夏休みになる前に、塾の夏期講習に申し込まなければならない。学校の期末考査の対策もしなくてはならない。漫才のネタのことも考えたいけれど、俺はそんなに並行して頭を使えるほど上等な頭をしていない。
こういうの、親が健在だったら一緒に考えたり、アドバイスしてくれたりしてうまくいくのだろうか。それはそれとして、俺の要領が悪いだけなのだろうか。
受験に必要な単元はほぼ二年生までの間に終わってる。あとは基本的に、毎週のようにある模試との戦いだ。学校オリジナルの定期テストになんの意味があるのかわからない。
という話を安野にしたら、「俺みたいな推薦組には切実なんだよ」と言っていた。「そもそもどっちも高校のカリキュラムの範囲内なんだから、大差ないだろ」とも。
俺のように、教師からの評価をほとんど諦めて下を向いているような人間は、なんだかんだで成績もたいして良くない。俺としては、一発勝負の受験より、日々の生活態度で好成績を取るほうがよっぽど難しいと思うのだけれど。安野曰く「受験は運要素でかいから」らしい。本番に雪で電車が止まったら終わり、試験にこぎつけても精神的に負けたら終わり。
「要領よくて羨ましいわ」
嫌味のつもりだったが、安野からは「要領だけで言ったら、得意な分野の勉強だけで進学できる方がよくない?」と返ってきた。教師への挨拶もろくにできない俺からしたら信じられないが、安野曰く「人間関係を潤滑にするためのチップだと思えばいい」らしい。
プロの漫才師は、どれくらい練習するのだろう。ネタ合わせなんかしない、相方に合わせて喋るだけ、みたいなプロがいるのも知っている。そんなの、ごく一部の天才と、相性のいい相方に出会えた人間だけだ。天才じゃない俺は努力するしかない。
けれどもし、そんな相手に出会えたとしたら。
たまたまフィーリングが合う人と出会い、子供の頃からの知り合いとコンビを組んで、プロになる人もいる。それこそ運だろう。ほとんどの人間はそんな相手に出会えることなく生涯を終えるに決まっている。
しかし、少なくとも、安野がそうでない、とは言い切れない。
終業式だったので、学校は午前中で終わった。いつものように最速で教室を出ようとしたところ、安野が走って追いかけてきた。
「たまには俺とも一緒に帰ってくれ」
「俺がいつも誰かと帰ってるかのような言い方やね」
先日一緒に帰った女子、付き添いの方、は時々俺に話しかけてくるようになった。といっても席は離れているし、用事もない。たまたまロッカーで荷物を出し入れしていたら「飴いる?」と話しかけてくる。その程度である。
とにかく安野としては、俺が学校で多少なりとも口を開くようになったことが衝撃であり、自分以外のクラスメイトと喋っていることも、女子からお菓子をもらっていることも、すべてが衝撃らしい。
「餌付けされてるな」
「女子ってお菓子配るの好きやもんな、知らんけど」
「あ、その知らんけどってやつ、照れてるときに使うんだねー。真似していい?」
「真似してんなって思われるだけやから、やめとき」
今日は叔父がいない。晩ご飯どうしようかな、と呟いていたら、安野がうちに泊まりにくる?と軽率に言ってきた。
「ママが、いつでも遊びにおいでって言ってる」
「そんなん悪いわ。妹さんもいてるし嫌がるやろ」
「それが、妹は終業式休んで、ばあちゃんち泊まってディズニーランド行ってるんだよね。うらやましー。あ、今夜カレーだって」
人が作った料理を、久しく食べていない。安野の母親には同情されているのだろうか。それとも、自分の息子に近づく関西人を監視してやろうと思われているのか。
「一旦帰って着替えとか持ってく」
いずれにせよ、家庭料理に飢えている俺は尻尾を振っていくことにした。
駅近くのケーキ屋でプリンを四つ買った。思ったより高くついたけれど、手土産の正解が分からない。安野の母親は、「じゃあこれは食後のデザートにいただこう」とプリンを冷蔵庫に仕舞い、安野は「おやつに食べたかったのにー」と駄々をこね、冷凍庫からアイスを二本、持ってきた。
アイスの封を開けながら、帰ってきた答案の△の部分を安野に見せる。
「途中までは合ってるね。てか、ただの計算ミスじゃん」
「ほんまに?ほんまやわ」
「早坂、ちゃんと見直ししてる?」
「してない」
