誤差、或いは。

 残すところ、合宿はあと三日間になった。バスが来る間隔が三日おきなので、絶対に逃してはいけないと、何度も渉と日時の確認をした。三日後の正午に来るバス。必ずこれに乗るつもりだ。
 今日も朝から、俺たちは稽古に励んでいた。夏の日差しを浴びながら、大袈裟に疑似舞台の上を歩き回る。途中突っ込んできたペンギンの群れに転ばされそうになったが、通し稽古は滞りなく進んでいた。
「俺は、この正しい世界で生きるのだ!」
 ラストのセリフも上手く決まった。皆の拍手が響くところまで見える。
「……今回のはいいんじゃないか?」
 珍しく俺のほうが浮かれたことを聞いていた。今回は本当に、手応えがあったのだ。
 渉は俺の台本に目を落としたままで、じっと動かない。いつもであれば「はいカット!」なんてカニのハサミをぱちんと鳴らして、偉そうな駄目出しの時間が始まるというのに。
 しばらく待ってみたが、やはり渉は動かなかった。
「おい渉、感動しすぎたか?」
 心配をギャグに乗せながら渉の肩を掴むと、びくっとその身が揺れた。彼の片腕は猫の腕になっていたが、毛が逆立っているし、爪もしっかり伸びていた。
 わっとシャボン玉が吹きあがって、景色を埋め尽くした。赤っぽいシャボン玉なのか、辺りはうっすらと赤く染まっているように見えた。
「……渉?」
 ゆっくりと渉が顔を上げた。その顔はいつもの彼のものだったが、なんだか顔色が悪い。青褪めていた山本の顔色を連想するほどだ。
「お前大丈夫か? すごい顔色してるけど」
「あー、うん? うん、大丈夫大丈夫」
 いつもの『大丈夫』とは違って、違和感がある。どうにも元気がないようだ。
 渉はぼんやりした様子で空を見上げると、次いで俺の顔を見る。それから大人しく台本を手渡してくれる。
「いいんじゃない? これなら富樫も文句言えないレベルだって」
 素直すぎる感想に、恐ろしささえ感じる。いつもであれば大騒ぎであるはずなのに。
 渉のタコの腕は「気をつけ」の格好でだらりと下ろされており、大人しいままで動かない。タコの腕はいつもと違って白っぽくも見えて、まだらの模様が浮かんでは消えてとゆっくり明滅している。
 明らかに、何かがおかしい。
 渉の前髪をよけて額に手を当ててみる。
「……っ渉! お前熱あるだろ!」
 顔色は真っ白なままなのに、手のひらは焼けそうなほどに熱い。当の渉は「えー?」と首を傾げているが、明らかに発熱している。
「まあそれはともかくさ、午後の稽古はラストシーン中心に……」
「できるわけないだろ!」
 寝ぼけたことを言う渉を引きずるようにして、俺たちは室内に戻ったのだった。