関西で封じ込められていたはずのウィルスに、なぜ関東で感染者が出たのか。
連日そんな内容が繰り返し報道されているけれど、みんな本当は、言われなくたってわかってる。「感染者にも人権があるから、隔離はお願いベースでしかない」という、日本の曖昧な法律のせいだ。
「こえーよなまじで」
安野は軽い口調で言うが、恐怖は本物だろう。あっという間に飲み込まれた大阪のパンデミックと違って、こちらでは日々、いたちごっこが繰り広げられている。
昼は一緒に食べよう、と自分から誘った。ネタが形になったので、見てもらうつもりだった。主に安野からの誘いが多いけれど、最近よく一緒に食べる。他人からどう思われているのかは、気になる。でも、俺もクラスメイトなんだから、昼食を食べる権利くらいはあるだろう。
感染して人を襲おうとしている人間を殺しても、正当防衛になるらしい。殺してしまえばそれ以上感染が広まらずに済むから。感染者が早々に死んでしまえばまだマシな話で、元気よくウィルスをばら撒かれてしまえば、首都圏は関西圏の二の舞になって終わりだ。
今朝のニュースでは、スーパーで暴れた人間が買い物客複数人によって殺された、という話を聞いた。死んでから分かったが、感染者じゃなかったらしい。つまり、感染者のふりをして暴れただけの愉快犯だった。なぜそんなことをするのかは本当にわからないが、本人としては、心からそれが面白いと思ってやったのかもしれない。
「人を傷つけない笑い、みたいな言葉あるけど、よくわかんないよな」
安野は最近「そもそもお笑いとは何か?」を考えるフェーズに入ったらしい。俺から見るとそれ自体が面白いので、傍観している。面白いの基準は人それぞれだ。傷つく基準もまた、人それぞれだ。そしてもちろん中央値もあれば、限度もある。
「人を傷つけずに生きるのは、無理ちゃう?」
「そうなのかな」
「俺なんか関西弁喋ってるっぽい、ってだけで攻撃対象やで。攻撃されるってことは、存在するだけで恐怖とか脅威とか、そういう感じのを与えてるってことやろ」
「なるほどね?」
「実際、感染者が暴れてたらその場で殺してもまあしゃーない、みたいな感じなのが現状やん。人を殺すことをしゃーないで片付けだしたら、だんだんそのハードルが下がっていくと思わへん?」
ネタを書く用のノート、というのを最近持ち歩いている。できれば絶対人には見られたくないものだ。もっと簡単なメモみたいなものはスマホに入っている。でも、こうやって安野と顔を突き合わせて話し合うときは、手書きに限る。
「俺は、それが怖い」
人を傷つけない笑い、というものがあるとして、「これくらいなら許されるやろ」の基準を自分の中ではっきりさせておかないと、何らかのタイミングで自分のことが嫌いになるのではないか。ネタを考えていると、そんな得体のしれない恐怖みたいなものが、胸の奥からこみ上げてくる。
「笑わせる、ってのは、楽しいって思ってもらうことが目的なはずなのに、なんで人を傷つける笑いが存在するんやろ」
「早坂ってホント、思慮深いよなぁ」
「バカにしてる?」
「いやいや、本当にそう思っただけだよ」
三年前の出来事と光景を、俺はわりとしっかり覚えている。町はパニックになった。人口も減った。俺の通っていた学校は無事だったが、自主登校になった。高校受験がどうなるのかわからなくて、途方に暮れた。
人口が密集している場所にいて、逃げ遅れた人が犠牲になった。保育園、学校、医療施設。どこかのデパートでは、女性従業員の制服に義務付けられていたヒールがなくなったらしい。
子供の頃に頻繁に通っていたお笑いの劇場も、その近くにあった商店街も商業施設も、軒並み潰れてしまった。年に一回、年末に決勝がテレビ放送されていた漫才のコンテストも、なくなった。審査する人間も、出場する人間も、見に来る人間も減ったから。
安野はそのコンテストを、復興させたいらしい。見に来る人間の総数が減っても、笑いを必要とする人間の割合は変わらないだろうから。
気の長い話だ。
「こんなご時世に笑いなんて不謹慎、って思う人もいるのかな」
「いるからやってないんかもな」
「こんなご時世だからこそ、笑いを諦めちゃいけないんだ」
