夜の闇に紛れて、遠くから誰かが近づいてくるのがわかった。
僕は黒っぽい服を被って地面に寝そべったまま、息を殺す。地面が近い。草の匂いがする。
「…………ここに寝かせればいいのか?」
「そう……」
ぼそぼそとした大人の話し声が聞こえてくる。僕は今、道のある反対側の斜面に寝っ転がっているから覗き込まれない限り見つかるわけがない。物音をたてないことにだけ気をつければいい。
日本語のようだけれどもどこか音楽のような、唸りのような声が響く。時々、「捧げ」とか「贄」という不吉な単語が聞こえるので、僕は耳をふさぎたくなったけれど、動かないことを優先した。儀式自体は短かった。十五分もなかったと思う。
「よし……じゃあ、降りるか」
「朝になったら見に来るでいいのか」
「ああ。これで儂らの代で終わる」
「神倉さんがよくやってくれた」
「うちの孫を使わんで済んだ」
良かった、よかった、という雰囲気なのがわかる。どこか弛緩した雰囲気。和やかですらあった。
(………ふざけないでよ)
生きていて初めて、というくらいの怒りが沸いてきた。僕の中にこんな怒りが眠ってたって知らなかったくらい。憎悪に似た熱が胸を焦がして、今すぐ起き上がってわめき散らしたくなる。どうして安心してるんだ。どうして笑えるんだ。彼を生贄にしておいて。彼が死ねば伝統が、ナニカとの約束を守れて、それで本当にめでたしめでたしって思っているのか。そんなこと、あっちゃいけないのに。
でも、それも僕は堪えた。
声が聞こえなくなり、それからも百数えるまで待った。虫の声と風の音しか聞こえない、と確信してから、僕はのっそりと立ち上がった。時間を確認すると、深夜二時だ。
(……あの本には、丑寅の時間、……大体二時から四時に儀式を行うようにって書いてあった。急がなきゃ)
僕は、近くに隠しておいた荷物を背負って、覆い屋に向かった。白い着物を着せられた神倉くんが黒岩の上に寝かされていた。胎児みたいに丸まっている。
「神倉くん、……神倉くん」
「ん……」
肩を揺らした僕の呼びかけに、彼はゆっくりと目を開いた。目がとろんと溶けている。
「………日野……?」
「神倉くん、大丈夫? ……お酒でも飲まされたの?」
生贄について調べている事例の中に、「生贄が怖がって暴れたりしないように、麻薬を打ったり、お酒を飲ませて眠らせておく」っていうのがあった。神倉くんがこくりと頷いたので、僕は眩暈を感じる。こんなこと本当にあっちゃだめだろ、という感じがする。でも、今それに文句を言っていても始まらない。
ここに昼から籠っていたから、自分用のペットボトルを持ち込んでいた。それを持って来て、神倉君の手に握らせる。
「飲んで、……ちょっとでも楽になるかも」
「………ん………」
彼はとろとろとした仕草で、それでも水を飲む。意識はちゃんとしてそうだ、と思ったから、僕は急いで準備をした。
黒岩から彼をおろして、代わりに、準備したお供え物を置いて行く。
お米が四袋、瓶入りの日本酒と焼酎とワインが二本ずつ、それからお頭つきのお魚が十六尾、貝は見栄えがするかなと思って鮑とハマグリ。それから、手芸屋さんで買って来た絹が五メートル。
珍しい果物なんかもいいかな、と思って西瓜とメロンが一玉ずつ、籠に入った桃が四つ。旬のものだから、茄子、きゅうり、トウモロコシ。
すぐに食べられるものもあったらいいかもしれない、と思ったから、いなりずしとおにぎりが一箱ずつ。
せっせとそれらをお店屋さんみたいに並べている僕を見て、地面にぺたりと座っていた神倉君が呟いた。
「……すげーな」
声がしっかりしてきている。僕は安心した。
「これ、全部買って来たのか」
「う、うん。どれが効くかわかんないから、片っ端から買って来た」
「酒もあるじゃん」
「ちょっと遠くのコンビニ行って……別に何も言われなかったよ」
海のものはちょっと多め。わかめとこんぶも並べておく。
「…………」
仕上げに、と、僕は神倉くんを塩で丸く囲った。不格好に歪んでいるけれど、地面に大きな白い円が描かれる。
「なにこれ」
「なんか、塩って魔よけなんだって。ちょっとでも躊躇って時間稼げればいいなって……あ、あとこれ」
手に入るだけ買って来たお守りを彼に手渡す。
