俺の三番目の人生

 病院の天井って、変な模様。
 目が覚めたのは、白いベッドの上だった。立ち上がろうとして、左脚が固定されていることに気付いた。前進が痛い。右腕は包帯でぐるぐる巻きになっていて、左腕には、点滴が繋がっている。消毒液と、人間の匂い。ここは病室か。
 病院のシーツは、パリッとしている。人が洗ったシーツは気持ちがいい。なんというか、世話されている感じがする。
 部屋は暖かくて、空気はほどよく乾いている。レースカーテンの向こうの青空は、文字通り雲一つない。青すぎるくらい青い。見ているだけでガラスから熱気が伝わってきそうだ。窓越しに微かに聞こえる蝉の声で、今が夏であることを思い出した。
 雲はないけれど、窓の向こうに鉄格子がある。変な模様の天井を見渡すと、監視カメラがついているのがわかった。ここは個室というよりも、隔離部屋なのだろう。
 右手が痛くて動かしづらい。枕元の引き出しをあけると、スマホと財布が入っていた。スマホは、画面にひびが入って電池が切れている。これは、生きているのだろうか。
 安野は、どうなったのだろう。
 引き出しの奥に、充電器が入っていた。俺の自室にあるものだ。叔父が持ってきてくれたのかもしれない。また手間をかけさせてしまった。
 こういう場合は、まず俺から叔父に連絡を入れるべきなのだろうか。病院に連絡してもらうものなのだろうか。財布を持ち歩いていたのは幸いだった。身元が確認できないと、いろいろと大変に違いない。
 入院には慣れている。こちらに引っ越してきてすぐも、俺は入院していた。夜中に叫んだり、暴れたり、ごめんなさいと連呼して頭を打ち付けたり。あのときの病室にも監視カメラがあった。叔父はずいぶんと手を焼いたはずだ。俺の額には今でも、あのとき打ち付けてできた傷が残っている。
 なんだかぼんやりするし、まだ眠い。なにより、体が重い。何日くらい経っているのか、見当もつかない。
 もう少し寝てしまおうかな、と考えていたら、医者と看護師がやってきた。やはり、監視されていたようだ。
 俺はしばらくの間、熱を出して眠っていたらしい。腕の傷が思ったより深く、破傷風が懸念されていたが、抗生物質の投与で熱が下がった。日付を聞くと、寝ている間に三日が経っていた。人間、三日寝たくらいでこんなに弱るものなのか。
「いろんなことが、どうなったんでしょうか」
 記憶を絞り出そうとすると、頭が痛い。夏休みの学校で、感染者が暴れたこと。陸上部のクラスメイトを殴り殺したこと。安野が怯えていて、戦闘力にならなかったこと。クラスメイトの女の子と安野を守るため、複数人の感染者に囲まれたこと。そこでスコップをめちゃくちゃに振り回したこと。加瀬の頭を、スコップで
 そこまで思い出して吐き気が襲ってきた。咄嗟に看護師さんがビニール袋をくれたけれど、胃液しか出なかった。
 とりあえず今は、脈は普通、熱も普通。体が重くて、眠い。お腹は空いている。食欲はない。左足にはわりと派手に怪我をしていて、骨にひびも入っているらしい。こちらは攻撃されたのではなく、どうやら自分で振り回したスコップが当たったようだ。
 何人、死んだのだろうか。
「君は感染者に噛まれたんだけれど、感染も発症もしていないんだよね。詳しいことは、精密検査の結果待ちなんだけど。最初のパンデミックのとき、関西に住んでいたみたいだね。何か、心当たりはある?警察にも聞かれると思うけど」
 ひびの入った左脚よりも、腫れた右腕が痛い。詳しいことは警察の人と、保護者の方を呼んで説明したいから、また後日。と言われてしまった。
「熱はだいぶ下がったね。抗生物質点滴してます。とりあえず、意識が戻ってよかった」
 そう言って医者は出て行ってしまった。
 意識が戻って、よかったのか。
 とにもかくにも、大方の予想通り、俺には感染しなかった。していたら今頃、人を襲って殺処分されていてもおかしくない。
 俺の左腕で血圧を測っていた看護師が、べりべりと機械を外しながら「ちょっと低めかな」と言う。
「ご飯は、食べられそうですか?」
「それより、お風呂に入りたいです」
 シャワーは夕方に三十分、予約制。昼食の時間は過ぎているけれど、ラップしてあるから食べられそうなら食べるように。シャンプーの類は持参。持ってなかったら、下の売店で買えますよ。
 とにかく俺は、普通の人間として扱いを受けている。ここから出歩くのも自由。とはいえ歩くのにも一苦労だし、全身痛い。
 看護師さんが行ってしまうと、充電していたスマホが起動した。そもそも人と連絡先を交換していないから、俺に連絡してくる人間がいるとは思っていなかったけれど、安野からすら何もない。無事なのだろうか。叔父からはメッセージが入っている。
『下着、石鹸類、スリッパなどを戸棚に入れておきます。起きたら連絡ください』
 そちらを閉じて、安野のトークルームを開く。四日前の『明日ネタ合わせ』『しよ』『学校で』『はちじ!』ここで止まっている。
 スクロールして、少し前のやりとりを遡る。いつも、安野からの連絡ばかりだ。『あしたひま?』『自習室行こ』『一緒に帰ろ』『おれんちくる?』『本屋寄りたい』『マック寄ろ』俺が教室で話しかけるなと言ったから。彼は同じ教室にいてもこうやって、時々俺にメッセージを送ってくれていた。
 見ていても仕方がないので、たまったメールボックスを開ける。ほとんどがどうでもいいメールマガジンだったので、読まずに削除していく。
 一番上に、学校からの連絡網があった。
『学校祭中止のお知らせ』
 日付は今日、時間はついさっきになっている。読もうと思ったけど、やめた。
 四日前の出来事はきっと、ニュースになっているだろう。調べればすぐにでてくるだろうけれど、今は頭が痛いので、やめておく。頭痛を自覚したら、お腹もすいてきた。
 ラップがかけられた昼食が運ばれてきた。といっても、ほぼ液体だ。限りなくお湯に近いおかゆに、具のない味噌汁、鎮痛剤。三日間寝ていた人間は、固形食が食べられるようになるまで三日かかるらしい。
 とりあえず、とても喉が渇いている。薄められた麦茶を口に運ぼうとしたら、口元が引きつった。頬に手を当てて確認すると、大きなガーゼが貼られている。
 この個室の入院費用に、いくらかかるのだろう。頭の中で預金残高と相談する。進学費用は残しておきたい。塾に申し込んだばかりの夏期講習の費用は、やっぱり戻ってこないのだろうか。
 何も考えずに眠りたい。いや、今まで眠っていたのだけれど。

