俺の三番目の人生

 並みの神経の持ち主なら不登校になってもおかしくない状況だと思うけれど、俺は神経が図太いので、何食わぬ顔で翌日も登校した。
 できれば今までのように、朝7時半を狙って電車に乗りたかった。しかし右腕はまだ痛く、左脚はまだ引きずっている状況で、準備に時間がかかる。家事ができなくて、叔父にも負担をかけている。駅まで歩くだけでもかなり時間を取られる。バスに乗ってもいいけれど、本数が少ない。バス代は国に請求できないものか。
 電車に並んで杖をついていると、目を背けられる。それはそうだ。座るためにみんなラッシュを避けたり、わざわざ大金を払って始発駅に住んだりしている。この時間は鈍行でも満席だ。譲ってほしくて杖をついているわけではない。俺はわざわざ優先席から離れた場所、車両の中央の方に立ち、片手で杖、もう片手で吊革を持つ。
 両手がふさがっているから、単語帳一つ取り出せない。勉強の解説動画の音声でも聞ければいいけれど、俺はあの日以来、ヘッドホンの類がつけられない。
 結局みんながそれなりに登校してきて、教室がざわついているところに入ることになる。
 髪が伸ばしっぱなしで、目にかかる。本当に邪魔だ。手がふさがっていると、払いのけるのも一苦労だと言うのに。
 安野はどの時間帯の電車に乗っているのだろう。二年生までの間、電車で乗り合わせたことなんてない。俺が下ばかり向いているから、気付かなかっただけかもしれないけれど。
 とにかく今日も、安野は先に教室にいて、誰かと喋っていた。横を通り過ぎて、自分の席に着く。
「早坂くん、」
 警戒しながら顔を上げると、話しかけてきたのは、木原だった。睨んだみたいになってしまった。
 木原の背中越しに、安野とその愉快な仲間たちがこちらを見ている。ついでに、その他大勢のクラスメイトの視線も感じる。
 心の中で舌打ちをした。
「あの時は、助けてくれて、ありがとう、怪我、大丈夫だった?私のせいで」
・友達を助けただけや
・クラスメイトやねんから当たり前やろ
・ごめん、誰?
・なんで大丈夫やと思ったん?
・別にお前のためちゃうしな
・せやな、お前のせいで受験生やのに大怪我して散々やったわ。普通初日に真っ先に謝りに来るのが筋ちゃう?
 どれを言うか迷ったが、結局口から出たのは
「べつに」
 だった。木原はまだ何か言いたそうにしていたけれど、俺が卓上に視線を戻して参考書を広げたのを見届けると、安野の方に戻っていった。

 放課後、安野がナチュラルに俺のリュックを担いで「帰るぞ」と言うので、大人しくついて行くことにした。「塾は?」と聞いたら、「夜からだから、時間ある」らしい。
 不思議なもので、俺一人でのろのろと杖をついていても誰も席を譲ってくれないが、安野が「段差大丈夫?」「隙間気を付けて」「ほら、あそこ座らせてもらおう」などと言いながら先導すると、自然と席をあけて待っていてくれる人たちがいる。安野からは人望がにじみ出ているのだと思っていたけれど、もしかして、こうやって声に出すという作業でアピールすることが、社会でスムーズに泳ぐためのチップになるのかもしれない。
 俺はここ三年ほど、そのチップを払っていない。
「お前さ、あれは感じ悪いよ」
 ホームのエレベーターのボタンを押しながら、安野が言った。木原のことだろう。
「そう?ちゃんと返事したやん」
「木原、早坂くん怒ってるのかなって落ち込んでたよ」
「知らんよ。友達ちゃうもん。落ち込むのは本人の問題やろ。知らんやつの謝ってスッキリしたいみたいな気持ちに、俺が付き合ってやる義理はない。謝りたかったんやったら来るのが遅いしな」
「やっぱ怒ってんの?」
「怒ってない。お互い被害者や、どうでもいい」
 右腕の噛み傷も、左脚の裂傷も、痕が残りそうだった。なにより、顔だ。髪の一部を剃られたのは誤魔化しようもないし、隠していた額の痣も丸見えだ。頬のガーゼはとれたけれど、一目でわかるくらいのひっかき傷がある。
 のど飴をくれた、水色の爪先。たぶんこれも痕が残るだろう。視力に影響しなかっただけでも運がよかったと思わなくてはならない。
 かさぶたになっているから、ひっかきそうになる。治りかけの傷は痒い。手の甲でこすっていると、安野が「今は、傷跡を消すいいクリームがあるらしいよ」と遠慮がちに言った。

