俺の三番目の人生

 当然、我が家に誰かを招いたこともないけれど、こちらに来てから、友達の家に遊びに行くというイベントは初めてだった。
 放課後になって突然、安野は俺の席まで来て「一緒に帰ろ」と話しかけてきた。敬語じゃなくていいのか、関西弁にならないか、逡巡した結果、おとなしく頷いた。
他のクラスメイトが、明らかに好奇の視線を送ってきているのもわかった。なにしろ俺は、少なくとも学校の中では、必要最低限の発語以外したことがない。もちろん、人前で安野と喋るのも初めてだった。
「早坂は塾ないの?」
「週一。木曜だけ」
 駅までの、すこしだけ下り坂になった道を並んで歩く。人と歩くと、一人で歩くより時間がかかるらしい。
 安野の家は、俺の住まいからそんなに遠くなかった。駅を挟んで反対方向、直線距離なら1.5キロくらい。自転車なら一瞬だ。
 都会の家って縦に細長い、と思う。入ってすぐに玄関がある間取り。俺が中学生まで過ごしていた家もこんな感じだった。どこも似たようなものなのだろうか。
 子供の頃、母親の実家に遊びに行ったことがある。もう少し広くて、花火ができるくらいの庭があった。母と叔父は年が離れていて、俺は当時まだ高校生だった叔父に遊んでもらったことがあるらしいけれど、覚えていない。
 祖父は亡くなり、祖母は施設に入っている。叔父はそちらの手続きも一人で背負っている。あまり迷惑をかけるわけにはいかない。

 二階のリビングでは、安野の母親がパソコンを睨んでいた。
「あら、お友達?」
 メガネをかけて、「えー、言ってよお」と丸出しの額を隠している。あの仕草、昔俺の母親も同じことをやっていた。あれは、眉毛がないのを隠しているんだな。高校生になるとそういうことがわかってくる。
「お邪魔します」
「ただいまー、おやつある?」
 俺が頭を下げると同時に、安野が母親に聞く。「んー冷蔵庫にシュークリームあったかも。買ったの昨日だけど」彼女は返事しながらまた、パソコンに視線を戻す。安野に「洗面所こっちなんだよね」と促され、三階に上がる。
 泡で出てくるタイプのハンドソープに、洗い立てと思われるハンドタオル。歯ブラシが四本、綺麗に並んでいる。
「ママ、アレ以降神経質っつーか、手洗わないとうるさいんだよね」
 都会の高校生は母親のことをママと呼ぶらしい。
「お母さん、美人やね」
「そう?普通っしょ」
 洗面所の向かいが安野の自室らしい。ベッドがあって、学習机があって、壁には元素周期表が貼ってある。小さな頃からごく普通に、この部屋で育った人の部屋だ。
「おやつとってくるから待ってて」
「うん」
シングルベッドはたぶん安野が今朝起きたときの状態で、少し乱れている。天井まで届きそうな本棚には、参考書や学習系の漫画が詰まっている。カーテンの柄は、土星とロケットだ。
少年漫画の単行本が、綺麗に数字の順に並んでいる。かつて俺の部屋にもこうこうのがあったな、と考えていると、階段を上る足音がして、扉の向こうから「あけてー」と間抜けな声がした。
「チーズケーキだった」
 トレイには二人分のケーキと麦茶の入ったグラスが乗っている。安野は「シュークリームが良かった」とぼやきながらテーブルにトレイを置いた。
「これ、俺の分なん?もらっていいやつ?」
「多分妹のだけど、塾だから大丈夫。お腹空いてるし食べよ」
「ええんかな」
「じゃあ俺の分早坂にあげるわ。俺は妹の分を食う」
 安野は、俺が本棚の上のトロフィを見ているのに気づいて「ああいうの、捨てどきわかんないよね」と照れ臭そうに言った。
「捨てる前提なんや」
「そりゃー、永遠においといてもな。埃まみれだし、触りたくなくてあの状態だもん」