「単純にケアレスミスが多いんだよな。余裕を持って解いて、二回は見直すといいよ」
「その余裕を持って解く、ができんのやけど」
「練習あるのみだね。そんだけ口が回るなら平気だよ」
漫才のときと、立場が逆なんだよな。
脳の使っている部分が違うのだろうか。俺は意外と、自分でも本当に意外だけれど、テストに関しては詰めが甘い。まあこれくらいでいけるやろ、と思っている節がある。
「普段はこんなに慎重派やのに」
「いや、俺から見た早坂はまあまあノリで生きてるよ」
「ほんまに?」
「慎重に生きてる人間は、いきなり俺と漫才やってくださいって初対面の人間に言われてもやらないんだよ」
「俺がやらんかったらできんかったやろ」
「面倒見もいいよね」
カレーの日にしてはカレーの匂いがしないな、とは思っていたけれど、出てきたのはハヤシライスだった。安野は小さい声で「完全にカレーの口だった」と言っていた。安野の母親曰く、「考え事しながらなんとなく作ってたら間違えた」らしい。
「ああ、ありますよね、そういうこと」
「でしょー?」
「ハヤシライスも好きです」
「なんでだよ」
安野は納得していなかったが、「あれだわ、早坂ってママと似てるんだわ」などと言いながらハヤシライスを口に運んでいた。
風呂上がりに安野が「コンビニにアイス買いにいこ」と言いだした。アイスはさっきも食べたし、プリンも買ってきたのに。
と言おうとしたら、安野の母親がテレビを見ながらプリンを食べていたので、やっぱり行くことにした。部屋着のままサンダルを履こうとしていたら「虫除けしていきなよー」と二階から声をかけられた。
「面白いよな、安野のお母さん」
「まあ、なんかマイペースだよな」
時刻は夜の九時を回っている。
「こんな時間に外出て補導されんかな」
「俺塾終わったらもっと遅いから、大丈夫」
夜とはいえ、30度はありそうだ。
夏は、苦手だ。暑くなってくると、嫌な思い出ばかりこみ上げてくる。正午の日差しも、蝉の声も、夜の窓ガラスに映ったパトカーの光も。
「このへん、街灯多くていいな」
ファミリー層の多い場所は、公園や街灯が多いようだ。俺の住んでるマンションの周辺はもう少し寂しい感じで、コンビニも遠い。
ファミリー層が多くても、真昼間でも、襲われるときは襲われるのだけど。
コンビニでガリガリ君を一本ずつ買って、齧りながら帰る。この感じなら、家に着く前になくなるだろう。
「ガリガリ君のアタリって、まだあるん?」
「俺当たったことあるよ」
「え、それってどうするん?」
「フツーにコンビニ持ってって、下さい!って言ったらもらえた」
「勇気あるな」
「勇気と言えばさ」
俺のガリガリ君はハズレだった。安野は棒を回転させながらまじまじと見ていたが、ビニール袋に無造作に戻した。ハズレだ。コンビニのゴミ箱まで歩くことにした。
「早坂さ、二年の時電車で痴漢捕まえてたでしょ」
「二年かも。よく知ってんな。見てたん?」
「うん、俺覚えてるもん」
忘れ物を取りに戻って、電車に乗るのが少し遅くなった日のことだった。なので、既に機嫌は悪かった。遅刻にはならないけれど、電車は混んでいた。
同じ高校の制服を着た女の子が、リュックを前に抱えて少し離れたところに立っていた。顔をこわばらせているように見えて、気になって観察していたのだった。
「かっこよかったもんな~、おいオッサン、なにしとんねんコラ。次の駅で俺と一緒に降りようや、な?ってさ」
「そんな怖い言い方してた?次の駅でオッサンにダッシュで逃げられたし。勇気出しただけ損やったわ」
結局痴漢を捕まえることはできず、被害者の上級生の女の子にも一応感謝はされたものの、「駅員室行きますか?」と聞いたら拒否された。結果俺は、ただ電車の中で関西弁を披露し、白い目で見られただけの人間になった。それだけの日だった。いいことをしたつもりで、ほぼ黒歴史となった。
「痴漢のオッサンより、関西弁の方があかんかったらしいわ」
「いやー、学校行くのを優先しただけちゃう?」
「ああいうやつは反撃しない人間狙ってるから、思いっきりデカい態度でいったろ思っただけやのに。やっぱ人助けなんてするもんちゃうわ」
「そんなことないよ、俺、そんときから早坂に目つけてたもんね」
「そうなん?てか、見てたんなら助けろや」
「いやだって、逆ギレされたら怖いし。早坂って案外好戦的なんだよな」