安野は大まじめに言う。
「高卒で養成所、とかも考えてたんだけどね」
大阪にあった大きなお笑いの養成所は、募集を停止してしまった。人口密集地にあったから、募集できなくなる出来事があったのだろう。俺はすぐ関東圏に移住してしまったし、そこからは自分の生活で精一杯だった。具体的になにがどこまでなくなって、どれくらいの人が減ったのか、残っている人たちはどんな生活をしているのか、詳しく知らない。はっきりしているのは、自分が家族を失い、生まれ育った町を追われることになった、ということくらいだ。
多分、俺が当事者でなければ「他の場所に住めばいいのに」という感想を抱いていただろう。そうではない。住めればどこでもいいというわけではない。ほんの些細な環境や文化の違いによるストレスが、毎日澱のように溜まっていくのが移住だ。
「大学行きながらでも養成所は入れるしな」
「え、そんなんできんの?」
「それくらいやってる芸人はいっぱいいてると思う。それで売れるかどうかは別やけど、ほら、部活やってるやつの方が成績良かったりするやん。打ち込めるやつはなんでもできるし、打ち込めないやつはどんな環境にいても無理、ってことや」
「厳しー」
安野はできる側の人間だけどな、と思う。
実はこの安野の関東弁も、俺は気に食わなかった。ニュースで聞く分には気にならないのに、電車や教室で他人が使っていると苛立つ。だから俺は心の中で「標準語」ではなく「関東弁」と呼ぶし、そんなものを身に着けるなら喋らない方がマシ、とう方向を選んだ。我ながら頑固である。
「てか、養成所行くなら早坂と一緒じゃないと意味ないじゃん」
「そこまで考えてんの?」
「当たり前だろー、養成所で出会ったコンビより、幼馴染とかの方が、なんかいいじゃん」
口には出していないけれど、俺が懸念しているのは、このまま安野といて、自分が必要以上に劣等感を抱いてしまわないか、だ。現状俺には安野に勝っている部分がない。安野は俺が関西弁でなかったら、話しかけてない。その程度の関係だから。
「俺らは、幼馴染ちゃうけど」
「似たようなもんだろ~?」
そのフットワークの軽さと社交性が、眩しい。
「夏休みの間に転校するんだって、松田」
松田。出席番号で言うと、俺の二つ後ろの男だ。隣の列だからなんとなく覚えていた。安野と比較的よく喋っているから、視界に入ってくる。
「疎開ってやつ?」
「そー。どこだっけな、新潟だか秋田だか、なんか北の方だったと思う」
「高三の二学期に転校できるとこなんかあるんかな」
「田舎だと意外とあるらしいよ。元から定員割れしてるとことか。編入試験とかもあるんだろうし、制服代とかかかりそうだけど」
「制服代は嫌やな」
関東圏で生まれ育った人間は、だいたい関東圏で進学する。学部によっては地方の国立大学を選ぶ人間もいるとは思うけれど、俺みたいな、何を学びに進学するのかをよくわかってないタイプは、わざわざ不便な土地に移動することはあまりない。
「受験、どうすんのかな」
「いやー、考えたくもないな」
「安野は指定校やろ?」
「それなんだけどさ、」
安野はほおばっていた卵焼きをゆっくりと飲み下しながら言った。弁当の中に入っている、わざわざハートの形にカットされた、黄色い卵焼き。
「妹とママが、九州のばーちゃんち住みたいとか言い出して」
「九州?」
「まだ小学生だからな。ママもなんか毎日ニュース見て怯えてて、プチパニックみたいになっちゃってんだよな。もうさ、ニュースなんか見なきゃいいのにね」
安野は同意を求めてきたが、俺の頭の中は、それで安野はどうするんだろう、でいっぱいだった。
安野が九州に疎開して、そちらで進学する可能性?そんなものがあるのなら、今俺が受験勉強をおろそかにしてまで漫才について考えている理由はなんだ。つい小一時間前まで、完成したネタを見てもらいたくてウキウキしていた自分を殴りたい。
それに、ルームシェアの話がなくなれば、また考えなくてはならないことが振り出しに戻る。寮のある大学に入って、奨学金を借りて、叔父に保証人になってもらって……。
ここ数日で膨らんでいた希望のタネが、またちょっとずつ小さくなっていくのを感じた。
