誤差、或いは。

 瞼を透かして、朝の光が飛び込んでくる。何度か寝返りを打ってから重い瞼を持ち上げると、緑色の物体があった。これは俺のトランクだ。――そう、俺は今知らない家に泊まり込んでいる。
 ふたりで合宿に来たことを思い出して、緩慢とした動きで身体を起こす。昨晩の移動のせいで身体、主に尻がひどく痛かった。
 昨晩は暗くてわからなかったが、改めて見れば部屋は12畳ほどもある、年季の入った和室だった。冬はコタツとして使われていただろう低い机や、古書がつめこまれた本棚。使い道のわからないリモコンも転がっている。部屋の隅に積まれた座布団を見るに、確かに人の手は入っているのだろう。
 俺が寝転がっていたのは、布団の上だった。昨晩触れた妙な柔らかさとは違う、しっかりとした綿の感触だ。肉のようなあの触り心地は、やはり夢だったのだろう。もしくは不思議な現象が起きたのか。なんにしたって、俺が今からやることはひとつだ。
「おい渉、起きろ!」
 隣で丸くなった毛布の塊を、ばんと手のひらで叩いた。恐らく背中だったのだろう、うっと呻いた声が聞こえる。もう朝の九時だ、活動時間だろう。毛布の中からぬるりとタコの手が現れ、首を振るように揺れたが、容赦なくその手を掴んで引っ張ってやった。生ぬるい腕が少しだけ気持ち悪い。
「渉。シャワー借りるぞ、いいな」
「あー、うん。勝手に入ってて。次オレ入るからさー……」
 タコの腕がぺしゃんと床に落ちた。完全に二度寝する気らしい。
 こうなれば風呂もまたボロボロなのだろうと踏んでいたが、何故か風呂場だけはリフォームされていて快適だった。家全体がアンバランスで、片腕を好き勝手に変化させる渉を連想させた。
 交代でシャワーを浴びて、互いにTシャツに着替えた。俺も渉も1年のときの体育祭で着た『1-A最高』というTシャツだったので、図らずもお揃いの状態になってしまって「お前が脱げ」と争って、結果的にお互いに譲らないという形になってしまった。合宿は、最悪の滑り出しだ。
 それから持ってきたポットでお湯を沸かして、カップラーメンに湯を注いだ。念のためと持ってきた諸々だったが、大正解だった。ただのカップラーメンなのに、泣くほど美味い。
「ていうか、初日からなんでこんなサバイバルになってんだよ」
「あっははー。まあ今日は買い物にも行こう」
「いいけど、あの店やってんのかな……」
 行きに見かけた、個人商店のような店を思い出す。例え店が開いていたとしても、大したものは置いてなさそうだ。
「やってるやってる! 多分ね」
「適当だな」
「上手くいくよ。ほら、冷房もちゃんとついたわけだし」
 旧型のエアコンは埃を吐き出すばかりで、初めこそ盛大に咳き込んでしまったが、数時間もつけておけば普通に部屋を快適にしてくれた。むしろ古い型だからか、冷やす力が段違いだった。ひとまずこの部屋にいれば、熱中症で倒れる心配はなさそうだ。
 カップラーメンの汁まで飲み干した頃に、渉がふと声を上げた。
「まさかお前はあの大英雄の血筋たる!」
「はぁ?」
「直人、はぁじゃないだろ。続き続き」
 いつの間にか渉は俺の台本を持って、勝手に読み始めていた。開始が性急過ぎるが、対応できないわけがない。俺のほうは、セリフをもう暗記しているのだ。
「……そうだ、我が名はロメンナ」
「あー、声ちっちゃい! 恥ずかしがってちゃ駄目だって」
 いきなり振って来たのはそっちだろう。文句はあるが、咳払いをしてもう一度セリフを叫ぶ。それでもお気に召さなかったようで、ゆっくりと首を振られた。何故か監督のような立ち位置になっているが、こいつはなんなんだ。
「やっぱさ、セリフは動きながらやらないと駄目なんだよ。うん、そうだ」
 何かを納得したらしい渉が、勢い良く立ち上がる。次いでイカの足を俺の腕に巻き付けると無理やり立たせた。どうやら外で練習をするつもりらしい。
「待て渉、バッグ持ったら出るから」
「早く行こう。今日は練習日和だ!」
 最低限の物をバッグに詰めて外に飛び出すと、朝の光に目を細めた。瞬きをして眩しさに慣らしながら、その視界を捉えて、思わずあっと声が漏れる。
 外は、視界が塞がるほどのシャボン玉でいっぱいになっていた。
 ひとつひとつが陽光を弾いて、きらきらと光っている。テーマパークでよく見かけるような光景だったが、BGMはセミの大合唱だし、背景が田舎の風景なので余計に不思議だ。
 渉はぴょんぴょん跳ねながら、シャボン玉の中を進んでいる。渉がぱっと鳥の翼を広げると、シャボン玉は一斉に空に浮かび上がった。まるで風を操っているようだ。晴れた視界の中で追いつくと、渉がにっと口の端を持ち上げた。
「よっし、歩きながら練習するぞ!」
 畑と林が交互に現れる風景を眺めながら、俺たちは舗装されていない道を歩いていった。本来は車で通る道なのだろう、轍はしっかりと残っている。
 俺が何度目かの「我が名はロメンナ」を言うと同時に、道の端に生えたタンポポが、ぐううっと低い呻き声を漏らした。