「どれかは効くかもしれないから、持ってて」
「……こういうのってたくさん持ってていいのか?」
「いいんだよ」
根拠はないけど、僕は断言した。
「きっと神様だって許してくれるよ」
「……そうだな」
それにしてもこれはないんじゃねえの、と神倉くんが笑ったのは、いっそこれも入れちゃえとおもって入れておいた十字架だ。
「俺、キリスト教とか知らないけど」
「いいんだよ。一応って感じで」
彼に受けて、僕は嬉しかった。
「なあ……」
「……ん?」
神倉くんが僕を視線で呼んだので、僕は彼の隣に座った。地面に書いた塩の円が消えないように跨いで内側に入ると、僕たちはかなりくっついて座るしかなかった。
白い着物を来ているせいか、神倉くんはうっすらと輝いて、くっきりして見えた。
「あ……あと、僕、お香も持ってきたんだ。こういうのも魔よけの効果あるんだって」
とにかく魔よけの効果があるもので神倉君を守りながら、別に準備したお供え物で満足していただく、というのが僕がたてた作戦だった。
(……一応、もう一つだけ準備はしてあるけど……)
地面に刺したお香に、ライターで火をつける。多い方がいいかな、と思ったから、一箱つかった。
白い煙に包まれながら、
「これ、何の匂い?」
神倉くんが眉をしかめる。
「わかんない、……天壇って書いてあるけど。そういう木の種類かな」
「ふうん……」
「苦手?」
「いや。何の匂いだろって思っただけ」
「そっか」
「………」
「………」
僕たちはその後、お互いに黙っていた。
今のうちに話しておいた方がいい気はしたけれど、「今のうち」だなんて、終わりを予感しているみたいで気づきたくなかった。
夜風が僕たちの間をすり抜けていく。それをふさぐみたいに、隣の神倉くんがぐらりと肩を寄せてきた。
「………」
最初は、ただぐらついただけじゃないかと思ったけれど、でも、彼の体温がじわりと僕の腕に触れたまま離れなかったから、(あ、わざとなんだ)って気づいた。
「……まだ眠い?」
問いかけると、返事の代わりに額をこすりつけられてきた。よく馴れた猫みたいな仕草に、心を許されている気がして胸の奥がふわっと暖かくなる。
「……重いか?」
彼が心配してきたので、僕は直ぐに首を横に振った。
「全然」
実際、痩せている彼が全体重をかけてきたところで、大した重さじゃなかったのだ。
着物は着崩れて、白い肌と真っ直ぐな鎖骨が良く見えた。見てはいけないものの気がして、僕は視線をまっすぐに整える。
「そっか」
力を抜く彼が甘利にも無防備で、僕はそっと姿勢を正し、彼がもっと楽に寄りかかれるように肩を差し出した。
「あのさ」
「うん」
「ありがとな。こんだけ色々準備してくれてさ」
「ううん、……神倉くんが預けてくれたお金、本当に使っちゃった。相談せずにごめん」
僕も溜めていたお小遣いを相当使ったけれど、ここにあるだけのものをそろえるのに、神倉くんから受け取ったお金を使わないのは無理だった。事後承諾になってしまったことを謝ると、彼は「いいよ」
と言った。
「あれから、父さんが家から出してくれなくてさ。スマホも取り上げられたし、……連絡できなかったんだろ」
「うん……」
「それに、俺は正直諦めるつもりだったからさ」
彼の声がしわがれていたので、僕は水を勧めた。彼はそれを一口口に含んだ後、これも言っておかなければならない、という切実さで言った。
「ありがとな」
「……お礼なんていいよ、後でさ」
いつの間にか、僕たちは地面に落ちていた手を握り合っていた。間近に迫る闇が僕たちを飲み込むアギトだったとしても、僕たちが平気でいられるとしたら、この手のぬくもりがあったからだった。
「明日、一緒にお祭りに行こうね」
「………ああ」
「絶対行こうね」
「ああ………」
最初は気のせいかと思った錯覚が、いよいよこの時、確信に変わり始めていた。
暗闇から、誰かが僕たちを見つめている。誰かが、っていうより、ナニカが。
最初に彼とこの場所を訪れた時に感じた暗闇が、いよいよ彼を飲みこもうとして迫ってきているのだ。
僕が気づいているんだから、彼が気づいていないはずがない。それでも、彼の表情は全く同じままだった。
「……神倉くん」
「うん……」