「まあな、猫被れるだけ被ってるからな」
案外、か。キレたらやばいのは根暗、と相場が決まってる。
「俺無遅刻無欠席キープしてたし、トラブルに巻き込まれると嫌だなって思って。自分だせーなって思いながら保身を選んだよ。だから普通にすげーって思った。てかあいつ、本当はめちゃくちゃ肝座ってるんじゃね?って思った」
「それは買いかぶりすぎやわ」
「いやいや、実際、学校来て一言も誰とも喋らず帰る、って相当肝座ってないと無理じゃない?」
「それ、褒めてるよな?」
「いやまじで、俺にはできないって」
安野には、安野の不安があるらしい。
帰ったら、リビングには誰もいなかった。安野の部屋に入ると、ベッドの隣に布団が敷かれている。旅館みたいな待遇だ。
あまりじろじろ見てはいけない、と思いつつ、安野の部屋は不思議な懐かしさがあってつい見てしまう。元素周期表なんて、自分の部屋にあっても見ないのに。
「人の本棚って、その人が詰まってるというか、勝手に見たらあかん気するよな」
「そう?なんでも見ていいよ」
天井まで届きそうな本棚には、参考書と一緒に「宇宙のひみつ」みたいな本が並んでいて、下の方には漫画の単行本が綺麗に揃っている。
俺の蔵書は、全て置いてきてしまった。子供の頃からずっと持っているもの、みたいなものが、俺にはなにもない。アルバムも貯金箱も、なにもかも。
断片的な情報を繋ぎ合わせたところによると、俺がかつて住んでいた辺りは、閉鎖こそされていないが、ゴーストタウンのようになっているらしい。ストリートビューで見てみたけれど、4年前で止まっている。
俺の家は、例の研究施設からはずっと離れていた。俺は家にいたから見ていないけれど、電車なんかも阿鼻叫喚だったらしい。自分の身に起こったことを考えれば、俺はまだ運が良かった、なんて到底言えない。けれど、そうやって自分に言い聞かせている。俺は生きているから、まだマシだ、と。
一定期間の隔離を終え、感染が確認されなかった俺は、叔父の借りてくれたレンタカーに乗せられてこちらに運ばれてきた。このあたりのことは、記憶が薄い。段ボール三箱分くらいの着替えや文具が俺のすべてだった。
「これ中学の卒アル?見ていい?」
「いいけど、なんもおもんないよ」
集合写真と、個人写真。どこかに安野はいるのだろうけれど、人数が多いので断念した。みんな同じに見える。
余白の部分に、寄せ書きがある。男子と思わしき汚い字と、女子と思わしき綺麗でカラフルな字。安野が昔から人気者であったことが伺える。
俺には卒業アルバムがない。
「こういう感じなんやな、卒アルって」
中三の後半、俺は学校に行っていない。叔父は俺を頻繁に病院に連れて行ってくれたと思う。転入手続きをしたこちらの公立中学校には、毎週プリントみたいなものを受け取りに行ってくれていた。正直高校なんてどうでもよかったけれど、そうするといよいよ叔父に迷惑をかけることになるので、通信教育みたいなものを駆使して勉強し、なんとか進学した。
なんとか進学したその先の、クラスの真ん中にいたのが、安野だ。
どこに出しても恥ずかしい卑屈なクソガキだった俺は、ただただ妬ましかった。あんなクオリティの漫才で満足している安野にも、その相方にも怒りを覚えた。
「早坂さ、その髪型で卒アルの写真撮ったら、たぶん黒歴史なるよ」
俺の髪は伸ばしっぱなしでもさもさしていている。
「なあ安野」
「どした?」
「いきなり髪切ったらイメチェンみたいで恥ずかしいから、なんとかして俺を卒業までに、髪切りたいと思わせてくれ」
「それはボケで言ってる?」
「大真面目や」
「なら、わかった」
夏休み期間中の学祭の準備は任意参加だったけれど、安野がついでにネタ合わせしようぜ、というので学校へ行った。空き教室にエアコンを入れてくれるし、ジャージでいいし。学校のジャージは通気性がいいし、洗ってもすぐ乾くから好きだ。
俺たちのクラスは、お化け屋敷をやるらしい。アレが起こる前は飲食店なんかもやっていたらしいけれど、衛生的にどうのこうの理由をつけてなくなったそうだ。あんまり関係ないけどな、と思う。
一応、最終的には多数決だった。教室の後ろの黒板に書かれた選択肢を、声のでかいやつらが日々ワイワイと増やしたり減らしたりしているのは見ていた。最終的に決まらなくて、ホームルームで決めることになったのだった。俺は意思決定に参加していない。多数っぽい方に入れただけだ。果たしてこれは民意なのだろうか、と思いながら。