 面会の時間は決まっている。叔父は仕事を抜けてきてくれたらしい。こういう場合、身寄りのない人間はどうするんだろう。
「また迷惑かけて、すみません」
「いやいや、被害者だから。とにかく無事でよかったよ」
「入院費用、高いのかな」
「いや、国から金が出るらしいよ。個室なのも、噛まれた人間は一応隔離が必要だから、だし」
 着替え、タオル、歯磨きセット、ペットボトルの水。念のための勉強道具。あの家に、自分の荷物はそんなにないと思っていたけれど、改めて見ると、生活する上で必要なものってたくさんあるんだな、と思う。
「警察の人から、話はきいた?」
「まだ」
「目が覚めて、落ち着いてからにするように言ってあるんだけど、ほんとしつこくて」
 仕事に戻るから、と叔父は帰っていった。手続きや世話の手間をかけさせてしまったのは申し訳ないけれど、俺がいない分、やっぱり一人暮らしは楽なんじゃないだろうか。彼女さんとも会えるだろうし。
 学校は、どうなっているのだろう。学校祭はなくなった。ということは俺の漫才ももう必要ない。安野からも連絡がないということは、そういうことなのかもしれない。漫才をやらないなら、俺はもう必要ないのだ。
 怪我、してないといいけれど。
 もしかしたらあの後、安野たちも襲われたかもしれない。俺の奮闘は、何の役にも立たなかったのかもしれない。だから連絡ができない状態にいるのかも。もしかして、もう既に
 そこまで考えたところで、夕食が運ばれてきた。相変わらずお湯に近いお粥に、具のない味噌汁だった。

