俺の三番目の人生

 三年前のパンデミックの発生地は、大阪の南部にあった、とある製薬会社の研究施設である、と言われている。
 言われているというのは、研究に携わっていた関係者がその際にほとんど死亡してしまい、詳細が不明のままだからだ。施設は荒れに荒れていまだに立ち入り禁止区域らしいし、その周辺地域からは人がいなくなって、廃墟と化した。
 極秘に開発されていたウィルスが突然変異して、研究者が感染したのがはじまりだとか。海外から密かに持ち込まれたウィルスがばらまかれたのだとか、どこぞの宗教団体によるテロだとか、噂と憶測が飛び交っている。
 確実なのは、そのウィルスに感染すれば、ほぼ死ぬということだ。
 髪が抜け落ち、皮膚はただれ落ち、内臓が壊死する。
 そして、脳を破壊する。一時的に攻撃的になり、近くにいる人間を襲う。それから、噛みついて感染させると、死ぬ。
 脳のストッパーが外れた人間の攻撃力は凄まじい。噛みつけば感染するが、発症する前に殺される場合もあるし、失血死する場合もある。どちらにせよ発症すれば即日、運が良くてもだいたい、数日以内に死に至る。
 ごく稀に軽症で済む人や、人を攻撃しないタイプの感染者もいるらしい。だとしても、自我や判断能力は残っていないという。運よく生きている人々は現在、専用の医療施設に隔離されている。当然、それまでと同じ日常生活が送れるわけではないらしいけれど。
 感染力そのものは弱めで、感染者を閉じ込めてしまえば、理屈の上では感染が広がることはない。
 隔離された人がどのような扱いを受けているのか、俺には想像でない。果たしてそれは人間なのだろうか。人権は保障されているのだろうか。それ以上を考えようとすると、脳のどこかがブレーキをかけてくる。今はそんなことを考えず、受験のことだけ考えるべきだ、と。
 ワクチンの開発に向けての研究は、日々行われているという。治療方法は今のところ、ない。

「コンビって、何。デスゲームでもやるん」
「違うよー、漫才!相方募集中なんだよ」
「なんで俺なんだよ」
「んー、メガネが漫才師っぽいから?」
「眼鏡かけてない漫才師の方が多いやろ。俺ら、受験生やし。何ゆうてんねん」
「うわー!いいなー関西弁!俺、関西弁で漫才するのが夢なんだよ」
「いや俺はともかく、お前は無理やん」
「だからー、お前だけでもってこと!」
「ちょっと待って、今既に半分やる前提になってへんかった?」
「わぁーそのツッコミの素早さ、やっぱいいよなぁ」
「自習室行くわ。アホに付き合ってる時間ないねん」
 駐輪場に向かって歩く。後ろから、安野もトコトコと付いてくる。
「ついてくんな」
「俺も駐輪場こっちだもーん。てか早坂、よく喋るね。喋ってるとこ珍しー」
「元々こんなんや。関西弁バレへんように黙ってるだけや」
 こっちに来たら、関西弁は封印したほうがいい。俺にそう言ったのは叔父だった。詳しく説明してくれたわけではないけれど、理由は察するに余りある。
 そもそも関西弁は、関東圏の人間にとってはキツく聞こえるらしい。パンデミック以降、関西弁=ウィルス保持者、とでも言いたげな空気が世間に蔓延している。なんとなく覚悟はしていたけれど、実際関東に引っ越してくると、改めてそれを肌で感じている。テレビからはお笑い番組がめっきり減ったし、漫才の大会も見なくなった。M-1は、三年前から休止になっている。
「いいじゃん関西弁、かっこいいじゃん」
 それはお前が、当事者じゃないからそう思うだけだ。
「俺さー、一年の学祭で漫才やったんだよね、知ってる?」
「知らん」
「それがさー、そこそこウケてさ」
「どこがやねん。バリバリの身内笑いやったやんけ」
「やっぱ見てたんじゃん!」
 そりゃあ、それなりに見た目が良くて、人気のあるクラスメイトが友達同士舞台に立って漫才をしたら、女子はキャーキャー言うし、男子は笑うに決まってる。そういうのはお笑いとは言わない。子供の発表会だ。