「脱出ゲームがよかった」
「あんなん、考えるの大変やろ」
お化け屋敷以外の案もあった。巨大迷路、謎解き、宝探し、カジノ。安野は最後まで脱出ゲームを推していたが、考えるのが面倒、そもそも脱出ゲームに興味のある人があまりいない、ネタバレされたら後の人間が楽しくなくなる、などの意見により、最終的に負けた。俺は堂々とお化け屋敷に手を挙げていたので、安野に恨まれた。
「それを考えるのが楽しいんじゃん。物理的な準備だけで言うと、お化け屋敷の方が大変」
安野と教室に入ると、すでに五、六人が集まっていた。一人の女子は、俺たちをみて目を伏せた。この前、安野の彼女の有無を聞いてきた子だ。
「今日こっち手伝ってくれる感じ?」
「いや、俺らは俺らで別件」
「えー、リレーの練習もさぼりじゃん」
スウェーデンリレーの女子が俺と安野を見比べて、嫌そうに目を細める。俺は安野の後ろに隠れるみたいにして、少しずり下がった眼鏡を直す。
「俺ら空き教室にいるから、人手が必要だったら声かけて」
安野が隣の教室を指し、クラスメイトは「はーい」と、不満そうに答える。俺は黙って安野の後ろをついていく。
「めっちゃ睨まれてたんやけど」
「塾で練習出れてないしな」
どうやら、安野を独占すると多方面から恨みを買うらしい。俺だけのせいではないので、勘弁してほしい。どちらかと言うと、頼まれてやっている側だ。確かに俺はクラス行事には積極的ではないけれど、非協力的でもない。
「安野って、誰とでも喋るよな」
「人見知りはしないかもね。早坂は、喋んないね」
「喋ることない」
昔は、どちらかというとお喋りな子供だったと思う。学校から帰って、今日は何をして過ごしたか、夕食の時に両親に話したものだ。
「でも加瀬とは喋るくない?」
「加瀬?」
「いや、名前覚えてよ。餌付け女子」
「ああ」
安野以外のクラスメイトを、男女問わず個体で認識していないのは、俺の落ち度である。あまり興味がないのもあるけれど、純粋に、視界を狭くして下ばかり向いていると覚えられない。女子の髪はみんな黒くてまっすぐで、大体同じに見える。向こうも別に、俺に認識されたいとは思っていないだろうし。
噂をしていると、後ろから「早坂~」と声がした。パタパタと音を立てて加瀬が歩いてくる。上履きのかかとを踏むタイプらしい。
「ほら、これあげるからがんばんな。後でお化け屋敷手伝って」
はい、と手を出されたのでこちらも手のひらを出すと、のど飴をひとつ、載せてくれた。凶器のような長い爪は、涼しげな水色で固められている。
「俺には?」
「チョコしかない」
「それでいいや」
加瀬がポケットからチロルチョコを取り出して、安野の手に乗せる。
「うわ、やわらか」
「いつのかわかんない」
ホワイトデーに三倍にして返してね、と加瀬は教室に戻っていった。安野は「えこれどうしよ?固める?」とぶつぶつ言っていたけれど、俺はなんだか、友達の輪的なものに入れてもらったな、という気分になった。
「聞いてみて気付いたんやけど、俺、活舌悪いよな」
練習用に、プロの漫才を真似したものを二人で録音してみた。どうしても、俺の声はもごもごしているように聞こえる。
「ああ、そうかも。口が小さいのかなって思ってたけど、口があんま動いてないよね」
人間、喋らずにいると顔の筋肉が衰えるのだと、最近になって気付いた。人前に立つ以上、自分の喋りを録音したり、動画に撮って確認する作業は不可欠だ。しかし、改めて客観的に聞いてみると、思ったより精神的なダメージが大きい。
「なんか俺の喋り方、感じ悪いわ」
「もっと、学校で喋ったらいいよ」
俺だって必要があれば喋る。中学生の頃までは、もう少しクラスみんなで仲良くしましょうみたいな空気があった。この高校がなのか、高校がみんなそうなのかは知らないけれど、割と放任されていると思う。
アレのせいで俺たちには修学旅行もない。俺たちが入学するまでは、シンガポールや韓国に行ったりしていたらしい。そうなるとまた、とんでもなくお金がかかる。受験にかかる費用のことなんかを考えると、なくてよかったな、とも思う。