 九時に寝て、六時に起きる、七時に朝食。
 すっかり健康になってしまった。睡眠は大事らしい。といっても、朝食がまだ流動食なのには気が滅入った。食べてみると、ほぼ液体だったお粥は微かに粒が感じられるし、味噌汁には小さな麩が入っている。
 叔父が暇つぶし用にと持ってきてくれた問題集は、全く解けなかった。頭がまったく働かないけれど、何もしないわけにはいかないので、単語帳を読んでいた。看護師さんには苦い顔で「なるべく安静にしてください」と言われたけれど、俺は受験生だ。受験がなくならない限りは、勉強しなくてはならない。
 今日も午後に寄る、と叔父から連絡があった。何か欲しいものはないかと聞かれたので、自室の机にある問題集をお願いした。その間も、他の誰かから連絡が来ることはなかった。
 昼食のお粥は、お湯というよりは食べ物に近くなっていた。完食すればグレードアップしていくシステムだろうから、残さず食べた。なんといっても、みかんゼリーがついていたのが嬉しい。みかんの房は入ってなくて、よくわからない栄養が入っている感じの、液体に近いゼリーではあったけど。

 昼食のお盆を下げてもらった頃、叔父が病室にやってきた。左手には下着や参考書の入った紙袋、右手にはなぜか花瓶を持っている。
「どしたん、その花瓶」
「今そこで、男の子に会って渡されたよ。同いくらいの。お友達かな」
「どんな子?」
「背が高くて、ハンサムな感じだったな。感じのいい」
 スマホを確認しても、特に連絡は入っていない。
「なんで花瓶?」
「お見舞いって、花は貰っても花瓶が足りなかったりするからね、彼なりに気を利かせて選んだんじゃない?」
 とんだボケである。大前提として、花をもってお見舞いに来てくれるような知り合いは、俺にはいないというのに。
「その子はもう帰った?」
「たぶん入りたがってたんだけど、なんというか……合わせる顔がない、みたいな」
「……俺から、連絡しとくわ」
 叔父が帰っていってから、サイドテーブルに花瓶を置いた。今日も天気がいい。花瓶と青空の写った写真を撮って、安野に送り付ける。
『明日中身持ってく』
 すぐに返事が来た。『了解』とだけ返す。

 俺の入院している総合病院は、家よりも学校に近い。記憶にはないけれど、学校から搬送されたのだろう。この感染症騒ぎの関係者が診てもらえる病院は限られている。
 翌日来た安野は、花束を持っていた。オレンジのガーベラと、黄色いスプレー咲きの薔薇、かすみ草、あと何かの葉っぱ。
 ほんの四日ぶりなのに、少し痩せた気がする。
「元気そうだね」
「どこがやねん」
 抗生物質の点滴、固定された左足。包帯でぐるぐる巻きにされた右腕は、まだ少し腫れて熱をもっている。右頬に貼られた大きめのガーゼは、嫌でも目につく。頭を切ったらしく、前髪をすこし剃られてしまった。安野の視線が、露出した額の痣に注がれている。
 安野は自分で選んだはずの花瓶に水を入れ、花を挿してから、「あれ、これ水にぜんぜん届かなくね?」などとぶつぶつ言っている。「そこにパイプ椅子あるから、どうぞ」と言うと、おとなしく座った。差し入れに、と半分に割ったパピコを渡されたが、まだ食べていいのかわからない。病室の冷蔵庫の冷凍部分は、限りなくオマケみたいなものだ。
「学校、どう」
「今は立ち入り禁止になってる。けど、新学期には間に合うんじゃないかなって言われてる。どうせ学祭は中止になっちゃったし、今は部活も停止。模試もない」
「そっか」
 安野はパピコを二つ同時に開けて、交互に吸っている。
「木原は」
「俺らはなんともない。向こうはちょっとショック受けてるみたいだけど。俺はかすり傷一つない」
「そうか」
 それは、よかった。
 加瀬のことは聞くまでもない。安野は、見たのだろうか。俺がスコップを振り回しているところを。見ない方がいいと言ったのに。
 面会の時間は、申請しない限りは五時までだ。そんなにゆっくりしている時間はない。
「いろいろ聞きたいことあるんだけど、いい?」
「なんでも聞いてくれていいよ」
 俺はそう答えて、目を逸らした。
「早坂は、自分は感染しない、って知ってたんだよな?」