誤差、或いは。

「……おい渉、そんな落ち込むな」
 渉は背中を丸めてしゃがみこんでいる。見事に「落ち込んでいます」を身体で表現している渉は、さっきから何の返事もしてくれない。仕方なしに、俺はバーベキューの準備を進めていった。
 俺たちが家に戻ったのは、2時を少し過ぎたくらいだったと思う。
 歩き通しで昼食なんて食べていないため、とにかく空腹だった。念のために持ってきたブロック型の栄養補助食品をがりがりかじって、空っぽになった腹を宥める。大して美味しいものではないが、この後はメインのバーベキューだ。前菜と思えば、まあ許せるだろう。
 俺たちの借りた家の庭――というよりも、空いたスペースに、バーベキューのセットを手早く組み立てた。バーベキューコンロは当然として、網に木炭に着火剤、軍手までついている超初心者用のセットで助かった。俺が持ってきたライターで火をつけて温め、その間に渉は、家にあった皿を洗って食器を用意する。作戦通りの完璧な流れだった。
 ――満足していたのはそのあたりまでだった。
「うわああああ!? なんでぇええ!?」
 渉の情けない悲鳴が響き渡る。同時に、ぼんやりと赤かった木炭は獣の目のように光って、ぼっと一瞬だけ虹色の火を上げた。いや、それ以上に驚いたのは渉の姿だ。
 半泣きになった渉は庭にへたりこんで、土下座に似た格好で地面に抱きついている。片方の腕はカニになっているが、いつものようにぱちぱちハサミを動かす元気はないようだった。
「ぅわああ、だめだ、おしまいだぁああ」
「……渉? こんなところで」
 なにしてるんだ、という気遣いは、二度目の「おわったぁ!」という声に遮られた。絶望の仕方が、なんだか大袈裟過ぎる。
「直人、見てこれ……」
 震えるカニのハサミで渡されたのは、渉のバッグだった。ここにサワガニたちがぎっしり詰まっていた――はずだったが、中は空っぽだった。
「これ……逃げられたのか?」
 渉が力なく頷いた。数匹逃げるというレベルではなく、見事に一匹もいないという状態だ。サワガニの元気がありすぎる。
 サワガニがいないのは残念だが、野菜やらキノコやらを焼いて楽しむことはできる。そう前向きに言ってみたものの、渉は力なく首を横に振るばかりだった。こうなれば実力行使だと、シイタケに醤油をかけて網で焼いてみると、匂いにつられた渉がようやく起き上がった。顔は土だらけで、髪にも細かな小石が引っかかっている。絶望しすぎだ。
「ほら、いい匂いだ。別にカニがなくともさ」
 シイタケを小皿に取り分けて、渡してやる。普段ならこんなに優しくすることはないが、今日は特別だ。
 渉と立って並んで、シイタケをかじる。大きな身を齧るとじゅわっと汁が弾けて、醤油の香ばしさとよく合った。空腹も相俟って、最高だ。次に焼くべく、四角い餅を袋から取り出していると、渉が「だって直人が」と呟いた。
「……なんだよ、逃がしたの俺のせいって意味か?」
 まさか喧嘩を吹っ掛けてきているのか、と軽く凄んでみると、違う違うとカニのハサミを振られた。
「そうじゃなくて! 直人が好きだって言ってたから」
「はぁ、サワガニが?」
「サワガニっていうか、カニが」
 確かにカニは好物である。だがそんな話をした覚えもないし、一体なんの話をしているのだろう。
 暫し記憶を手繰り寄せてみると、ひとつだけ思い当たることがあった。
 ――ビビってない。
 ――うそだ。ぎゃって言ったし。
 ――俺、カニ好きだし。美味しいから。
 小学四年生のときの、あのプールでの事故だ。
「……いや、七年以上前のことだろ!」
「ほら覚えてるねやっぱ言った!」
 渉が早口で言うと、鳩と戦えるほどに胸を張っている。ついで腕も鳩のものに変わって、大きく翼を広げている。
 もしかして俺のためにサワガニを獲っていたのだろうか。そう思うと少しだけ、渉の奔放さも許せるような気がしてくる。