班決めだの、自由行動だの、そういうのがなくてよかった。安野は誰と組んでも楽しくやるだろうし、引っ張りだこだろう。
でも俺には、安野しかいない。
こういうの、親が健在だったら一緒に考えたり、アドバイスしてくれたりしてうまくいくのだろうか。それはそれとして、俺の要領が悪いだけなのだろうか。
受験に必要な単元はほぼ二年生までの間に終わってる。あとは基本的に、毎週のようにある模試との戦いだ。学校オリジナルの定期テストになんの意味があるのかわからない。
という話を安野にしたら、「俺みたいな推薦組には切実なんだよ」と言っていた。「そもそもどっちも高校のカリキュラムの範囲内なんだから、大差ないだろ」とも。
俺のように、教師からの評価をほとんど諦めて下を向いているような人間は、なんだかんだで成績もたいして良くない。俺としては、一発勝負の受験より、日々の生活態度で好成績を取るほうがよっぽど難しいと思うのだけれど。安野曰く「受験は運要素でかいから」らしい。本番に雪で電車が止まったら終わり、試験にこぎつけても精神的に負けたら終わり。
「要領よくて羨ましいわ」
嫌味のつもりだったが、安野からは「要領だけで言ったら、得意な分野の勉強だけで進学できる方がよくない?」と返ってきた。教師への挨拶もろくにできない俺からしたら信じられないが、安野曰く「人間関係を潤滑にするためのチップだと思えばいい」らしい。
プロの漫才師は、どれくらい練習するのだろう。ネタ合わせなんかしない、相方に合わせて喋るだけ、みたいなプロがいるのも知っている。そんなの、ごく一部の天才と、相性のいい相方に出会えた人間だけだ。天才じゃない俺は努力するしかない。
けれどもし、そんな相手に出会えたとしたら。
たまたまフィーリングが合う人と出会い、子供の頃からの知り合いとコンビを組んで、プロになる人もいる。それこそ運だろう。ほとんどの人間はそんな相手に出会えることなく生涯を終えるに決まっている。
しかし、少なくとも、安野がそうでない、とは言い切れない。
終業式だったので、学校は午前中で終わった。いつものように最速で教室を出ようとしたところ、安野が走って追いかけてきた。
「たまには俺とも一緒に帰ってくれ」
「俺がいつも誰かと帰ってるかのような言い方やね」
先日一緒に帰った女子、付き添いの方、は時々俺に話しかけてくるようになった。といっても席は離れているし、用事もない。たまたまロッカーで荷物を出し入れしていたら「飴いる?」と話しかけてくる。その程度である。
とにかく安野としては、俺が学校で多少なりとも口を開くようになったことが衝撃であり、自分以外のクラスメイトと喋っていることも、女子からお菓子をもらっていることも、すべてが衝撃らしい。
「餌付けされてるな」
「女子ってお菓子配るの好きやもんな、知らんけど」
「あ、その知らんけどってやつ、照れてるときに使うんだねー。真似していい?」
「真似してんなって思われるだけやから、やめとき」
今日は叔父がいない。晩ご飯どうしようかな、と呟いていたら、安野がうちに泊まりにくる?と軽率に言ってきた。
「ママが、いつでも遊びにおいでって言ってる」
「そんなん悪いわ。妹さんもいてるし嫌がるやろ」
「それが、妹は終業式休んで、ばあちゃんち泊まってディズニーランド行ってるんだよね。うらやましー。あ、今夜カレーだって」
人が作った料理を、久しく食べていない。安野の母親には同情されているのだろうか。それとも、自分の息子に近づく関西人を監視してやろうと思われているのか。
「一旦帰って着替えとか持ってく」
いずれにせよ、家庭料理に飢えている俺は尻尾を振っていくことにした。
駅近くのケーキ屋でプリンを四つ買った。思ったより高くついたけれど、手土産の正解が分からない。安野の母親は、「じゃあこれは食後のデザートにいただこう」とプリンを冷蔵庫に仕舞い、安野は「おやつに食べたかったのにー」と駄々をこね、冷凍庫からアイスを二本、持ってきた。
アイスの封を開けながら、帰ってきた答案の△の部分を安野に見せる。
「途中までは合ってるね。てか、ただの計算ミスじゃん」
「ほんまに?ほんまやわ」
「早坂、ちゃんと見直ししてる?」
「してない」
「単純にケアレスミスが多いんだよな。余裕を持って解いて、二回は見直すといいよ」
「その余裕を持って解く、ができんのやけど」
