コンクリートの道が砂利道に変わる。大きめの石の上をタイヤが踏む時、僕は自転車ごと上下にはねて、ハンドルを握りしめた。
(ど、どこまでいくんだろう……)
公園のさらに先、普段は風景だとしか思っていない山に近づくと、そこが単なる緑ではなく、深い闇を抱いていることに気づいた。
砂利道は真っ直ぐに山の方に向かって続いていく。昼と夜とがまじわる中途半端な空気は全ての境界を曖昧にして、自分たちが闇に向かって突っ込んでいくような、そんな錯覚を覚える。
「ど、……」
どこまでいくつもりなの、と訊こうとしたとき、神倉くんは前触れなくブレーキを踏んだ。
「ここからちょっと歩く」
「う、……うん」
僕らは、廃車がおきざりにされている空き地に自転車を止めた。神倉くんは躊躇なくポケットに手を突っ込んだまま歩き始める。
「ま、待って……」
僕のお願いにも届かないささやきを拾い上げて、彼は歩くのを遅くしてくれた。それが僕をわずかに安心させてくれる。大丈夫、神倉くんはいつも通りに優しい。
(何を見せられるんだろう……こんなところに何があるのかな?)
舗装された道路というより、踏みしめられて草の根が絶え、できただけという感じの道は山に続いている。街灯は当然のようにないから、そのうち日が落ちればこのあたりは真っ暗になるだろう。
不規則に乱立する木々は、ただそこに立っているだけのはずなのに、どれもが僕を見つめていて、じっと息を潜めているように思える。
獲物の気配を探る獣のように、山全体が耳を澄ませ、こちらの一挙手一投足を逃すまいとしている。まるで山全体が一つの生き物みたいに。
「………」
おそるおそるついていくと、山の奥に続く道には柵が建てられていて、年季の入った看板には「禁足」と書いてある。なのに、神倉くんは当然のように柵を乗り越えてしまった。
「た、立ち入り禁止って書いてなかった?」
「大丈夫」
「………」
断言されたら、僕も覚悟を決めるしかない。丸太を埋めて作った簡素な階段に足をかけて登っていく彼を追いかけた。
(スニーカー履いてて良かった)
のんきにそんなことを考える余裕があったんだ。この時までは。
「………っ………」
階段を数段登った時、空気が変わった。見えない壁、見えない層を顔で突き破ったような、ぐにゃりとした嫌な感覚。それは眩暈に似ていて、僕は思わず両手を見た。足、ある。手、いつもどおり。視界、はっきり。なのに何かがおかしい。
「か……神倉くん。見せたいものって、……この先にあるの?」
「………ん」
彼は小さく顎を引いて頷いた。
「もうちょっと先」
「そっか……」
「帰るか?」
彼は慈悲深く、僕に選択権を委ねてくれた。僕は迷わず首を横に振った。
(この先に、……八月八日に神倉くんが、し、死んじゃうって思ってる、その原因があるんだ……)
(じゃあ僕は、それがなにかを知らなくちゃ)
その使命感みたいなものが、僕に躊躇を忘れさせてくれる。
「か、帰らない」
「そっか」
神倉くんは呟いて、また階段を上り始めた。
「………」
それから数分歩くうちに、僕は一つの直感を確信に変えていた。
(……だ、誰かが見てる、……)
枝の隙間から覗く暗がりから、誰かが僕たちを覗き込んでいる。
その視線はまるで死んだ魚みたいに、動かず、瞬きもしない。
けれど確かに意志をもって、僕たちの一挙手一投足を見つめている。
余計なことを言っちゃいけない。本能的にそう思って、僕は下唇を噛んで俯いた。周囲が暗くなってきたから、足元を見なければ危ないと思ったのだ。
スマホを取り出してライトをつけようとした時、
「つけないほうがいい」
前を向いたまま、神倉くんが言った。
「な、なん……」
なんで。
簡単な言葉を言い切れずに、僕は絶句した。
目の前にある光景が信じられない。
神倉くんのかたちが途切れていた。
「あ……あ……」
身体のあちこち暗い靄のようなものがまとわりついて、隙間から向こうの景色が見える。
まるで、見えない口に齧られたみたいに。
「か、神倉くん!」
叫んで、手を伸ばす。ぎゅ、と彼の手を掴むと、その瞬間、黒い靄は霧散した。
「……なんだよ」
「あ………」
階段の段差のおかげで、身長差がある僕たちの視線はまっすぐに交わっていた。平然と問い返されて、僕は細かく瞬きをした。
「あ……」
心臓がバクバクしているから、さっきありえないものを見た、と、僕が思っているのは嘘じゃないってわかる。でも、そんなことありえない。握った手は暖かい。人間が生きたまま欠けるなんてことありえないのに。
