「今、口パクで練習してなかったー? 直人は真面目だなー!」
後ろの席から、聞き慣れた渉の声が聞こえた。10分休みに、俺がなんともなしに口パク練習をしていたのがばれていたらしい。背中を硬い何かでこつこつ突かれたあとに、今度は何か柔らかいもので肩を叩かれる。意識的に無視していると、べたりと濡れたものが半袖の腕に貼り付いたので、ようやく振り返った。
後ろの席に座る日下部渉(くさかべわたる)は、ニヤニヤと笑って俺を見詰めている。彼の右腕は肩からタコの腕になっていて、どこか楽し気にうねうねと波打っている。
「やっぱあれか? 主役の責任感みたいなー?」
「そんなんじゃない」
渉のタコの右腕は動きを止めると、今度はカニの腕に変わった。半袖のシャツの裾から、細いカニの腕が伸びている。ぱちんと巨大なハサミを鳴らした後に、今度は猫の右前足に変わった。さっき背中や肩に触れていたのは、これらだったのだろう。
「オレ、練習付き合おっか?」
「別にいいよ」
「いやいやいや! 相手いた方が楽しいでしょー」
猫の前足が、俺の顔面に押し付けられる。巨大な肉球が生ぬるくて妙な心地だ。片手で払うと、渉が「やめてにゃん」とまた気色悪い裏声で笑った。
渉の右腕は、彼自身の意思で自由に変えることができるらしい。サメのヒレになって鮫肌をざりざり押し付けてきたこともあるし、鳥の翼に変えて自前の羽毛枕にして机で眠っていたこともある。高校で渉に出会ったクラスメイトは驚いていたが、俺は小学生の頃から親しいために、まあ今さらと言ったところだった。
「渉と練習したら、お前ふざけるだろ」
「ふざけないってー」
「ふざける」
「ふざけない」
そこからしばらく「ふざける」「ふざけない」の言い合いが続いて、だんだんと「ふざけるとき」「ふざければ」「ふざけろ」の五段活用に発展していった頃に、クラスメイトの山本が呆れた視線を俺たちに向けて、それからチャイムが鳴り響いた。渉と顔を見合わせて、はーっと深い息を吐く。
「なんの話だよ」
「さー? ……忘れた!」
国語の先生が教室に入ってきたので、ちらばっていた皆がなんとなく席についていく。
窓の外を、大きめの蝶がとんでいった。羽ばたくたびに色が変わっている。思わず出た「おー」の感嘆は、渉としっかりタイミングが被った。
この世界に不思議なことが起き出したのは、俺が生まれた十七年ほど前のことだったらしい。はじめて花が笑ったときには世界は大騒ぎで、笑花(わらいばな)現象の名前を聞かない日はなかったという。そこから年に一回、年に三回とだんだんと妙な出来事は増え始めて、最近ではほぼ毎日、何か新たな不思議現象が起きている。このままでは世界は終わるだとか悲観的な大人もいるし、ニューワールドが云々と不穏なデモをしている大人も見かけた。
何にしたって、俺たちの世界には関係のないことだった。
俺に関係あるのは、夏休み前の期末テスト。それから十月にある文化祭のクラス劇のことだけだ。
後ろの席から、聞き慣れた渉の声が聞こえた。10分休みに、俺がなんともなしに口パク練習をしていたのがばれていたらしい。背中を硬い何かでこつこつ突かれたあとに、今度は何か柔らかいもので肩を叩かれる。意識的に無視していると、べたりと濡れたものが半袖の腕に貼り付いたので、ようやく振り返った。
後ろの席に座る日下部渉(くさかべわたる)は、ニヤニヤと笑って俺を見詰めている。彼の右腕は肩からタコの腕になっていて、どこか楽し気にうねうねと波打っている。
「やっぱあれか? 主役の責任感みたいなー?」
「そんなんじゃない」
渉のタコの右腕は動きを止めると、今度はカニの腕に変わった。半袖のシャツの裾から、細いカニの腕が伸びている。ぱちんと巨大なハサミを鳴らした後に、今度は猫の右前足に変わった。さっき背中や肩に触れていたのは、これらだったのだろう。
「オレ、練習付き合おっか?」
「別にいいよ」
「いやいやいや! 相手いた方が楽しいでしょー」
猫の前足が、俺の顔面に押し付けられる。巨大な肉球が生ぬるくて妙な心地だ。片手で払うと、渉が「やめてにゃん」とまた気色悪い裏声で笑った。
渉の右腕は、彼自身の意思で自由に変えることができるらしい。サメのヒレになって鮫肌をざりざり押し付けてきたこともあるし、鳥の翼に変えて自前の羽毛枕にして机で眠っていたこともある。高校で渉に出会ったクラスメイトは驚いていたが、俺は小学生の頃から親しいために、まあ今さらと言ったところだった。
「渉と練習したら、お前ふざけるだろ」
「ふざけないってー」
「ふざける」
「ふざけない」
そこからしばらく「ふざける」「ふざけない」の言い合いが続いて、だんだんと「ふざけるとき」「ふざければ」「ふざけろ」の五段活用に発展していった頃に、クラスメイトの山本が呆れた視線を俺たちに向けて、それからチャイムが鳴り響いた。渉と顔を見合わせて、はーっと深い息を吐く。
「なんの話だよ」
「さー? ……忘れた!」
国語の先生が教室に入ってきたので、ちらばっていた皆がなんとなく席についていく。
窓の外を、大きめの蝶がとんでいった。羽ばたくたびに色が変わっている。思わず出た「おー」の感嘆は、渉としっかりタイミングが被った。
この世界に不思議なことが起き出したのは、俺が生まれた十七年ほど前のことだったらしい。はじめて花が笑ったときには世界は大騒ぎで、笑花(わらいばな)現象の名前を聞かない日はなかったという。そこから年に一回、年に三回とだんだんと妙な出来事は増え始めて、最近ではほぼ毎日、何か新たな不思議現象が起きている。このままでは世界は終わるだとか悲観的な大人もいるし、ニューワールドが云々と不穏なデモをしている大人も見かけた。
何にしたって、俺たちの世界には関係のないことだった。
俺に関係あるのは、夏休み前の期末テスト。それから十月にある文化祭のクラス劇のことだけだ。