「練習あるのみだね。そんだけ口が回るなら平気だよ」
漫才のときと、立場が逆なんだよな。
脳の使っている部分が違うのだろうか。俺は意外と、自分でも本当に意外だけれど、テストに関しては詰めが甘い。まあこれくらいでいけるやろ、と思っている節がある。
「普段はこんなに慎重派やのに」
「いや、俺から見た早坂はまあまあノリで生きてるよ」
「ほんまに?」
「慎重に生きてる人間は、いきなり俺と漫才やってくださいって初対面の人間に言われてもやらないんだよ」
「俺がやらんかったらできんかったやろ」
「面倒見もいいよね」
カレーの日にしてはカレーの匂いがしないな、とは思っていたけれど、出てきたのはハヤシライスだった。安野は小さい声で「完全にカレーの口だった」と言っていた。安野の母親曰く、「考え事しながらなんとなく作ってたら間違えた」らしい。
「ああ、ありますよね、そういうこと」
「でしょー?」
「ハヤシライスも好きです」
「なんでだよ」
安野は納得していなかったが、「あれだわ、早坂ってママと似てるんだわ」などと言いながらハヤシライスを口に運んでいた。
風呂上がりに安野が「コンビニにアイス買いにいこ」と言いだした。アイスはさっきも食べたし、プリンも買ってきたのに。
と言おうとしたら、安野の母親がテレビを見ながらプリンを食べていたので、やっぱり行くことにした。部屋着のままサンダルを履こうとしていたら「虫除けしていきなよー」と二階から声をかけられた。
「面白いよな、安野のお母さん」
「まあ、なんかマイペースだよな」
時刻は夜の九時を回っている。
「こんな時間に外出て補導されんかな」
「俺塾終わったらもっと遅いから、大丈夫」
夜とはいえ、30度はありそうだ。
夏は、苦手だ。暑くなってくると、嫌な思い出ばかりこみ上げてくる。正午の日差しも、蝉の声も、夜の窓ガラスに映ったパトカーの光も。
「このへん、街灯多くていいな」
ファミリー層の多い場所は、公園や街灯が多いようだ。俺の住んでるマンションの周辺はもう少し寂しい感じで、コンビニも遠い。
ファミリー層が多くても、真昼間でも、襲われるときは襲われるのだけど。
コンビニでガリガリ君を一本ずつ買って、齧りながら帰る。この感じなら、家に着く前になくなるだろう。
「ガリガリ君のアタリって、まだあるん?」
「俺当たったことあるよ」
「え、それってどうするん?」
「フツーにコンビニ持ってって、下さい!って言ったらもらえた」
「勇気あるな」
「勇気と言えばさ」
俺のガリガリ君はハズレだった。安野は棒を回転させながらまじまじと見ていたが、ビニール袋に無造作に戻した。ハズレだ。コンビニのゴミ箱まで歩くことにした。
「早坂さ、二年の時電車で痴漢捕まえてたでしょ」
「二年かも。よく知ってんな。見てたん?」
「うん、俺覚えてるもん」
忘れ物を取りに戻って、電車に乗るのが少し遅くなった日のことだった。なので、既に機嫌は悪かった。遅刻にはならないけれど、電車は混んでいた。
同じ高校の制服を着た女の子が、リュックを前に抱えて少し離れたところに立っていた。顔をこわばらせているように見えて、気になって観察していたのだった。
「かっこよかったもんな~、おいオッサン、なにしとんねんコラ。次の駅で俺と一緒に降りようや、な?ってさ」
「そんな怖い言い方してた?次の駅でオッサンにダッシュで逃げられたし。勇気出しただけ損やったわ」
結局痴漢を捕まえることはできず、被害者の上級生の女の子にも一応感謝はされたものの、「駅員室行きますか?」と聞いたら拒否された。結果俺は、ただ電車の中で関西弁を披露し、白い目で見られただけの人間になった。それだけの日だった。いいことをしたつもりで、ほぼ黒歴史となった。
「痴漢のオッサンより、関西弁の方があかんかったらしいわ」
「いやー、学校行くのを優先しただけちゃう?」
「ああいうやつは反撃しない人間狙ってるから、思いっきりデカい態度でいったろ思っただけやのに。やっぱ人助けなんてするもんちゃうわ」
「そんなことないよ、俺、そんときから早坂に目つけてたもんね」
「そうなん?てか、見てたんなら助けろや」
「いやだって、逆ギレされたら怖いし。早坂って案外好戦的なんだよな」
「まあな、猫被れるだけ被ってるからな」
案外、か。キレたらやばいのは根暗、と相場が決まってる。