帰りは、家の最寄り駅の本屋で待ち合わせしていた。市販の問題集を買っても、最後まで解けたことがない。小学生の頃からずっとそうだ。買って最初の方はやるけれど、大体四分の一くらいやったら、あとは白紙。なのに、また欲しくなる。買ったところで頭が良くなるわけではないのに、安心を買っているのかもしれない。
「このシリーズ買うなら、この前買ってたやつ三回やったほうがいいよ」
棚の問題集をパラパラ捲っていたら、いつの間にか安野が隣に来ていた。
「そうなん?」
「うん。新しいの買うより、同じやつ三回やった方がいい」
安野が言うなら、きっとそうなんだろう。
一度手に入れたものを最後まで、丁寧に使い倒す。その方が効率がいいから。それが安野のやり方だ。飽きない、というのはその時点で才能である。
「新しい本って、なんかテンション上がるのに落ち着くんよな」
「わかる」
手に持っていたテキストを棚に戻す。
「俺んちにいても、すぐ妹が話しかけてくるからあんま集中できないんだよね。早坂は一人っ子で羨まし」
そこまで言ってから安野は「あ、ごめん」と口を噤んだ。
「いや、一人っ子なんは元から一人っ子やから」
「それはなんか、見ればわかる」
「え、なんで?」
「いやもう、一人っ子って感じだもん」
このご時世一人っ子は珍しくない。でも、兄弟がほしくなかったか、と言われると、ほしかったと思う。一人だと、家族を失った悲しみを背負うのも、一人だから。
今日の休み時間、ノートを睨んで頭を抱えていると、前の席に安野がやってきた。「ここわかってなかったっしょ。俺解けたから」と、自分のノートを開きながら。周りに見られている気がする。後々安野が何か言われるに決まっている。安野のことだから、たぶんこんな風にフォローする。「意外と面白くていいやつだよ」。人たらしの怖いところは、ナチュラルに距離が近いところだ。
「教室であんま話しかけんといてほしい」
感じが悪くならないように、でもきっぱりと、視線は参考書に落としたまま言う。
「嫌ならやめるけど」
「嫌とかちゃうねん。教室で、が困るってだけ」
「なんでそんなに卑屈なの?」
卑屈。俺は卑屈なのだろうか。目立ちたくない、という俺の些細な願いは、そんなに図々しいのだろうか。
「俺は、普通に生活したいねん」
「俺だって普通に、早坂と教室でも喋りたいってだけじゃん」
「安野の普通と、俺の普通は違う」
安野は首をかしげていたけれど、少し間を置いて、わかった、と低い声で言った。
叔父は、出勤時間もバラバラなら帰宅時間もバラバラだ。生活っぷりを見ていると本当に独身男性、という感じで、よくもまあ血縁とはいえ、子供を引き取ってくれたものだと思う。元から長く一緒にいる気もなかっただろうけれど。俺は今年十八歳、気分的には子供だけれど、法的には成人男性になる。
わざわざ俺のために引っ越してくれた2DKは、そんなに新しくもないけれど、小綺麗で住みやすい。駅の向こうのファミリーエリアとは違って、ほどよく単身者や学生が住んでいる。
俺の生家は中がめちゃくちゃに荒れてしまって、持ってこられるものがあまりなかった。引っ越し業者を手配することもできなかったし、階段や床が割れてしまったので大型家電を運び出すこともできず、自分の部屋から、タンスの中身を持ってくるのが精いっぱいだった。
そんな感じで、俺はほとんど着の身着のままで移動してきたから、叔父の荷物の多さに驚いた。単身用の冷蔵庫は男二人で住むには少し小さかったけれど、二人とも大して料理をするわけでもないので、麦茶くらいしか入っていない。
「今日は早く帰れそうだから、何か買って帰る」
叔父からそう連絡があったのが十五時過ぎだった。安野と自習室へ行く約束をしていたけれど、キャンセルした。安野は一人で行くらしい。
暮らすということは汚すということだ。玄関の三和土は掃かなければ砂埃が溜まる。風呂場のタイルは磨かなければ水垢がつくし、放置すれば排水溝は詰まる。洗面所の鏡も拭かなければ飛沫が付着する。麦茶は飲めばなくなる。そういうことを、ここに来るまで気にしたことがなかった。
