、この調子では最終日まで稽古は中止だろう。体温計がないので分からないが、多分渉は高熱を出している。室内全体がぐにゃりと歪んだ気がしたが、またすぐに元の状態に戻った。
 スポーツタオルを絞って、彼の額に乗せてあげた。本当は氷枕や氷嚢があるといいのだが、そんな気の利いたものはおいていない。
「おっ、デコ冷やし」
「喋らずに寝てろ。必要なものある時だけ言えよ」
 同時に、スマホがぽんと軽い音を立てた。ほぼ圏外の家ではあるが、ごくまれに電波が入るらしいのだ。昨晩送られた母からの連絡が、今になって届いたようだ。両親共に元気に過ごしているらしいことと、俺たちを応援すること。それから土産をたくさん買ったという報告だった。一緒に送られた写真には、キャラの耳をつけた両親の姿があった。着ぐるみの犬が中心に立っていて、父と母それぞれと肩を組んでいる。外国のテーマパークを随分と楽しんでいるらしい。
「あ、直人ママからー?」
 渉がもぞもぞとこちらに身体を向けたので、スマホの画面を見せてやった。こうも満喫している両親を見せるなんて恥ではあるが、渉相手ならば今さらだ。
 渉はじっとその写真を眺めたあとに、弾けるように笑い出した
「あっはははは! やっぱサイコー、直人ママと直人パパ」
「その呼び方やめろって」
 昔から渉は、俺の両親に懐いていた。家に帰ったら俺の母と夕飯づくりに勤しんでいたこともあるし、父とふたりきりで釣りに出掛けたこともあった。仏頂面の俺と違って、明るく人懐こい渉は、両親から見ても可愛かったのだろう。
「……渉の両親も、そんな感じなのか?」
「んんん?」
 ちょうどペットボトルに口をつけたところだったらしい。「ごめん」と言うと、中身を一気に飲み干したあとに口を開いた。
「あー、オレの両親ってこと?」
 今まで渉の両親の話を聞いたことがない。なるべく平静を装いながら「そうだけど」と話を促す。渉はタコの腕でペットボトルを掴むと、にゅっと伸ばして部屋の端に立てかけた。
「いないよ」
「留守がちとか、そういう?」
「そうじゃなくて、いない」
「……その、会えない状態ってことか?」
 慎重に『死ぬ』というワードを避けて聞いてみたが、渉は首を傾げている。
「いや、最初からいない」
 施設で育っただとか、俺の知らないもっと複雑な事情があるのかもしれない。これ以上聞くのはまずいと察して「そうか」と話を打ち切った。どんな生い立ちであろうと、渉が渉であることは変わらない。
 それから俺は、つきっきりで渉の看病をした。と言っても、こんな場所ではどこに行くこともできないからだ。幸いにも俺が薬を持ってきていたので、凌ぐことくらいはできそうだ。
 買ってきたリンゴをウサギの形にして渡してやると、嬉しかったのかまた大笑いしていた。体調が悪いと、笑いに転じるタイプらしい。楽しそうで結構だ。
 寝ろと言っても聞かない渉だったが、夕方に差し掛かってくると、だんだんと言葉少なになってきた。薬もきいているのだろう。
 空気を入れ替えようと、建て付けの悪い窓をガタガタ鳴らしながらこじ開けた。夕陽が差し込んで、さっと湿った空気が入って来る。
 外は、強い雨が降っていた。
 地面も木々も白く煙っているのに、ただ音だけがしない。
 わざとらしいほど不自然な無音があたりを支配していた。
 おかしな状況を渉と共有したいと思ったが、静かに眠らせてあげるべきだ。ちらっと渉の様子を窺うと、もう目を閉じていた。テンションだけは高かったが、やはり衰弱していたのだろう。
 だんだんと日も落ちてくるので、部屋にロウソクを灯した。丸い明かりが部屋を柔らかく照らしてくれる。この2週間近くで、原始的な明かりにも慣れてきた。
 やることもないので、俺はいつものように台本をめくった。もうすべての流れを覚えているので、流し読みだ。裏表紙まで辿り着くと、俺が書いた『高橋直人』の名の前に『主役は絶対!』と書き足されている。あまりにもひどい落書きだ。しかもボールペンでやっている。
 渉が元気になったら文句を言おうと決めて、俺もごろりと横になった。窓から時折吹き込んでくる雨は生ぬるく、心地良い。雨音のしない雨の中で、俺も少し休もうと目を閉じた。