「なんのトロフィ?」
「空手。小三のとき。とっくに辞めたけど」
 高学年になると塾に通うため、習い事に見切りをつける子供が多かった気がする。俺も、一年生から習っていたピアノを四年生になって辞めた。どうせプロになれるわけじゃないし、可処分時間には限りがある。
「空手部だっけ?」
「いや、バドミントン。でも超下手だよ。球技ダメっぽいわ。二年のときやめちゃった」
「どうせ夏で引退なのに?」
「勉強もあるし、漫才やりたいから」
 安野が大真面目に言うので思わず笑ってしまった。
「笑うなよぉ、一年の時からずっと相方探してんのに」
「いやだってさ、一年の時組んでた男と俺では正反対やろ」
「あっさり振られちゃったからなー」
 たった4分の持ち時間でも、全てのセリフを丸暗記して喋るのはそれだけでかなりの重労働だ。そもそも体幹が弱ければ、4分真っすぐ立っているだけでも難しい。おまけに、一人が丸暗記に成功していたとして、もう片方が忘れればそれでおしまい。すごく仲が良かったり、慣れていたり、練習に練習を重ねていればアドリブでリカバリーすることもできるだろうけれど。
「前さ、どんなネタやってたっけ。おもんなすぎて忘れたわ」
「えー、ショートコント・コンビニみたいな」
「どうやったらそんなベタでガチおもんないネタやる羽目になんねん」
 漫才もバラエティも、結局は人同士の会話だ。人間関係が完成していないと、面白いネタをやったところで面白くならない。
 教室の真ん中でいつも、会話の中心になっている安野の姿を思い出す。安野にはそれができるだろう。賢いし、器用だし。
 でも、俺は?
「まあ、やってみなわからんよな」
「そゆこと」
「いきなりさ、俺ら素人が考えたネタで笑ってください、なんか無理あるやん」
「そう?」
「まずはプロの漫才をコピーしてみるのはどうかな、って思ってんけど」
 安野なら俺の提案に拒絶反応を示すだろうと思っていたけれど、「ふん。聞こう」と傾聴の姿勢を見せた。チーズケーキのフィルムについた部分をフォークの側面でこそげ落とそうとしている。小さい頃、俺がやったら怒られたやつだ。
「テンポとか、漫才ってこんなもん、ってのを体で掴むためにまずコピーっていうか。バンドやってみんなバンドスコア買ったり、まずコピーやん。一部の天才はオリジナルから始めるかもしれんけど、まずコピーから始めた方が無難やろ。俺やっていきなりネタなんか作れんし」
「地道なんだね、漫才って」
 そこまで言って、俺もフィルムに残ったチーズケーキをフォークでつつこうとした瞬間、二人のスマホが同時に鳴った。
「緊急速報だ」
 安野がフォークを置き、スマホをタップする。
「神奈川で例のウィルスの感染者確認、だって」
 俺もフォークを置いて、画面を開く。神奈川県の海沿いにある繁華街の飲食店で、突如狂暴化して人を襲った人が一人、被害者二人。瞬時に店舗のシャッターを閉めて民間人を避難させたため、それ以上の被害なし。従業員が二人襲われ、現時点では生死不明。
「これさー、最近よくあるけど、どういうこと?感染者が関西からウィルスもってきた的なこと?」
「そうなんかな」
「でも、あのウィルスは封じ込めに成功してるって」
「目に見えへんもん。抜け穴なんていくらでもあるんやろ」
 話題がすっかり漫才から、ウィルスの話になってしまった。
「なあ、早坂はいつまで関西にいたの?」
「中学卒業まで」
「じゃあアレあってからこっち受験して、移住してきたみたいな感じ?」
 アレ、というのは例の大阪でのパンデミックのことだ。大体これで伝わる。
「移住てか、俺両親死んだから、叔父に引き取られた」