気にして生きている子供もいるのだろうか、と考えると、自分が恥ずかしくなる。その気持ちを上書きするために、早く帰った日は少しでも、気付いたところを掃除する。
実際のところ、俺がここに置いてもらえている現状は、叔父の気分一つで変わる可能性がある。そう考えると、胃を掴まれたような気持になる。
せめて、高校卒業まではおいてもらわなければ。
そのためには、自分の有用性を示さなければならない。小学校に掃除の時間があったのって、インフラだったんだな。ほとんど使われていないキッチン周りだけがピカピカだ。
「ただいま」
カレーの香りと共に、叔父が帰ってきた。叔父の好きな、駅前のインド料理屋のテイクアウトだ。料理はできるようになりたいけれど、インド料理に関しては、買った方が安そうに見える。
食べる前と後にダイニングテーブルを拭くのは、子供の頃から俺の仕事だった。なので、叔父にテーブルを拭く習慣がなかったことには若干引いた。きっと、大人になるとそういう細かいことを省略するようになって、忘れていくんだろう。
「塾とか、足りてる?」
叔父は家の外と中で、器用にイントネーションを使い分けている。といっても、俺から見たらかなり標準語よりの関西弁に聞こえるけれど。こうやってこっちで暮らしているうちに、俺の言葉もこちらに馴染んでいくのだろうか。
「夏休みの集中講座も申し込みたいと思ってる。あとは、図書館の自習室意外と空いてるし、じゅうぶんかな。あと、この部屋もけっこう落ち着くから」
「家で勉強できるの偉すぎるわ」
多分、俺はこの部屋のことをあまり自分の家だと思えていない。だから、気が緩んで勉強に集中できない、なんてこともない。
辛いのも熱いのも苦手だった。俺は中三まで、甘口のカレーを食べていた。こっちにきて初めて食べたインドカレーは、中辛でも十分すぎるくらい辛かった。叔父は何も言わなかったけれど、俺のことを「甘やかされて育ったお子様」と感じたのを受け取った。
「疎開しようと思ってて」
叔父がチーズナンを裂きながら言う。疎開。最近ニュースなんかでよく聞く、流行りのワード。人口が多くて危険な首都圏を脱して、のびのび暮らせる場所へ。主に、小さな子供のいる家族連れに流行っているやつだ。
「一人で?」
「結婚しようと思ってて」
「彼女おったんや」
「うん」
ゆうてまだ付き合って一年経ってないけど、と叔父は小声でつけたした。一年が、三十代の男性にとって長いのか短いのか、俺には想像もつかない。
「彼女、ほかんとこでも仕事できる資格あるし。俺はないけど。けど、このへんにいるの不安って言うから、もう結婚して移住しよっか、みたいな」
彼女さんから見たら、俺は、それはそれは邪魔な存在だろう。俺がいるから、彼女は叔父の部屋に遊びに来れないのだ。叔父の帰りの時間がバラバラなのも、やたら残業が多い気がしていたのも、休日は一日家にいないのも、週末帰ってこないのも、合点がいった。
「いつ?」
「うーん、ゆうて年度の途中は厳しいからね」
「……高校卒業するまで、待ってくれへんかな」
「それは待つよ。十八なんか、普通に考えて子供やもん」
叔父の彼女さんは納得するのだろうか。いや、納得できない、と言ったところで、叔父がそれを理由に彼女と別れる可能性だってあるだろう。俺としては、そちらの方が罪悪感を覚えそうだ。
とにかく邪魔しないようにするしかない。
「どこ移住するん?」
「彼女の地元かな。俺らの地元はもう、あんな感じやからね。でも、地元がない以上、姉貴の忘れ形見の面倒くらいは見たいからな、俺としても」
「なんか、ごめん」
「謝ることじゃない。子供は心配せんでいいよ。どう。ちょっとは友達できてるん」
「学祭で、漫才しよって言ってる」
「へえ、いいな。見に行こかな」
関西弁で舞台に立つことについて何か言われるかと思ったけれど、それはいいらしかった。いいのだろうか。
どう考えたって、イントネーションで迫害される生活の方が異常だけどな。
頭ではそう思う。でもそれは、平時の話だ。世間が平和だったら、の話だ。
「辛いの食べれるようになったな」
「もう大人やし」
大人にならなくては、と思う。それが辛口が食べられるかどうか、ではないことはわかっているけれど、このままでいるとラベルだけが更新されてしまう。