こうしていられる時間はもう僅かだった。僕らは結び合う手に力を込めた。手のひらに溶けた熱が逃げないように固く拳を握り締め、僕だけが立ち上がった。辺りは急に静かになり、虫も風も姿を消す。白い円の外に一歩踏み出した。
「伏して……願い奉る」
人生で一番切実に、これだけ叶えばあとはもう全部どうなったっていい、という一心だった。
僕の目の前で闇が凝り、意志を以て膨らんでいく。生き物の常識じゃ考えられない。本能が危険だって叫んでる。それでも、背中に神倉くんがいると思えば、僕は無敵だと思えた。
「約定せし物、今度は調え難く、……代りに山海の幸を備え奉れり。何卒、此れを携え行かれ賜るよう、伏して願い奉る……」
空気が鉛みたいに重くなっていく。冷たい汗がじわじわと額ににじみ出た。誰も知らない裂溝の中に独りきりで落ちていくような心細さが僕を襲った。僕はほんの少し視線を後ろにずらした。白い着物の裾が見えて、それでまた勇気を確認できた。
「約定せし物、今度は調え難く、……代りに山海の幸を備え奉れり。何卒、此れを携え行かれ賜るよう、伏して願い奉る……」
同じ言葉を繰り返す。黒々とした闇は今は粘着質な泥のようになって、僕よりも高くそびえたっていた。どろり。どろり。頭にも肩にも冷たいカタマリが落ちてきて僕の視界をふさいでも、僕は呪文みたいに同じ言葉を繰り返した。少なくとも僕がここに立っている間、神倉くんは無事だ。それに、闇は触手のうちいくつかを、黒岩の上、僕が準備したお供え物に伸ばしていた。吟味しているのだ、きっと。
(……お願い、神倉くんよりも良いと思って。お願いだから……)
「約定せし物、今度は調え難く、……代りに山海の幸を備え奉れり。何卒、此れを携え行かれ賜るよう、伏して願い奉る……」
(十五回も人間を食べてきたんだ。最後の一回くらい……)
夜の沼にずぶずぶと沈んでいくような気持ちだった。自分が息をしているのかできていないのかもわからない。歯が下唇に食い込み、眉間に深い皺が出来る。
(……神倉くんは、こんなところで、死んでいい人じゃないんだ、絶対……)
(絶対に……)
(一緒に、……お祭りに………)
(これからずっと一緒に………)
冷たい汚泥が頭から降りかかり、じわじわと皮膚の感覚を吸い取っていく。ゆっくりと溺死していくような感覚は、自分と闇の境界が曖昧になっていくようなものだった。
肩、胸、腹が次々に飲み込まれていく。苦しかったけれど、逃げたいとは思わなかった。ここから逃げ出すことの方がもっと苦しいとわかっていたから。
水の底から響くようなくぐもった神倉くんの声が、僕の名前を呼んでいる。自分の身体がどこまで続いているのか、もうよくわからない。
「伏して、……ねがい……」
声を出しつづけたかったんだけれど、喉にも闇がまとわりつく。言葉がかたちを失い、ただの音に変わっていく。
「……ま……」
睫毛も覆われて、瞬きもおぼつかない。
意識がふっと揺らぐ。深い深い井戸の底に落ちていく浮遊感。
(……もし、このまま死んじゃったら)
細い楕円の視界は、黒く塗りつぶされている。
(最後に見るのって、この、……神さまになるのかな)
(それはちょっといやだけど、……)
(……しょうがない、か……)
闇は供物と僕を区別せずに飲み込んでいく。
何があっても最後まで立ち続けることが出来た。
これできっと、神倉くんは助かる。
そう思えている間は何も怖いものなんてなかったのに。
「……ひ……の、日野っ!!」
暗闇を切り裂いたのはナイフのような鋭い声。
肘を掴まれて、後ろ向きに引っ張られる。思わず半歩、足が下がった。
「………え」
困惑が喉の奥で転がる。何が起きたのか理解するより早く、神倉くんが僕の前に立っていた。
「だ……!」
僕は、駄目だよ、と叫んだ。
そしてこうなった時のために、つまり、アレが僕ではなく神倉くんを狙ってきたときの為に使うつもりだったナイフを引き抜く。おもちゃじゃない。本気のナイフを。
「いいんだ」
僕がナイフをソレに突き立てるよりも早く、驚くほど穏やかな声と共に、神倉くんが体を近寄せて来て、僕の抗う覚悟を地べたに放り投げた。ぴったりと合わさった掌の柔らかい感触と相手の呼吸がはっきりと伝わるほどの距離には、「大丈夫だ」と信じてしまうような安心があった。