「あんとき組んでた相手とやったらいいやん」
「それがさー、一回やって飽きたんだって」
「二年の学祭んときはやってへんかったやん」
「お、よく見てるー。俺生徒会入ってて忙しかったし、相方も見つかんなくて」
「ほら、結局その程度の情熱やねんて」
 喋りながら歩いているうちに自転車を見つけた。
「なんで隣やねん」
「うーん、運命?あ、自習室やめてあっちのマックで勉強しない?俺お腹空いてるし」
「お前の空腹興味ないわ」
 そう言ってから自分も、腹が減っていることに気付いた。言われなければ気付かなかったのに。男子高校生を二年もやっていると、こうなると勉強どころではないことくらいわかる。
「奢りやったら行く」
 そう告げると、安野はよっしゃ!ちょっと待って、クーポン探すから、とポケットからスマホを取り出して弄りだした。その隙に自転車の鍵を外し、押しながら外に出る。
「待ってよ~」
「誘っといて待たすやつがいるか」
 駅の西口側には、あまり来ない。この地域は、線路と駅を挟んだ西と東で少々雰囲気が違う。西側はなんというか、活気がある。ファミリー層が多い。小さめの一軒家や、低層マンションが立ち並んでいる。商店街もあるし、品ぞろえは悪いけれど本屋もある。ちょっとした買い物はここで完結する。
 ここにカラオケがあったことは今知った。俺は行ったことがないけれど、安野みたいな人間がよく来るのだろう。漫才の練習は意外とうるさいから、こういうところでやれば迷惑にならない。
 マックの前には駐輪場というより、タイルの上にぎゅうぎゅうに自転車が並べられたスペースがある。ほどよい隙間を見つけて停める安野を尻目に、一番遠くの端まで自転車を押して歩く。
 店内に入ると、安野は入り口付近でスマホを弄りながら待っていた。クーポンアプリを開いて「こっから選んでくれ」と言われたので、えびフィレオを選ぶ。「えび派?」と聞かれたので「肉嫌い」と答える。安野は『肉が嫌いな男子高校生がいるなんて信じられない』という顔で「ナゲットもいっちゃお」と言いながら、レジに向かった。
 地下への階段を下りる。都会のマックは階段が急だ。グルグルしている。マクド、と言わないように日ごろから心の中で練習している。ミスドがミスドなんだから、マクドはマクドでいいだろう。朝マックは、朝マックでいい。
 腹が減っているとどうでもいいことに苛立ちを覚える。見渡すと、一番奥の若干死角になった四人掛けの席が空いていた。奥のソファ席に座り、隣にリュックを下ろす。受験生のカバンはでかくて重い。
 読書をしている中年男性がちらほらと、勉強している成人男性。喋っている女子高生が数人。それ以外は、比較的すいている。
「二階席かと思ったのに」
 安野がトレイを両手に持って階段を降りて来た。コーラを取って一口飲んでから、喉が渇いていたことを思い出す。
「早坂は、部活は?」
 周りに人がいる場所では、極力関西弁を押さえることにしている。イントネーションを完璧に矯正するのはほぼ不可能なので、必然的にほとんど喋らない、というだけである。今日は不本意ながら、例外だ。
「見たらわかるやろ。帰宅部」
「うん、じゃあちょうどいいな」
「受験生なんだわ」
 えびフィレオを齧りながら、英単語帳を取り出し、机の上に音を立てて置く。
「受験生だけど、高三じゃん。高三と言ったら青春じゃん。最後の学祭、出たいじゃん」
「俺は別に。大学生になればいくらでも青春できるやろ」
「それはそうだけどさ、今が一番若いじゃん?そんで、俺と早坂は合うじゃん?」
「どのへんが?」
「いやだって、めちゃくちゃ喋りやすいもん」
「それは俺が喋らせ上手なだけや」