考えることが、多い。
連日そんな内容が繰り返し報道されているけれど、みんな本当は、言われなくたってわかってる。「感染者にも人権があるから、隔離はお願いベースでしかない」という、日本の曖昧な法律のせいだ。
「こえーよなまじで」
安野は軽い口調で言うが、恐怖は本物だろう。あっという間に飲み込まれた大阪のパンデミックと違って、こちらでは日々、いたちごっこが繰り広げられている。
昼は一緒に食べよう、と自分から誘った。ネタが形になったので、見てもらうつもりだった。主に安野からの誘いが多いけれど、最近よく一緒に食べる。他人からどう思われているのかは、気になる。でも、俺もクラスメイトなんだから、昼食を食べる権利くらいはあるだろう。
感染して人を襲おうとしている人間を殺しても、正当防衛になるらしい。殺してしまえばそれ以上感染が広まらずに済むから。感染者が早々に死んでしまえばまだマシな話で、元気よくウィルスをばら撒かれてしまえば、首都圏は関西圏の二の舞になって終わりだ。
今朝のニュースでは、スーパーで暴れた人間が買い物客複数人によって殺された、という話を聞いた。死んでから分かったが、感染者じゃなかったらしい。つまり、感染者のふりをして暴れただけの愉快犯だった。なぜそんなことをするのかは本当にわからないが、本人としては、心からそれが面白いと思ってやったのかもしれない。
「人を傷つけない笑い、みたいな言葉あるけど、よくわかんないよな」
安野は最近「そもそもお笑いとは何か?」を考えるフェーズに入ったらしい。俺から見るとそれ自体が面白いので、傍観している。面白いの基準は人それぞれだ。傷つく基準もまた、人それぞれだ。そしてもちろん中央値もあれば、限度もある。
「人を傷つけずに生きるのは、無理ちゃう?」
「そうなのかな」
「俺なんか関西弁喋ってるっぽい、ってだけで攻撃対象やで。攻撃されるってことは、存在するだけで恐怖とか脅威とか、そういう感じのを与えてるってことやろ」
「なるほどね?」
「実際、感染者が暴れてたらその場で殺してもまあしゃーない、みたいな感じなのが現状やん。人を殺すことをしゃーないで片付けだしたら、だんだんそのハードルが下がっていくと思わへん?」
ネタを書く用のノート、というのを最近持ち歩いている。できれば絶対人には見られたくないものだ。もっと簡単なメモみたいなものはスマホに入っている。でも、こうやって安野と顔を突き合わせて話し合うときは、手書きに限る。
「俺は、それが怖い」
人を傷つけない笑い、というものがあるとして、「これくらいなら許されるやろ」の基準を自分の中ではっきりさせておかないと、何らかのタイミングで自分のことが嫌いになるのではないか。ネタを考えていると、そんな得体のしれない恐怖みたいなものが、胸の奥からこみ上げてくる。
「笑わせる、ってのは、楽しいって思ってもらうことが目的なはずなのに、なんで人を傷つける笑いが存在するんやろ」
「早坂ってホント、思慮深いよなぁ」
「バカにしてる?」
「いやいや、本当にそう思っただけだよ」
三年前の出来事と光景を、俺はわりとしっかり覚えている。町はパニックになった。人口も減った。俺の通っていた学校は無事だったが、自主登校になった。高校受験がどうなるのかわからなくて、途方に暮れた。
人口が密集している場所にいて、逃げ遅れた人が犠牲になった。保育園、学校、医療施設。どこかのデパートでは、女性従業員の制服に義務付けられていたヒールがなくなったらしい。
子供の頃に頻繁に通っていたお笑いの劇場も、その近くにあった商店街も商業施設も、軒並み潰れてしまった。年に一回、年末に決勝がテレビ放送されていた漫才のコンテストも、なくなった。審査する人間も、出場する人間も、見に来る人間も減ったから。
安野はそのコンテストを、復興させたいらしい。見に来る人間の総数が減っても、笑いを必要とする人間の割合は変わらないだろうから。
気の長い話だ。
「こんなご時世に笑いなんて不謹慎、って思う人もいるのかな」
「いるからやってないんかもな」
「こんなご時世だからこそ、笑いを諦めちゃいけないんだ」
安野は大まじめに言う。