「俺無遅刻無欠席キープしてたし、トラブルに巻き込まれると嫌だなって思って。自分だせーなって思いながら保身を選んだよ。だから普通にすげーって思った。てかあいつ、本当はめちゃくちゃ肝座ってるんじゃね?って思った」
「それは買いかぶりすぎやわ」
「いやいや、実際、学校来て一言も誰とも喋らず帰る、って相当肝座ってないと無理じゃない?」
「それ、褒めてるよな?」
「いやまじで、俺にはできないって」
安野には、安野の不安があるらしい。
帰ったら、リビングには誰もいなかった。安野の部屋に入ると、ベッドの隣に布団が敷かれている。旅館みたいな待遇だ。
あまりじろじろ見てはいけない、と思いつつ、安野の部屋は不思議な懐かしさがあってつい見てしまう。元素周期表なんて、自分の部屋にあっても見ないのに。
「人の本棚って、その人が詰まってるというか、勝手に見たらあかん気するよな」
「そう?なんでも見ていいよ」
天井まで届きそうな本棚には、参考書と一緒に「宇宙のひみつ」みたいな本が並んでいて、下の方には漫画の単行本が綺麗に揃っている。
俺の蔵書は、全て置いてきてしまった。子供の頃からずっと持っているもの、みたいなものが、俺にはなにもない。アルバムも貯金箱も、なにもかも。
断片的な情報を繋ぎ合わせたところによると、俺がかつて住んでいた辺りは、閉鎖こそされていないが、ゴーストタウンのようになっているらしい。ストリートビューで見てみたけれど、4年前で止まっている。
俺の家は、例の研究施設からはずっと離れていた。俺は家にいたから見ていないけれど、電車なんかも阿鼻叫喚だったらしい。自分の身に起こったことを考えれば、俺はまだ運が良かった、なんて到底言えない。けれど、そうやって自分に言い聞かせている。俺は生きているから、まだマシだ、と。
一定期間の隔離を終え、感染が確認されなかった俺は、叔父の借りてくれたレンタカーに乗せられてこちらに運ばれてきた。このあたりのことは、記憶が薄い。段ボール三箱分くらいの着替えや文具が俺のすべてだった。
「これ中学の卒アル?見ていい?」
「いいけど、なんもおもんないよ」
集合写真と、個人写真。どこかに安野はいるのだろうけれど、人数が多いので断念した。みんな同じに見える。
余白の部分に、寄せ書きがある。男子と思わしき汚い字と、女子と思わしき綺麗でカラフルな字。安野が昔から人気者であったことが伺える。
俺には卒業アルバムがない。
「こういう感じなんやな、卒アルって」
中三の後半、俺は学校に行っていない。叔父は俺を頻繁に病院に連れて行ってくれたと思う。転入手続きをしたこちらの公立中学校には、毎週プリントみたいなものを受け取りに行ってくれていた。正直高校なんてどうでもよかったけれど、そうするといよいよ叔父に迷惑をかけることになるので、通信教育みたいなものを駆使して勉強し、なんとか進学した。
なんとか進学したその先の、クラスの真ん中にいたのが、安野だ。
どこに出しても恥ずかしい卑屈なクソガキだった俺は、ただただ妬ましかった。あんなクオリティの漫才で満足している安野にも、その相方にも怒りを覚えた。
「早坂さ、その髪型で卒アルの写真撮ったら、たぶん黒歴史なるよ」
俺の髪は伸ばしっぱなしでもさもさしていている。
「なあ安野」
「どした?」
「いきなり髪切ったらイメチェンみたいで恥ずかしいから、なんとかして俺を卒業までに、髪切りたいと思わせてくれ」
「それはボケで言ってる?」
「大真面目や」
「なら、わかった」
夏休み期間中の学祭の準備は任意参加だったけれど、安野がついでにネタ合わせしようぜ、というので学校へ行った。空き教室にエアコンを入れてくれるし、ジャージでいいし。学校のジャージは通気性がいいし、洗ってもすぐ乾くから好きだ。
俺たちのクラスは、お化け屋敷をやるらしい。アレが起こる前は飲食店なんかもやっていたらしいけれど、衛生的にどうのこうの理由をつけてなくなったそうだ。あんまり関係ないけどな、と思う。
一応、最終的には多数決だった。教室の後ろの黒板に書かれた選択肢を、声のでかいやつらが日々ワイワイと増やしたり減らしたりしているのは見ていた。最終的に決まらなくて、ホームルームで決めることになったのだった。俺は意思決定に参加していない。多数っぽい方に入れただけだ。果たしてこれは民意なのだろうか、と思いながら。