 隠していたわけでもないけれど、多分学校では誰にも言っていない。それに、アレで家族を亡くした人間は俺以外にもたくさんいるし。そう思っていたけれど、割合で言えば、やっぱりこっちに来たら、両親が健在な家庭が多いんだろう。
「そうなんだ、知らなかった」
「言ってないしな」
 聞かれたくないわけではないが、説明する気もない。俺にはもう両親はいない、それだけだ。安野はあからさまに気まずそうだし、俺は人と喋る機会が少ないから、そういう空気の打破の仕方を知らない。
ニュースサイトを開く。先ほど襲われた従業員二名の死亡が、容赦なく告げられる。
「安野のお母さんは、なんの仕事してるん?」
「んー、よく知らないんだよね。なんかよく電話してる」
 よく考えたら、俺も自分の母親が何の仕事をしていたのか、知らない。弁当に入っていた冷凍のから揚げが美味しかったこと、料理嫌い、と言いながらウインナーをタコ型に切ってくれたこと。覚えているのは、そんなことばかりだ。
「なんか、今更だけど、意外だよな。早坂が舞台に立って人前で喋ってるの、想像できないもん」
「いやほんま今更やねんけど、誘ったんは自分やん」
「その二人称が自分なの、いいよな~」
「ほんま好きやな。引き受けたからにはやるよ。別に初めてちゃうし」
「えっ!?」
 といっても、小学生の頃地元の祭りで、ちびっこ漫才みたいなものをやったことがあるだけだ。あの時は2分程度のネタだったけれど、丸暗記するだけでも相当苦労した。そのときの相方は近所に住んでいた幼馴染だったけれど、中学校は別々になってしまった。
家の位置的に、アレで亡くなった可能性もある。いろんな情報を置いてきてしまったから、わからない。同じ市内に住んでいた、父方の祖父母も亡くなった。
「まじかー、俺が初めてかと思ったのに」
「いや、やったことなくて漫才語ってたら、キモいやろ」
「どんなネタやったの?」
「カマキリの卵持って帰ってきてクッキーの缶の中に保存しといたら大惨事になった話」
「普通のクソガキの失敗談じゃん」
「そういう普通の失敗談を溜めておいて、必要な時に取り出すのがお笑いや」
「へえ、いいこと言う」
 そうこうしているうちに、チーズケーキがなくなった。安野の好きなお笑い芸人を聞き出して、どういう方向でやっていきたいのかを探る。意外と硬派というか堅実というか、オーソドックスな漫才が好きなようだ。奇怪な漫才は再現性が低いし、ボケが天才じゃないとできない。
結局、勉強してない。だらだらおやつを食べただけだ。

 家に帰ると、安野からメッセージがきていた。
〈またいつでもきて〉
〈勉強教えるし〉
 友達が多い人間って、マメなんだよな、と思う。挨拶をしたり、会釈をしたり。相手に威圧感を与えないように微笑んだり。きめ細かに気を配ることで、信頼を得ているのだろう。
 ベッドに寝転がり、検索窓に入力する。
『漫才 作り方』
 思った以上にたくさんの結果がでてきた。聞いたこともないような、芸人なのか、ネットで曖昧な情報を売って小銭を稼いでいる素人なのかわからないけれど、「基本的な漫才のつくり方」「最短で漫才を作る方法」みたいな、ハウツーが書かれたページが雨後の筍のようにでてきた。
『漫才 作り方 簡単』
『漫才 作り方 初心者』
 漫才を作りたがっている人間がそんなにたくさん存在するのか?いや、こういうのは、需要関係なしに供給が生まれているだけの世界なのかもしれない。とにかく、ネットで拾える情報は多すぎるし、薄い。
 やると決めたからには、やってみた方が早いな。
 学校と家の往復、そして勉強、家事。それ以外の要素が俺の生活に入ってきたのは、なんだかすごく、久しぶりな気がする。