「お前といて、ほんとに楽しかったよ」
雷鳴を呼ぶ黒い雲の隙間から、奇跡みたいなきまぐれで、一瞬だけ太陽が薄い光線をきらめかせる。闇に後ろ向きに倒れ込みながら、一瞬だけ見えた彼の微笑は、そんな光景を錯覚させる。
「じゃあな、……日野」
僕の目の前で、闇が彼を侵食した。蚕が葉を食い散らかすみたいに遠慮なく、一瞬で。
「かむっ……かむくらく……っ!」
僕は無我夢中で手を伸ばした。でも、その手は空しく空中をひっかいた。
テレビのチャンネルを切り替えた時みたいに前触れもなくあっさりと、世界から闇が消えた。
残ったのはありふれた夜だけ。虫の声も戻ってきている。よくみれば地面には月光さえ差し込んでいる。
僕は呆然とへたりこんだ。口を情けなく半開きにして、四つん這いになって手探りで神倉くんの影を探す。
「神座く……神座くん、神倉くん………」
悪い夢でも見ているみたいだ。頭がおかしくなっちゃいそう。熱病に浮かされた人みたいにその辺を歩き回り、あらゆる木の後ろを覗き込む。どこにも何もいない。闇すら僕を見つめ返してこない。昼間ここに来たときから、見えない何かに満ちているような、始終何かに見つめられているような感覚があった。今はそれすらない。すっかり満足して、いってしまったのだ。僕の友達を連れて。
「や……やだ、いやだ……」
黒い岩にしがみついて、素手で力いっぱい叩いた。心以外が痛むと、むしろ釣り合いを感じる。自分が壊れていないのが不思議なくらいなんだから、いっそ体も壊れるべきなんだ。
「いやだ、……いやだ、神倉くん、……神倉くん!」
「………あかんかったか」
声を張り上げた時、声をかけられた。肩越しに振り返ると、國本さんが立っている。悲し気に眉を垂らして、僕を見つめていた。
「國本さん……」
「……神さまとの交渉ってのはな、上手くいく方が珍しいんや、失敗して当たり前……でも、やること自体に意味があることもある」
「………」
「……満足してたと思うで。ウレズクの子も」
「………」
―――お前といて、ほんとに楽しかった。
神倉くんの言葉が、頭の奥でリフレインする。
いつでも、彼と二人ならリラックスできた。ここにいていいのだと思うことが出来た。
それはきっと、彼も同じだったんだ。
嬉しいはずなのに、今はそんな気持ちになれない。思い出すと胸がざわつく。粗い鑢を心に押し付けられたみたいに。
「………」
僕はゆっくり立ち上がった。手から血が出ていたから、地面に垂らさないようにポケットの中に突っ込む。いつも神倉くんがこうしていたな、と思う。いつの間にか、彼は僕の一部になっていた。自分のことよりも先に彼のことが思い浮かぶくらいに強く。
「………國本さん」
僕は地面に転がっていたナイフを拾い上げた。
(……神さまを殺す事なんて普通の人間には無理。そうだってわかってたけど、でも、絶対あきらめたくなかった)
おもちゃじゃないナイフは、その覚悟の証だ。
自分でも知らなかったんだけど、僕は、相当諦めの悪い人間みたいだ。
(……ううん、違うか。諦めないでいたら上手くいくってことを、……神倉くんが教えてくれたから)
一生独りなんだろうなって覚悟しかけていたとき、僕の傍にいてくれた。たった一人の友達。神倉くん。
彼にだって無理なんだ。……今の僕を、諦めさせることなんか。
それがたとえ、どんな大それたことだって。
人から信じて貰えないような、ばかげたことだって。
「……僕はこの土地の人間だから、僕がこれから何をしても、あなたは何もできない。そうですよね」
「…………」
國本さんはきっと、無力な高校生の僕は今回の顛末を傷つけながら受け入れ、諦めて、友達の犠牲を悲しみながらも日常生活に戻っていくって思ってたんだろう。安らかな眠りを祈るくらいのことしかできないって。
「僕、わかったんです。神様は災害じゃない、……だから、仕方がないなんて諦めることはできない」
僕は黒岩の上を見た。あれだけ準備した供物は全部なくなってる。
僕が準備したものは、きっと無駄じゃなかった。ただ、やっぱり、人の犠牲をあがなう大商物としてはあれでは足りなかったのだ。
「……君、何考えてる?」
國本さんの視線を感じたが、僕は平気だった。何をするべきか、はっきりとわかっていた。