「な、なんでも……ないんだけど、……」
「………」
「こ、このまま、手、握っててもいい?」
「上りづらいだろ」
「そ、そうだけど……」
この手を離したらいけない気がする。僕はなんとかこの状態を正当化できる言い訳を探した。
ぐるぐる回る視界のなかで、もうすぐ階段が終わることに気づく。階段はゆるやかだったから、その先にあるものも神倉くんごしに少し見ることが出来た。
(……屋根? 何か、建物があるのかな、……)
「……こ、この先に、何かあるんだよね?」
「……」
「僕だけで見てくるから、……神倉くんは、ここにいて」
「え」
「い、いいから」
僕の提案は、彼にとっては意外だったらしい。目を丸くして僕を見る彼をおいて、僕はゆっくり階段を上っていった。
この先に何か危険が、……なにか、おぞましいものがあるような、そんな気がする。
少なくとも、神倉くんはそこに行くべきではない。でも、僕は見なきゃいけない。その強い予感が、僕から恐怖を取り除いていた。
「………」
階段を数段のぼって、拍子抜けした。
そこは、山肌を切り開いて作った、小さな広場だった。雑草は生えていない。広さは、五メートル四方もないだろう。
その中央に、四方の柱だけで支えられた屋根がぽつんと浮かんでいた。壁はなく、風が通り抜けるつくりだ。
屋根の下には、黒い大岩がひとつ。地面の吹き出物のように周囲から浮いていた。
「………」
この山に足を踏み入れていた時から感じていた空気が、妙な重さと湿度を増している。息をするのも苦しいくらいに。それでも僕は、ゆっくりと周囲を見回して、岩のほうに一歩近づいた。
「う………」
拒まれている。
そう直感したのは、首のあたりを誰かに捕まれている気がしたからだ。思わず手で探るけれど、何も絡みついていない。リアルに感じられるのは自分の指だけ。それでも、そこから進む気がなくなってしまった。じっと岩に視線を集中させると、ただの岩なのに黒すぎる、と思った。光を吸い込んだような深い闇は、岩というより夜の海のように底知れない、地面に空いた穴に思える。さらに視線を集中させると、岩の表面がわずかに脈打っているように見えた。
(生きている………?)
そんな錯覚が、背筋を冷たく撫でていく。
生ぬるい風が吹いて、覆堂の屋根を軋ませる。そのわずかな音が、微かな唸り声に聴こえた。
喉の奥で唸るような、低く湿った、地下の生き物の唸り声。
岩が湛える闇、その奥底から、誰かがこちらを覗いている気配がしたと思った時、
「見えたか?」
声を掛けられて、僕は振り返った。
神倉くんは一歩も動いていなかった。
けれどやっぱり、闇はそこにあった。彼の身体が途切れている理由が、少し距離をとってよくわかった。
あの闇は、やっぱり歯列だ。
牙だ。
頭、胸、腹、下腹部、左手、右手、左足、右足。
噛みつかれているのは八カ所。
彼は、八つ裂きになっているんだ。
「……!」
僕は転げるように階段を降りると、両手で神倉くんの両手を掴んだ。その瞬間、固まっていた虫が散らされるみたいに闇がいなくなる。深い闇は神秘的なまでに光を跳ね除けている。僕にはわかっていた。闇はただ、茂みや影の中に身を潜めただけで、まだ神倉くんを見つめている。狙っている。無慈悲に引き裂く時を待っている。
「も、戻ろう」
「………」
「戻ろう、……ここにいちゃだめだ、神倉くん」
「……ん」
切羽詰まった僕の言葉に、神倉くんは素直に従ってくれた。
そのまま、無言で階段を下りた。登った時と違って、時間はひどく短く感じられた。早く早くと気がせいていたからかもしれない。
彼の背中を押して急がせて、自転車をとめた空き地まで戻った。一刻も早くこの場を離れたいと思っていたから、彼が錆びたサドルをこぎ出した時は心底ほっとした。
最初に辿り着いた公園に戻った時、日はすっかり暮れていたけれど、ここには街灯があるからまだ耐えられた。
乳白色の光を放つ街灯に背中を預けて、神倉くんが僕に問いかける。
「何が見えた?」
「………」
自分が見たものをどういえばいいのか、僕は迷った。今まで見た何とも違う。どうにか表現するなら、あれは意志をもつ闇だ。
「……な、何かがいた、とおもう」
「………」
「なんて言えばいいのかわからないけど、……か、神倉くんが、アレに食べられちゃう、って、僕、そう思って……」
「あたり」
神倉くんは楽しそうに口笛を吹いた。
「他のやつにも見えるんだな、あれ」
「………」
なんでそんなに楽しそうにできるのかわからない。僕は頭をがしがしひっかいて、うー、とか、えー、とか、見苦しい唸り声をひとしきりあげたあと、