「ひえー、かっこいい。ってことはやっぱ、相性がいい、もしくは漫才に向いてるってことだろ?お試しでいいから、俺と組んでくれよ」
 一回きりの学祭に対して、お試しもなにもない。でも、安野が冗談を言っていないことは伝わった。この男、ノリは軽いけれど、言ってる内容は大まじめだ。
「安野は頭いいから、いいやろけどさ」
 俺の成績は、甘めに判定しても中の中だ。そして、可能な限り金をかけすに大学に行きたいとも思っている。駅の西側と東側では家賃も住民の層も全然違うということを、安野は知っているのだろうか。

 二年半前、母親の弟にあたる叔父に引き取られる形で、関東に来た。叔父は三十を過ぎて独身だったが、今のところすぐに結婚する予定はないという。とりあえず未成年のうちだけでも、と一緒に住んでくれることになった。
それまで彼が住んでいた1kの単身者用マンションでは狭かった。叔父は、俺から家賃を取る気はない、と家賃がすこし下がるこの地域に引っ越してくれた。駅から徒歩15分、少々アクセスは不便だけれど、2ⅮKのマンション。一部屋与えられている時点で充分である。
 深夜まで勉強して迷惑をかけるわけにもいかないので、部活をせずにまっすぐ帰り、夕方を勉強の時間に充てる。叔父が早めに帰ってきたら一緒に夕食を取り、遅くなる日は一人で早々に済ませ、なるべく叔父の睡眠リズムに合わせて寝る。
 子供は気を遣わなくていいよ、と言われている。でも、そもそも大して面識がなかった人間に、気を遣わずにいられる方法が俺にはわからない。今の自分が、子供としてふるまっていいのかどうかすら、やっぱりわからない。

「じゃあさ、代わりに俺が勉強教えるよ」
「はぁ?」
「教えたら俺の理解も深まるし、俺が先に受験終わったらじっくり教えられるし。悪く無いだろ」
 この男は、腹が立つことに、成績まで俺より上だ。
「それは……安野が嫌じゃないなら、助かるけど」
 いつのまにか、俺がお願いする側になっている。本音を言うと、勉強でわからないところを聞く相手がいなくて、心細いとずっと思っていた。
「決まりだな」
「しゃーないな」
「よろしくな、コンビ名考えよ」
「で、自分、ネタは書けるん」
「おっ、その相手を自分って呼ぶ感じ、大阪っぽい!」
「で、どうなん」
「そこは早坂先生にお任せします」
 国語の成績だけ見ても、安野の方がずっと上だ。国語ができるからおもしろいネタが書けるという訳ではないけれど。言葉を扱えない人間に漫才はできない。しかし、それが面白いかどうか、センスがあるかどうかとなると、それもまた別の問題だ。
「漫才やりたいんやったら、ネタ書いたことくらいあるやろ」
「ないんだな、これが」
「自慢げに言うな」
「早坂は、ないの?ネタつくったこと」
「あるわけないやろ」
「なんで?!大阪人なのに?」
「大阪人がみんな漫才作って生きてるわけちゃう、偏見にもほどがある、」
 空席だった隣のテーブルに、他の客がきたので声を潜める。
「早坂って、すげー喋るのね。教室だとなんで全然喋んないの」
「……わかるやろ」
 関東の人間にとって関西弁はキツく聞こえる上に、そもそも俺は穏やかな性格ではない。気を付けないと早口になるし、ツッコミという名の貶しになるし、普通にしゃべっているだけなのに、イライラしているように聞こえることもある。大阪の人間はせっかちなのだ。歩くのだって早い。
「漫才は、関西弁でやるよね?」
 安野が不安そうに言う。それはそうだろう。彼はあくまでも、俺が関西弁だから声をかけている。ここがNOだったらご破算である。俺の代わりを探すか、俺がYESと言うまで梃子でも動かないか、の二択しかない。
 現実問題、テンポよく喋ろうと思えば関西弁になるに決まっている。自然なイントネーションは一朝一夕では習得できない。喋っている人間からしたら自然に寄せているつもりでも、ネイティブにとっては多少不自然さが残るのがイントネーションというものだ。不自然なイントネーションを生かしたネタをするならまだしも、無意味なひっかかりはそのまま、短時間の芸術である漫才のノイズになる。