「脱出ゲームがよかった」
「あんなん、考えるの大変やろ」
お化け屋敷以外の案もあった。巨大迷路、謎解き、宝探し、カジノ。安野は最後まで脱出ゲームを推していたが、考えるのが面倒、そもそも脱出ゲームに興味のある人があまりいない、ネタバレされたら後の人間が楽しくなくなる、などの意見により、最終的に負けた。俺は堂々とお化け屋敷に手を挙げていたので、安野に恨まれた。
「それを考えるのが楽しいんじゃん。物理的な準備だけで言うと、お化け屋敷の方が大変」
安野と教室に入ると、すでに五、六人が集まっていた。一人の女子は、俺たちをみて目を伏せた。この前、安野の彼女の有無を聞いてきた子だ。
「今日こっち手伝ってくれる感じ?」
「いや、俺らは俺らで別件」
「えー、リレーの練習もさぼりじゃん」
スウェーデンリレーの女子が俺と安野を見比べて、嫌そうに目を細める。俺は安野の後ろに隠れるみたいにして、少しずり下がった眼鏡を直す。
「俺ら空き教室にいるから、人手が必要だったら声かけて」
安野が隣の教室を指し、クラスメイトは「はーい」と、不満そうに答える。俺は黙って安野の後ろをついていく。
「めっちゃ睨まれてたんやけど」
「塾で練習出れてないしな」
どうやら、安野を独占すると多方面から恨みを買うらしい。俺だけのせいではないので、勘弁してほしい。どちらかと言うと、頼まれてやっている側だ。確かに俺はクラス行事には積極的ではないけれど、非協力的でもない。
「安野って、誰とでも喋るよな」
「人見知りはしないかもね。早坂は、喋んないね」
「喋ることない」
昔は、どちらかというとお喋りな子供だったと思う。学校から帰って、今日は何をして過ごしたか、夕食の時に両親に話したものだ。
「でも加瀬とは喋るくない?」
「加瀬?」
「いや、名前覚えてよ。餌付け女子」
「ああ」
安野以外のクラスメイトを、男女問わず個体で認識していないのは、俺の落ち度である。あまり興味がないのもあるけれど、純粋に、視界を狭くして下ばかり向いていると覚えられない。女子の髪はみんな黒くてまっすぐで、大体同じに見える。向こうも別に、俺に認識されたいとは思っていないだろうし。
噂をしていると、後ろから「早坂~」と声がした。パタパタと音を立てて加瀬が歩いてくる。上履きのかかとを踏むタイプらしい。
「ほら、これあげるからがんばんな。後でお化け屋敷手伝って」
はい、と手を出されたのでこちらも手のひらを出すと、のど飴をひとつ、載せてくれた。凶器のような長い爪は、涼しげな水色で固められている。
「俺には?」
「チョコしかない」
「それでいいや」
加瀬がポケットからチロルチョコを取り出して、安野の手に乗せる。
「うわ、やわらか」
「いつのかわかんない」
ホワイトデーに三倍にして返してね、と加瀬は教室に戻っていった。安野は「えこれどうしよ?固める?」とぶつぶつ言っていたけれど、俺はなんだか、友達の輪的なものに入れてもらったな、という気分になった。
「聞いてみて気付いたんやけど、俺、活舌悪いよな」
練習用に、プロの漫才を真似したものを二人で録音してみた。どうしても、俺の声はもごもごしているように聞こえる。
「ああ、そうかも。口が小さいのかなって思ってたけど、口があんま動いてないよね」
人間、喋らずにいると顔の筋肉が衰えるのだと、最近になって気付いた。人前に立つ以上、自分の喋りを録音したり、動画に撮って確認する作業は不可欠だ。しかし、改めて客観的に聞いてみると、思ったより精神的なダメージが大きい。
「なんか俺の喋り方、感じ悪いわ」
「もっと、学校で喋ったらいいよ」
俺だって必要があれば喋る。中学生の頃までは、もう少しクラスみんなで仲良くしましょうみたいな空気があった。この高校がなのか、高校がみんなそうなのかは知らないけれど、割と放任されていると思う。
アレのせいで俺たちには修学旅行もない。俺たちが入学するまでは、シンガポールや韓国に行ったりしていたらしい。そうなるとまた、とんでもなくお金がかかる。受験にかかる費用のことなんかを考えると、なくてよかったな、とも思う。
班決めだの、自由行動だの、そういうのがなくてよかった。安野は誰と組んでも楽しくやるだろうし、引っ張りだこだろう。
でも俺には、安野しかいない。
