誤差、或いは。

 夏の日差しは痛いくらいに強い。汗はかくが、不思議とここではそこまで暑いと感じなかった。「緑が多いと涼しく感じる」と渉は説明してくれたが、タンポポが呻いて緑の雲が流れる場所だ。それだけではないような気がした。
 渉の「なんと! 奇妙な呪いじゃ!」を聞きながらペットボトルの水を飲んでいると、ふと思い出した。
「そういえば、山本大丈夫かな」
「あー。結局、終業式まで学校来てなかったよね」
 生徒会室から救出された、山本の姿を思い出す。すっかり顔も青褪めていて、可哀想なくらいだった。クラスでもたまに山本の話題が出ていたが、期末テストは別の教室で受けたらしいこと、それからたまに図書館で見かけるという情報以外は出てこなかった。そもそも期末テストの忙しさと夏休み前の浮かれた空気に流され、あまり追究はされていなかったのだ。
 つるんでいないとはいえ、小学校から同じ仲だ。心配ではある。
「中で、何があったんだろ」
 ふと渉が足を止めた。
 一歩、二歩と歩いてから、振り返る。
 渉は何も言わずに、俺をじっと見詰めていた。
「知りたい?」
「なに、お前知ってんの。あ、中見えたのか?」
 じゃわじゃわ鳴くセミの声が、大きく響く。渉が再び足を動かし出したので、俺も隣に並び立って歩く。ぱちん、と軽い音が混じるのは、渉がカニのハサミを鳴らしているからだ。
「まー直人は知らなくてもいいと思うけど」
「どういうことだよ」
「さあー?」
 なんだか掴めない返事だ。苛立って渉の肩を掴むと、いつもと変わらない、にんまりした笑みが返ってきた。
「じゃ、競争!」
「は?」
 渉が 地面を蹴って走り出した。そして再びこちらへくるりと身体を向けると、後ろ歩きでとんとんと軽やかに下がっていく。
「ハンデとして、オレは後ろ向きで走るから!」
 運動が得意な渉とは言え、そのハンデは馬鹿にしすぎだろう。鼻で笑ってから俺も走り出したが――
「……いや、速っ! 怖いよなんだお前!」
「あはははは! 靴屋の村人は、足が速いって設定もあるから!」
 どんな裏設定だ。よく見れば渉の右腕は巨大な蜘蛛の足になっていて、一瞬だけ地面に触れて体勢を維持しているようだった。正直かなり気色が悪い。
 こちらも意地になって走っていると、「こら!」と叫ばれた。
「ロメンナ直人っ、普通に走るな! お前は右足に呪いを受けているはずでは!?」
「知るか!」
 もう既に世界観がめちゃくちゃなのだ。今さらそこを拾っても仕方がないだろう。
 地面を蹴って、必死に足を動かす。体育以外で全力疾走したのは久し振りだ。風もないのに電線が大きく揺れているし、小魚の群れともすれ違った。が、やはり一番間違っているのは渉だったので、特に気にはならなかった。しかもあの蜘蛛の脚、黄色と黒の縞模様で、恐らく毒があるやつだ。
 それから、どれくらい走っただろう。だんだんと足が重くなって、息も苦しくなってきた。体育の持久走でもやらされている気分だ。
 二人の距離はじわじわと縮まっていき、抜かすまであと少しという瞬間、渉が急に動きを止めた。勢い余った俺は、数メートルは彼を抜かして、それから戻る羽目になってしまった。
「急に、っ止まるな!」
 ぜいぜいと荒い呼吸を繰り返しているので、最低限の文句しか言えない。
 当の渉はこちらを見ずに「ここ」と言った。
「……はぁ?」
「いやだから、ここ」
 渉がぬるりとした細腕を持ち上げた。日差しを受けて粘膜が輝くその腕は、恐らくカエルの腕だろう。カエルの手が指し示す方向を見遣って、ようやく気がついた。
 行きのバスで見た古びた店。走っているうちに、ここまで到着していたらしい。