八月八日に死ぬ君へ


「おはよう、神倉くん」
「ん、おはよ。……」
神倉くんは僕を見上げて、一瞬沈黙した。
「……? 何?」
「なんかいいことあったのか」
 尋ねるのではなく、直観を確かめるような口調だった。
(わ。尋ねてもらえると、話しやすいな。本に書いてあった通りだ)
 僕が誰かにしてあげなくちゃと思っていたことを、神倉くんは自然にしてくれる。まるでお手本を見せてくれてるみたいに。それが嬉しくてたまらなくて、笑みを深めてしまいながら言った。
「うん。あ、あのさ、……神倉くんって、血契の双刃っていう漫画知ってる?」
「知らねえ」
 短い否定の言葉が返ってくる。それから一拍おいて、
「漫画、家に一冊もねえし」
 と付け加えられて、僕はちょっと意外に感じた。
「お父さんとかお母さんが漫画好きだったりしないの?」
「全然」
「そうなんだ……」
 神倉くんの特徴的な名前は、有名な少年漫画からとったのかと思っていた。だから少なくともその漫画くらいは全巻揃っているかと思っていたのに。
「つか、俺んち父さんだけだし」
「あ、……そうなんだ。ごめん、知らなくて」
「言ってねえから。知ってる方が驚くだろ」
「そっか」
 僕だって、母さんが再婚するまでは母さんしか家にいない時があった。ぐっと親近感が増してしまったけど、これってちょっと不謹慎だよね、と思ったから口を噤んだ。
(じゃあ、ごはんとか普段どうしてるんだろ、とか、聞いてもいいのかな? 聞かせて貰えるのかな?)
 無礼と親密のボーダーラインは、僕にはまだやっぱり難しい。踏み越えなきゃ仲良くなれないときも、踏みこんじゃいけないときもあるなんて、人付き合いって本当にハードモードだ。見えないものを見定めようとしてうろたえていると、神倉くんのほうが話題を戻してくれた。
「で、漫画がどうしたんだよ」
「あ、……うん」
 神倉くんちのことを聞くのはまた今度にしようと決めて、僕は言った。
「僕が応援してる漫画が、今度アニメ化するってなって、それで嬉しくて。告知動画が昨日出たんだ」
「へえ」
「あ、こ、こういうのって、子どもっぽいかな」
「別に。俺はよくわかんねえけど、よかったんじゃねえの」
 神倉くんの言葉は、そっけなさすぎて嘘がない。にせものの優しさが介入する隙が無いから、奥底に沈んでる優しさを感じ取ることができた。
「ありがと」
「………」
 僕はスマホを取り出して、彼に画面を見せようかどうか悩んだ。
(応援するようになったのは、神倉くんに似ているキャラが出てくるからなんだ、……って言ったら、キモすぎる? よね?)
(タニツグって、チビとかって言われてたりするし、……神倉くんがそれ気にしてたら、僕が言ったみたいに思われちゃったらどうしよう)
 うじうじ悩んでいる僕が言葉をまとめるまで、神倉くんはじっと待ってくれている。辛抱強い友人に、僕は思い切って言った。
「あのさ、……か、貸すから、神倉くんも読んでみない?」
「読まねえ」
 すっぱり断られて、僕は落胆した。ぴしゃん、って目前でドアを閉められたみたいな気分。
「そっか……」
 そういう風に言われるのは慣れてるから、それでもへらへら笑うことができたんだけど。
「………」
 そんな僕を見て、神倉くんはちょっと眉をしかめた。それから、
「……連載中なんだろ。最終話まで読めねえから。完結してるならいいけどさ」
 と、言い訳するみたいに言った。
「動画くらいなら見るけど」
 付け加えられたのは、明らかに僕への優しさだった。それに甘えてしまっていいものか悩んだけど、でも、実際に見てみれば読みたくなるかもしれないという希望をもって頷いた。
「あ、ありがと。それじゃあ……」
 教室をぐるりと見回す。四月、入学したてのときはみんなスマホを鞄にしまってたけど、七月も半ばになると早くももうそのルールは形骸化している。授業中に出さなければ先生も黙認してくれるし、休み時間にSNSをしている人もいるみたいだ。
 そうやってみんながルール違反をしているのを確認しないと、僕はスマホを取り出せない。
(……意気地なしだな、僕って)
 自嘲しながら、僕はおそるおそるスマホを取り出した。
「これ」
「ん」
 すこし身を乗り出して、彼と同じ画面を覗き込む。窓からの光は眩しかったけれど、僕の身体を彼と日差しの間に割り込ませると、すっぽり覆ってしまえた。
 動画は直ぐに終わる。
(これしかなかったら感想なんて言えないよね、でも何か少しでもあったら嬉しいな、絵は上手いと思うんだけど……)
 僕がそわそわしていると、神倉くんは無造作に指を伸ばして、動画を巻き戻した。
(あ、……もう一回見てくれるのかな?)
 されるがままになっていると、彼は動画がはじまってすぐのところで停止ボタンを押した。
「………ここ」
「え?」
 停止ボタンを押した指が、そのまま画面を示している。そこには高台から見下ろされる都市が写っていた。三方を山に囲まれた、何処か見慣れた風景だ。
「ここ、ちょっと似てる場所知ってる」
「そうなの?」
「つーか、いつも行く場所になんか似てる」
 僕はびっくりした。確かにこの町も山に囲まれてはいるけど、そんなこと思いつきもしなかった。
「え、知らなかった。もしかしたら作者さんもこの町出身だったりするのかな。ウィキにはそんなことかいてなかったけど」
 僕はスマホで最新のウィキを確認したけれど、やはり作者の来歴は不明だった。主人公が住んでいる街はY市とだけ書かれた架空の町で、モデルがあるなんて考えてもいなかった。
(もしもそれがこの町だったら、……僕、どこかで作者さんとすれ違ったことがあったりして)
 妄想があっという間に膨らんで、いつのまにか自分がドラマの中心人物になったような気がする。
「神倉くん、あの、そこって、僕も行ける?」
「ん」
 彼は短く頷いた。
「じゃあ……」
 行きたいな、という一言を思いついて、でも遠慮がしゃしゃり出てきて、口にはできなかった。思い付きを口にすることに、僕はすっかり臆病になっていた。これで迷惑がられたらどうしよう、という不安が衝動にブレーキをかけてしまう。
「えっと、……」
「………」
 神倉くんはゆっくり瞬きをして僕を見て、表情を変えないままに言った。
「放課後、連れてってやろうか」
「う、うん!」
 勢いよく頷くと、神倉くんは笑った。
「お前って、わかりやすいよな」
 付け加えられた一言は、ばかにしているとかそんなことは全然なくて、むしろ親しみがこめられていて、僕を一層舞い上がらせたんだ。