「高卒で養成所、とかも考えてたんだけどね」
大阪にあった大きなお笑いの養成所は、募集を停止してしまった。人口密集地にあったから、募集できなくなる出来事があったのだろう。俺はすぐ関東圏に移住してしまったし、そこからは自分の生活で精一杯だった。具体的になにがどこまでなくなって、どれくらいの人が減ったのか、残っている人たちはどんな生活をしているのか、詳しく知らない。はっきりしているのは、自分が家族を失い、生まれ育った町を追われることになった、ということくらいだ。
多分、俺が当事者でなければ「他の場所に住めばいいのに」という感想を抱いていただろう。そうではない。住めればどこでもいいというわけではない。ほんの些細な環境や文化の違いによるストレスが、毎日澱のように溜まっていくのが移住だ。
「大学行きながらでも養成所は入れるしな」
「え、そんなんできんの?」
「それくらいやってる芸人はいっぱいいてると思う。それで売れるかどうかは別やけど、ほら、部活やってるやつの方が成績良かったりするやん。打ち込めるやつはなんでもできるし、打ち込めないやつはどんな環境にいても無理、ってことや」
「厳しー」
安野はできる側の人間だけどな、と思う。
実はこの安野の関東弁も、俺は気に食わなかった。ニュースで聞く分には気にならないのに、電車や教室で他人が使っていると苛立つ。だから俺は心の中で「標準語」ではなく「関東弁」と呼ぶし、そんなものを身に着けるなら喋らない方がマシ、とう方向を選んだ。我ながら頑固である。
「てか、養成所行くなら早坂と一緒じゃないと意味ないじゃん」
「そこまで考えてんの?」
「当たり前だろー、養成所で出会ったコンビより、幼馴染とかの方が、なんかいいじゃん」
口には出していないけれど、俺が懸念しているのは、このまま安野といて、自分が必要以上に劣等感を抱いてしまわないか、だ。現状俺には安野に勝っている部分がない。安野は俺が関西弁でなかったら、話しかけてない。その程度の関係だから。
「俺らは、幼馴染ちゃうけど」
「似たようなもんだろ~?」
そのフットワークの軽さと社交性が、眩しい。
「夏休みの間に転校するんだって、松田」
松田。出席番号で言うと、俺の二つ後ろの男だ。隣の列だからなんとなく覚えていた。安野と比較的よく喋っているから、視界に入ってくる。
「疎開ってやつ?」
「そー。どこだっけな、新潟だか秋田だか、なんか北の方だったと思う」
「高三の二学期に転校できるとこなんかあるんかな」
「田舎だと意外とあるらしいよ。元から定員割れしてるとことか。編入試験とかもあるんだろうし、制服代とかかかりそうだけど」
「制服代は嫌やな」
関東圏で生まれ育った人間は、だいたい関東圏で進学する。学部によっては地方の国立大学を選ぶ人間もいるとは思うけれど、俺みたいな、何を学びに進学するのかをよくわかってないタイプは、わざわざ不便な土地に移動することはあまりない。
「受験、どうすんのかな」
「いやー、考えたくもないな」
「安野は指定校やろ?」
「それなんだけどさ、」
安野はほおばっていた卵焼きをゆっくりと飲み下しながら言った。弁当の中に入っている、わざわざハートの形にカットされた、黄色い卵焼き。
「妹とママが、九州のばーちゃんち住みたいとか言い出して」
「九州?」
「まだ小学生だからな。ママもなんか毎日ニュース見て怯えてて、プチパニックみたいになっちゃってんだよな。もうさ、ニュースなんか見なきゃいいのにね」
安野は同意を求めてきたが、俺の頭の中は、それで安野はどうするんだろう、でいっぱいだった。
安野が九州に疎開して、そちらで進学する可能性?そんなものがあるのなら、今俺が受験勉強をおろそかにしてまで漫才について考えている理由はなんだ。つい小一時間前まで、完成したネタを見てもらいたくてウキウキしていた自分を殴りたい。
それに、ルームシェアの話がなくなれば、また考えなくてはならないことが振り出しに戻る。寮のある大学に入って、奨学金を借りて、叔父に保証人になってもらって……。
ここ数日で膨らんでいた希望のタネが、またちょっとずつ小さくなっていくのを感じた。