「あ、あれは……なん、なんなの? なんか、……黒い、靄みたいなのが、神倉君を飲みこもうとしてるみたいに見えた」
結局、率直にそう尋ねた。
「俺も詳しくは知らねえけど」
神倉くんは几帳面な口調でそう前提をおいたあと、
「今度の八月八日、俺、あいつに食われるんだ」
そう言った。
「…………え?」
「俺、あいつに食われるために生まれてきたんだよ」
「…………」
絶句だった。
そうなんだろうな、と言う気もするし、そんなばかな、っていう気もする。
相反する気持ちがせめぎ合って言葉を見つけられずにいる間にも、神倉くんは淡々と続けている。
「あそこにはナニカがいるんだ。妖怪だか、お化けだか、神さまだが、詳しくは知らねえけど……」
「……」
「小さいころ、母さんが出て行って……どこ行ったんだろ、って思ってたら、父さんが夜中に俺を連れ出して、あそこに連れて行ったんだ」
自分を守るみたいに腕を組んでもたれかかり、夜の住宅街を見下ろしながら彼は話し続けた。呆然と立ったままの僕に語り掛けているというより、独り言を聞かせてもらっているみたいな、そんな距離を感じた。
「俺は、母さんを探しに行くのかと思ったから、大人しく着いて行った。山を登った時も、この先に母さんがいるのかと思った。でも、いつの間にか周りには大勢の大人がいて、……俺はあの岩の上に一人で乗せられたんだ。降りようとしたら殴られた。ここに座ってろって言われたから、大人しく言うことを聞くしかなくて、そうしたら、……アレと目が合ったんだ」
「アレって、目があるの?」
「ない。なんかそんな気がしたってだけ」
思わずばかなことを聞いてしまった僕にも、律儀に返事をしてくれた。
「父さんは大勢の前で、ナイフを俺の胸に刺そうとした。殺されるって思ったよ。そうしたら言われたんだ。今ここで死んで食われるのと、あと十年生きるのと、どっちがいい、選んでいいぞ、って」
「………」
「俺は、……俺は、あと十年生きていたいって頼んだんだ。殺さないでくれ、って」
神倉くんは笑ったけど、その笑顔はちっとも幸せそうじゃなかった。僕にはなじみが深かったからすぐわかったけど、これは自嘲だ。みっともない自分を少しでもごまかしたくて、そんなことわかっているって軽んじてほしくて、自分から楽な方向にいってしまうときの嫌な笑み。
「日野、お前はさ、自分のことみっともないとかビビリだっていうけど、俺の方がよっぽど臆病だよ。だって、その時のことずっと夢に見てるんだ。ナイフ突きつけられて、殺さないでくれって泣いて頼んでる俺をさ」
「…………」
想像ができなくて、したくもなくて、言葉が思いつかない。神倉くんは自嘲したまま、
「……俺の名前、変わってるだろ」
と言った。
「……悟空って、カッコいい名前だって思ったけど」
それはヒーローの名前だ。
神倉くんは僕を孤独から救ってくれたヒーローみたいなものだから相応しい名前だなって、言葉にしたことはなくてもずっとそう思って来た。
けど彼は、暗い目のまま呟いた。
「人身御供って聞いたことないか? 昔話に出て来るだろ、神さまに人間を捧げる時なんかにさ。ゴクウって、生贄って意味なんだよ」
「…………」
「だから、俺は最初からあいつに捧げられるために生まれて来たってこと。………」
神倉くんはため息を吐いた。悩みも悲しみも全部漂白しきったあとの渇いた諦めを吐き出そうとしたら、ため息になった。そんな感じのため息だった。
「………に」
喉の奥がからからに乾いていて、僕は一回唾を飲み込まなくちゃいけなかった。
「逃げようよ、神倉くん」
「………」
「この街を出て、遠くに逃げよう。あれが追い付いてこないくらい遠くに、……」
「だめだ」
「なんで」
なんだか僕、今日はなんでなんでって言ってばっかりいる。まるで五歳の子供が駄々をこねる時みたいだ。でも、そんな自分を省みて恥ずかしがることもできないくらい必死だった。
「だって、このままじゃ……」
「この町から離れようとすると、だめなんだ」
「………」
「……このあたりが熱くなる。ここと、こことかも」
神倉くんは自分の首を抑えた。それから手首、胸、腹のあたりも順繰りに。
それはさっき、暗闇が齧り取っていた部分だ。
「あそこはあいつの気配が濃いから、もしかしたらお前にも見えるかと思ったけど、……俺はもう、いつでも見えてるんだ。俺はもうあいつに咥えられてて、飲みこまれるだけになってる。遠くに行こうとするとすごく苦しいんだよ」
