深夜、家をこっそり抜け出す。
今日は運ぶものが少ないから手軽だ。夜風を切って、自転車を走らせる。口笛でも吹きたい気分だったけれど、歌いたい曲が思いつかなくて止めた。
山に辿り着く。今日できっと、来るのは最後になる。どんな結果になろうとも。
柵を乗り越えるのももう慣れたものだ。最初は「立ち入り禁止」の言葉が怖かったけれど、人間はルールを破るたびに恐れを無くしていくものらしい。もっと怖いものの存在を知ったからかも。
今の僕には、何も怖くない。
このまま諦めることなんかできないって解っていたから。
階段を上っていくと、途中で人影に気づいた。國本さんだ。
「こんばんは」
ごく普通に、通学路で行違う時のように僕は笑った。その笑顔で、彼は全てを悟ったようだった。
「止めますか」
「止められん」
彼は首を横に振る。
「でも、きっと後悔するで」
「そうかもしれないですね」
僕は認めた。
「でも、何をしたら後悔して、何をしない方がいいかなんて、やってみるまでわからないことなんだ」
「…………」
彼はそれ以上何も言わなかった。僕は残りの階段を登って、黒岩までたどり着く。
その場に跪いて、ふう、と息を吐いた。
持ってきた太いろうそくを地面に立てて、ライターで火をつけた。
(………世間の人たちって、僕が思ってたよりもずっと親切で、それから、ずっと無責任だ)
(だから、……助けてもらいたいなんて、もう絶対思わない。僕は、……僕が正しいと思ったことをやるんだ)
ゆらめく火をみていると、焦点がこの世からずれていく気がする。それは今の僕にとっては頼もしいことだった。
「神さま……神さま、この社に坐しますや、山の御神……」
神倉くんの家で見つけた古文書に書かれた通り、何度も繰り返す。
「この社に坐しますや……坐しますや……」
繰り返すうちに、音楽のように抑揚が着く。自分の声なのに自分の声じゃないみたいだ。
しばらくすると、岩陰の闇が常より一段階深い闇に変わっていくのを感じた。
夜に慣れた目だから見つけられた。もしくは、昨日、ほんのひと時でもあの闇の一部だった時があるから。
「山の御神……坐しますや……」
僕の声に呼応するように、闇が蠢く。言葉はなかったけれど、何の用だと聞かれている気がした。
「……先に渡し奉りし宇礼豆玖は、誤りにて……返し給えと願い奉る……代りに、今より申す者どもを……奉り進らす……」
僕は十六枚の紙を取り出した。
一枚ずつ読み上げながら、紙を燃やしていく。
細く切った紙が炭に変わる時、まるで苦しむ人間がそうするように身を捻る。僕の手が震えていたのは最初だけで、心は氷に似て冷えていた。
「新光町大字黒川42、上田正明を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「新光町大字黒川57-2、西岡隆三を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「新光町大字下田61、西浦敏夫を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「新光町大字下田700、佐新次郎を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「青峰町大字上ノ原203-1東野愛子を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「青峰町大字上ノ原203-4小野田武を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「青峰町大字上ノ原245城戸和彦を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「青峰町大字中三町19川崎朝子を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「青峰町大字中三町110清水ゆりを奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「青峰町大字中三町111-3山根啓を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る]
「青峰町大字中三町402新井巧を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「青峰町大字中三町612-1神倉敦を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「野田町大字字鍵穴118吉川綾乃を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「野田町大字字鍵穴701-6鶴ヶ島重を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「野田町大字字倉間112森本正人を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
「野田町大字字倉間901-2栗林元を奉る。代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る」
手持ちの紙がなくなった。
僕は炎越しに闇を見据えながら、ひたすら、一心不乱に唱え続けた。
「代わりに先に渡し奉りし宇礼豆玖は返し給えと願い奉る……」
どれくらい呟いていたかわからない。僕はいつの間にか地面に突っ伏していた。悲嘆と絶望にくれた男のようだったけれど、涙は流れていなかった。
「返し給えと願い奉る……返し給えと……」
頭は鉛のように重く、言葉はそれより重かった。
朝が近づいてきたとき、ふと、僕の目前に二重の燐光の輪が見えた。ぼんやりとした光の輪は、一つは僕の方に、もう一つは黒い岩の方にゆっくり移動していく。
「返し給えと願い奉る……返し給えと……願い奉る」
しゃべり続けて掠れた声しかだせなくなった喉に光が触れる。濡れた手で撫でられたような感覚だったが、その手というのは指が十本も、ニ十本もあるかのように多くの襞があった。僕はその手を拒まず、もう一つの光の輪の行き先を追った。
光は黒い岩にしみこんでいく。そうすると不思議なことに、黒い岩が内側から透き通りはじめた。不定形だった光は、やがて虫の繭のように楕円形にまとまる。そうしてそのまま、泥から伸びる花の蕾のように浮かび上がって来た。
「願い………」
最後に、それは最も明るく光り輝いた。僕は瞬きをしなかったけれど、それでも何も見えないくらい目映い。
あまりにも強い光は闇と同じなのだな、と悟った時、視界と共に現実が帰って来た。
黒い岩の上に横たわる、僕の唯一の友人も。