帰りは、家の最寄り駅の本屋で待ち合わせしていた。市販の問題集を買っても、最後まで解けたことがない。小学生の頃からずっとそうだ。買って最初の方はやるけれど、大体四分の一くらいやったら、あとは白紙。なのに、また欲しくなる。買ったところで頭が良くなるわけではないのに、安心を買っているのかもしれない。
「このシリーズ買うなら、この前買ってたやつ三回やったほうがいいよ」
棚の問題集をパラパラ捲っていたら、いつの間にか安野が隣に来ていた。
「そうなん?」
「うん。新しいの買うより、同じやつ三回やった方がいい」
安野が言うなら、きっとそうなんだろう。
一度手に入れたものを最後まで、丁寧に使い倒す。その方が効率がいいから。それが安野のやり方だ。飽きない、というのはその時点で才能である。
「新しい本って、なんかテンション上がるのに落ち着くんよな」
「わかる」
手に持っていたテキストを棚に戻す。
「俺んちにいても、すぐ妹が話しかけてくるからあんま集中できないんだよね。早坂は一人っ子で羨まし」
そこまで言ってから安野は「あ、ごめん」と口を噤んだ。
「いや、一人っ子なんは元から一人っ子やから」
「それはなんか、見ればわかる」
「え、なんで?」
「いやもう、一人っ子って感じだもん」
このご時世一人っ子は珍しくない。でも、兄弟がほしくなかったか、と言われると、ほしかったと思う。一人だと、家族を失った悲しみを背負うのも、一人だから。
今日の休み時間、ノートを睨んで頭を抱えていると、前の席に安野がやってきた。「ここわかってなかったっしょ。俺解けたから」と、自分のノートを開きながら。周りに見られている気がする。後々安野が何か言われるに決まっている。安野のことだから、たぶんこんな風にフォローする。「意外と面白くていいやつだよ」。人たらしの怖いところは、ナチュラルに距離が近いところだ。
「教室であんま話しかけんといてほしい」
感じが悪くならないように、でもきっぱりと、視線は参考書に落としたまま言う。
「嫌ならやめるけど」
「嫌とかちゃうねん。教室で、が困るってだけ」
「なんでそんなに卑屈なの?」
卑屈。俺は卑屈なのだろうか。目立ちたくない、という俺の些細な願いは、そんなに図々しいのだろうか。
「俺は、普通に生活したいねん」
「俺だって普通に、早坂と教室でも喋りたいってだけじゃん」
「安野の普通と、俺の普通は違う」
安野は首をかしげていたけれど、少し間を置いて、わかった、と低い声で言った。
叔父は、出勤時間もバラバラなら帰宅時間もバラバラだ。生活っぷりを見ていると本当に独身男性、という感じで、よくもまあ血縁とはいえ、子供を引き取ってくれたものだと思う。元から長く一緒にいる気もなかっただろうけれど。俺は今年十八歳、気分的には子供だけれど、法的には成人男性になる。
わざわざ俺のために引っ越してくれた2DKは、そんなに新しくもないけれど、小綺麗で住みやすい。駅の向こうのファミリーエリアとは違って、ほどよく単身者や学生が住んでいる。
俺の生家は中がめちゃくちゃに荒れてしまって、持ってこられるものがあまりなかった。引っ越し業者を手配することもできなかったし、階段や床が割れてしまったので大型家電を運び出すこともできず、自分の部屋から、タンスの中身を持ってくるのが精いっぱいだった。
そんな感じで、俺はほとんど着の身着のままで移動してきたから、叔父の荷物の多さに驚いた。単身用の冷蔵庫は男二人で住むには少し小さかったけれど、二人とも大して料理をするわけでもないので、麦茶くらいしか入っていない。
「今日は早く帰れそうだから、何か買って帰る」
叔父からそう連絡があったのが十五時過ぎだった。安野と自習室へ行く約束をしていたけれど、キャンセルした。安野は一人で行くらしい。
暮らすということは汚すということだ。玄関の三和土は掃かなければ砂埃が溜まる。風呂場のタイルは磨かなければ水垢がつくし、放置すれば排水溝は詰まる。洗面所の鏡も拭かなければ飛沫が付着する。麦茶は飲めばなくなる。そういうことを、ここに来るまで気にしたことがなかった。
気にして生きている子供もいるのだろうか、と考えると、自分が恥ずかしくなる。その気持ちを上書きするために、早く帰った日は少しでも、気付いたところを掃除する。