「え、じゃあ、遠足とか、修学旅行とか」
「行かなかった」
あっさりと神倉君は言った。それが悲しいとも、寂しいとも思っていない。当然だ、っていう態度だった。
(……そうか)
その時、ふと気づいてしまった。
神倉くんはいつも堂々としていて、怖いものなんかないって感じで、なのに優しくて、すごくいい人だって思ってたけど。
それは、感情の起伏が人より緩やかであるからで。
それは、全部を諦めてしまっているからなんだ。
「俺が行ける場所で、苦しくない場所で、一番高い場所にあるのがここだから、……だからここが好きなんだ」
「………」
僕たちはしばらく黙っていたと思う。見下ろす住宅街の光が、ひとつ、またひとつ増えていくのを眺める。沈黙を破ったのは神倉くんだった。
「だからわかっただろ。八月八日に俺は死ぬ。だから……」
「じゃ、じゃあさ」
僕は神倉くんに一歩近づいた。考え無しにこんなことを言うのがどんなにばかげているかわかっていた。いや、わかっているつもりになっていた。それでも言いたくなってしまったし、本気だった。
「戦おうよ」
「………」
神倉くんは目をぱちくりと瞬かせた。僕の言った言葉の意味がわからない、という当惑が瞳を行き過ぎて、見慣れた諦観に変わる。
「お前、あれに勝てると思ってんの? 無理だろ、フツーに考えて」
「でも、だって、こんなの絶対おかしいよ」
僕の声は震えていた。口にするだけで怖いようなことでも、それでも「仕方ない」なんて言葉で簡単に片づけることはできなかった。
「きっとどうにかなるよ」
「どうにかって、どうやって」
「し、調べようよ。きっと倒し方はあるよ。まだ時間はあるよ」
八月八日まで残された時間は、約一か月。
でも夏休みに入るし、たくさん時間はある。何かするには短すぎる時間かもしれないけど、何もしないには後悔が残る。
「だって僕、神倉くんがいないと寂しいんだ」
考えるだけで耐えられそうにない。
前までの僕なら耐えられた独りでも、今はもう無理だ。だって、誰かと過ごすのがこんなに楽しいってわかってしまったから。それを教えてくれたのは神倉くんだから。
「か、勝たなくていいんだ、追い払うだけでもいい。漫画とかだとさ、現代になってあんまり信仰されなくなった神さまが弱体化するとかよくあるし、きっとどうにかなるよ。倒し方、調べるよ。弱点とかあるかもしれないし、あの、だから、僕、頑張るから」
一息で言い切ったから、息が切れた。でもため息をついてしまったら本気が吹き飛んで行ってしまう気がした。
「僕は諦めたくない。だからお願い、諦めろって、言わないで……」
精一杯力強く言ったつもりだった。僕に任せたいと思ってもらえるくらいに元気に言わなくちゃならなかった。でも僕から出たのは弱弱しい縋りつくような声だ。それでも、諦めたくないって気持ちは本物だった。
「………」
神倉くんは僕を見た。夜、乏しい街灯を反射して煌めく目は透明で、自分自身と会話できるくらいくっきりと僕の姿がうつってる。そこから目を離さなかった。
「……俺んちの、仏壇ある部屋にさ。古い本がたくさん置いてあってさ」
「………」
「あそこに、あいつのこと書いてあるかもな」
「じゃあ、きっと弱点だって書いてあるよ」
神倉くんが与えてくれたチャンスに飛びついた。
「お願い、やれるだけやらせて」
両手をそっと包み込むと、体温がじんわり溶けあっていく。
逃がさないように、傷つけないように、伝わるように、指先にだけ力を込めた。
「僕、神倉くんと一緒にいたい。……八月九日は、一緒にお祭りに行こう」
僕の懇願に、神倉くんのまつげがわずかに震えた。
「……お前が声かけてきたとき、いやな予感がしたんだ」
「え」
「だって、死ぬのがこわくなる」
彼の声はかすれていた。
「………」
僕はいつのまにか、彼を脅かしていたのだろうか。胸の奥がひやりとする。
恐怖の告白に僕を責める響きはちっともない。それは彼自身に向けたナイフだった。震える彼の手を握り締めながら、僕は囁いた。
「……僕と友達になってくれてありがとう」
二人の指先を僕の額に押し付ける。
「僕、君と友達になれてよかった。君にもそう思って貰えるよう頑張りたい」
彼は微かに頷いた。触れれば崩れてしまいそうなほど脆い約束を言葉にすると、それは僕の中にあっという間にしみこんで、背中を支える力になった。
その感覚は、温度のない火のようだった。
燃えているのに熱くない。胸の奥の暗がりを照らして、弱さや迷いを僅かに浮かび上がらせながらも、前に進む力をくれたんだ。