「やるんやったら関西弁でやるしかないやろ。でも、嫌がられんかな」
「嫌がる?」
「関西から来た人間がいる、ってことが」
 安野は少し考えて、言葉を選んでいた。
「俺は気にしないけど、気にする人はいるだろうね」
 彼は素直で正直者だ。それが彼の美徳であり、彼が人気者である所以だ。
「面白い漫才やればいけるっしょ!」
 ただし、楽観的である。
 そもそも、引き受けた時点で正直なところ、俺はやりたがっている。嫌だったらもっと早い段階で拒絶している。
 いや、拒絶できたかというと、それも怪しい。俺は押しの強い人間への対処に慣れていない。そして残念ながら、人間関係に悩んだところで、相談する相手がいない。叔父にそんな相談はしたことがないし、叔父も、学校でいじめられてないか、なんて質問はしてこない。叔父とは、そういう距離を保っている。
「本当に本当に本当に嫌なら、無理強いはしないよ」
「……ちょっと考えさせて」
「考える時間を与えたくなかったけど、まあいいや。連絡先交換しよ」
「自分、誰に対してもそんな感じなん」
「その自分ってやつ、いいよなぁ」
 これが人たらしってやつか、と思った。

「ただいま」
 家に誰もいないときでも、防犯のためにただいまといってきますは言った方がいい。そう教えてくれたのは叔父だった。
口に出してしまうと、返事が返ってくるのではないか、と期待してしまう自分がいる。今は、家に対する挨拶のようなものだと捉えているけれど。
 二人で使うには少しだけ小さいサイズのダイニングテーブルは、実際のところ、二人で使ったことがほとんどない。叔父は長らく叔父のペースで生活してきたし、俺も小さな子供ではない。叔父が帰る時間も俺が帰る時間も、毎日固定ではない。あまりに遅くなる日は一応連絡がある。帰宅が早い日は、食事を用意してくれていることもある。その際、片付けるのは俺の役目だ。皿洗いも慣れたものだ。
 洗濯機は自動で洗ってくれるけれど、自動で畳まれているわけではない。乾燥機は放置すればしわしわになる。掃除機はフィルターを掃除しなくてはならない。ロボット掃除機は、そもそも片付いた部屋にしか使えないので、却下。エアコンの掃除をしようとして、フィルターの埃を吸い込んで気管が炎症を起こし、熱が出たこともある。トイレは掃除しないとすぐに汚れる。ゴミの収集は待ってくれない。
 ここで暮らし始めて、自分が今までいかに暮らすということに無頓着だったのかを思い知った。とはいえ、家賃も光熱費も叔父が管理してくれている身分だから、本当の意味で理解しているわけではないけれど。
 叔父は今日も遅いらしい。さっきえびフィレオ食べたから、袋ラーメンにしよう。小鍋にお湯を沸かし、乾麺を茹で始めてから冷蔵庫を漁ると、ビニール袋に入ったカット野菜があった。卵も一緒に放り込む。野菜とたんぱく質を摂取しておけば、とりあえずは大丈夫。
 男子高校生と暮らすって、食費やばいのでは?
 叔父には彼女とか、結婚を考えてる相手とか、いるのかな。
 安野はそういうことを考えずに暮らせるから、漫才がどうのこうの言える。俺とは違う。率直に言って、羨ましい。
ずっと羨ましかった。教室の真ん中で友達と喋り、屈託なく笑い、それでいて、俺よりずっと成績がいい、安野みたいな人間が。
一年生の一年間は話したこともないのに、自分にとって有益と判断したら躊躇なく話しかけることができる、その軽薄な積極性が。
 アレが起きるまで、俺は自分のことをごく普通の人間だと思っていた。失った今ならわかる。当たり前に家族と暮らし、当たり前に学校に通う。それがどれだけ恵まれた生活だったのか。