実際のところ、俺がここに置いてもらえている現状は、叔父の気分一つで変わる可能性がある。そう考えると、胃を掴まれたような気持になる。
せめて、高校卒業まではおいてもらわなければ。
そのためには、自分の有用性を示さなければならない。小学校に掃除の時間があったのって、インフラだったんだな。ほとんど使われていないキッチン周りだけがピカピカだ。
「ただいま」
カレーの香りと共に、叔父が帰ってきた。叔父の好きな、駅前のインド料理屋のテイクアウトだ。料理はできるようになりたいけれど、インド料理に関しては、買った方が安そうに見える。
食べる前と後にダイニングテーブルを拭くのは、子供の頃から俺の仕事だった。なので、叔父にテーブルを拭く習慣がなかったことには若干引いた。きっと、大人になるとそういう細かいことを省略するようになって、忘れていくんだろう。
「塾とか、足りてる?」
叔父は家の外と中で、器用にイントネーションを使い分けている。といっても、俺から見たらかなり標準語よりの関西弁に聞こえるけれど。こうやってこっちで暮らしているうちに、俺の言葉もこちらに馴染んでいくのだろうか。
「夏休みの集中講座も申し込みたいと思ってる。あとは、図書館の自習室意外と空いてるし、じゅうぶんかな。あと、この部屋もけっこう落ち着くから」
「家で勉強できるの偉すぎるわ」
多分、俺はこの部屋のことをあまり自分の家だと思えていない。だから、気が緩んで勉強に集中できない、なんてこともない。
辛いのも熱いのも苦手だった。俺は中三まで、甘口のカレーを食べていた。こっちにきて初めて食べたインドカレーは、中辛でも十分すぎるくらい辛かった。叔父は何も言わなかったけれど、俺のことを「甘やかされて育ったお子様」と感じたのを受け取った。
「疎開しようと思ってて」
叔父がチーズナンを裂きながら言う。疎開。最近ニュースなんかでよく聞く、流行りのワード。人口が多くて危険な首都圏を脱して、のびのび暮らせる場所へ。主に、小さな子供のいる家族連れに流行っているやつだ。
「一人で?」
「結婚しようと思ってて」
「彼女おったんや」
「うん」
ゆうてまだ付き合って一年経ってないけど、と叔父は小声でつけたした。一年が、三十代の男性にとって長いのか短いのか、俺には想像もつかない。
「彼女、ほかんとこでも仕事できる資格あるし。俺はないけど。けど、このへんにいるの不安って言うから、もう結婚して移住しよっか、みたいな」
彼女さんから見たら、俺は、それはそれは邪魔な存在だろう。俺がいるから、彼女は叔父の部屋に遊びに来れないのだ。叔父の帰りの時間がバラバラなのも、やたら残業が多い気がしていたのも、休日は一日家にいないのも、週末帰ってこないのも、合点がいった。
「いつ?」
「うーん、ゆうて年度の途中は厳しいからね」
「……高校卒業するまで、待ってくれへんかな」
「それは待つよ。十八なんか、普通に考えて子供やもん」
叔父の彼女さんは納得するのだろうか。いや、納得できない、と言ったところで、叔父がそれを理由に彼女と別れる可能性だってあるだろう。俺としては、そちらの方が罪悪感を覚えそうだ。
とにかく邪魔しないようにするしかない。
「どこ移住するん?」
「彼女の地元かな。俺らの地元はもう、あんな感じやからね。でも、地元がない以上、姉貴の忘れ形見の面倒くらいは見たいからな、俺としても」
「なんか、ごめん」
「謝ることじゃない。子供は心配せんでいいよ。どう。ちょっとは友達できてるん」
「学祭で、漫才しよって言ってる」
「へえ、いいな。見に行こかな」
関西弁で舞台に立つことについて何か言われるかと思ったけれど、それはいいらしかった。いいのだろうか。
どう考えたって、イントネーションで迫害される生活の方が異常だけどな。
頭ではそう思う。でもそれは、平時の話だ。世間が平和だったら、の話だ。
「辛いの食べれるようになったな」
「もう大人やし」
大人にならなくては、と思う。それが辛口が食べられるかどうか、ではないことはわかっているけれど、このままでいるとラベルだけが更新されてしまう。
考えることが、多い。