 俺の長考をどう受け取ったのか、渉が「へへへへ」と妙な笑い方をした。
「ってわけで残りのシイタケもいただきます!」
「おいそれ俺が育ててたやつ!」
「あ、もうないの? おかわりは?」
 恐ろしく図々しい奴だ。食糧の在庫が部屋にあることを伝えると、じゃんけんを仕掛けてきた。リズムの良い「じゃーんけん」に乗って咄嗟にグーを出すと、カニのハサミを出していた渉は、普通に負けていた。すごすごと部屋に向かっていく後ろ姿は、少しばかり情けなく見える。
 随分な勝手な行動を取られた上に、サワガニにまで逃げられている。
 状況だけ見ればとばっちりもいいところだが、あまり悪い気はしなかった。
 ふと近くで、かちゃかちゃと何かがぶつかるような音がした。ビンの中で小石がぶつかり合うような、硬質な音だった。
 ぐるりと視線を巡らせると、家の横に茶色い何かがあることに気がついた。
 それは、逃げたはずのサワガニたちだった。
 彼らは身を寄せ合って、大きな茶色い塊のようになっている。無数の小さな足が絶えず動いて、ざわざわと形を変えながら蠢いている。
 皆、俺を見詰めていた。 
 ぱちん、と木炭が弾ける音がした。うるさいセミの鳴き声も、不思議と耳には届かない。暑さとは違う、妙な汗がこめかみを伝う。
 あれは俺たちが食べようとしていた、サワガニたちだ。
 ざわざわと蠢く塊と向かい合っていたが、「あった!」という元気な声が響くと、さっと個に分散した。蜘蛛の子、もといカニの子を散らすような勢いで、サワガニたちの姿は見えなくなった。
「なっおとー、おまたせー」
 のんきに戻って来た渉は、シイタケの入った紙袋を猫の手に引っ掛けて、勢い良く振り回している。
「一瞬どこにあるのか分からなくてさ。トランクまで開けちゃったよ。渉、綺麗に服畳みすぎじゃない?」
 俺はサワガニたちがいた場所から目が離せなかった。
「おーい、直人ー?」 
 渉が紙袋を脇腹にぶつけてくるので、はっと意識を取り戻した。何とか深い呼吸を繰り返して、落ち着きを取り戻す。慌てて直前の会話を思い出して、渉を睨む。
「……トランク勝手に開けるなよ」
「すごい色々入ってた。あとでポテチもらっていい?」
「お前……」
 いつもであればもっと注意しただろう場面だが、サワガニたちの小さな目が頭にちらついて、どうにもそんな気になれなかった。
 深い息を吐き出して、ようやく意識を切り替えた。
「そろそろ三時だし、昼食っていうかおやつだなこれ」
「おやつシイタケね。悪くないんじゃない?」
 それから俺たちは、シイタケやらトウモロコシやら、買ってきた野菜をひたすら焼くことになった。途中からはリンゴも焼き出して、最後にはブロック型の栄養補助食品まで焼いてみたのだから、なんだかんだで楽しい時間だったとは言える。ちなみに炭焼きをした栄養補助食品は、普通にまずかった。
 夜はカップラーメンだろうと考えていると、渉が大きく伸びをした。
「この生活にも慣れてきたし、そろそろ合宿も本格始動だー」
 慣れてきたも何も、今日はほぼ一日目であるし、買い物に行ってサワガニを獲っただけで一日は終わっている。まあ、これから頑張ろうということだろう。
 人がいないことも分かったし、しっかり声も出せるはずだ。大きく息を吸い込んで、渉を見据える。
「……我が名はロメンナッ!」
「うわうるさっ! あー、でもいい。初めよりいい感じじゃん」
 光る蝶が横切っていったので、ゲーミングミミズを追った話を披露すると、渉は腹を抱えて笑っていた。笑いすぎて箸も落としそうになっていたくらいだ。
 くだらなくも、馬鹿みたいに楽しい時間だった。

 俺はこのとき、この合宿を明るいものだと捉えていた。
 渉と笑って騒いで、良い思い出だけになる二週間だと信じていた。

 確かにこのときまでは、本気でそう思っていたのだ。