 九月の下旬になると、少しずつ人が戻ってきた。学校祭の準備に時間を取られなくなって喜んでいる生徒もいるだろうし、もう学校を見限って、塾で完結させている生徒もいるだろう。申請すれば、登校が免除される特別措置もあるらしい。
 俺は何となく、休んだら負けだと思った。担任も学年主任も、明らかに俺を腫物扱いしている。あいつらと面談するくらいなら登校した方がましだ。体育教師は、休んでていいよ、と言ったきり何も言わなかった。体育が好きで体育教師になるような人間は、体育に参加できない人間に興味がない。教室でレポートを書くように言われたので、その時間を自習に宛てた。
 安野の進学事情がどうなったのか、よく知らない。内申点というものがどう作用するのか俺はさっぱり知らないし、内申点が何なのかも知らないし、デリケートな話なので聞きづらい。ただ、彼が頻繁に教師に相談に行っていることは知っている。俺は授業が終わると真っ先に帰るので、一緒に帰る機会は少なくなった。漫才をやってる時間なんて、最初からなかったのだ。

 十月になると、杖なしでも歩けるようになった。裂傷の方はまだ痒い。右腕の包帯も、貼るタイプのガーゼになった。こちらの方は傷が深く、もう少しかかりそうだ。
 歯型の傷が残るのって、嫌だな。
 毎日ガーゼを取り替えるたび、嫌でも目に入る。傷を治す費用は国から出るが、傷跡を消す費用が出ないのは不公平ではないか?受けた傷が完全に戻ることはない。一度溶けて固まったアイスが不味いみたいに。
 顔の傷は痒いけれど、こちらは鏡を見なければ俺の視界には入らないので、そこまで気にならなかった。俺の顔を見る人は気になるだろうけれど。
 今日病院に呼ばれたのは、診察の他に、以前言われた『研究機関』からのお願いを聞くためだった。精密な血液検査と遺伝子検査の結果、どうやら俺の体にはこのウィルスに対する抗体があるらしい。
「つまり早坂の血からワクチンが作れるってこと?」
「なんでそうなんねん」
「いやだって、平たく言うとそうだろ」
「そうなの?」
 久々に一緒に帰ろう、ラーメン食べよう、と言われたので、今日は病院の日、と断ったところ、安野がついてきたのだった。大きい病院は、病院の中にカフェがあってなんかいい。高校生が勉強する場所としてはふさわしくないけれど、診察の間安野は片隅で小さくなって、ドーナツを食べていたらしい。
「ラーメン食べに行くんやろ」
「忘れてた。でもまだ食べられる」
 研究機関とやらは、ここから電車とシャトルバスを乗り継いで二時間ほどのところにある。協力してほしい、と言われてもとても通える場所じゃない。交通費は支給します、と言われても、それは大前提だ。
 俺はチャーハンセット、安野は珍しくラーメン単品。夕食には早い時間だったからか、テーブル席に通されたので向かい合わせに座る。こういうときにさっと水を入れてくれるのが、安野の好ましいところだ。
「どうなん、進学。やっぱ引っ越すん」
 眼鏡を失ってよかったことがある。ラーメンを食べる際に曇らない。
安野は浮かない顔でお冷を啜っている。
「狙ってたとこの指定校、枠自体なくなった」
「それは……」
 さすがの俺も、うまい返しが見つからなかった。品行方正に生きてきた安野が馬鹿みたいじゃないか、と思ったけれど、水のおかわりを入れてくれる姿を見て、そういうことじゃないよな、と思い直す。
「枠なくなるとかあるんや」
「普通さ、一年くらいは待ってくれるくない?」
 事件のあった学校、という認識になってしまったのだろう。俺は事件のあった地域の出身、というだけで嫌な顔をされてきたから、今更なんとも思わない。でも、自分が「そちら側」になると思っていない人間からしたら、ショックだと思う。
 誰が悪いとか、犯人がどう、とかいう話ではないのだ。世界はもうこんなふうになっていて、どこかで共存の道を探すか、徹底して割り切って隔離して切り捨てていくのか。決断しなければならない。決断した側が、一瞬で切り捨てられる側に回ることだってある。
「他にも候補はあるから、今相談してるとこ。今から一般受験でも俺はいけるけど」
「安野の成績なら、普通に受験した方がいいとこ入れるやろ」
「なんかそんな感じはするけど、せっかくよき生徒を演じてきて、二年までは部活もやってたのに、みたいな」
「よき生徒を演じてなくても、安野はよき人間や」
「どういうこと?」
「なんでわからへんねん」
 安野が俺の顔の傷を指して「それ痛い?」と聞いた。
「痛くはないよ。もう治ってる」
「痕残るのかな」
「残ったら残ったや。かっこいいやろ」
「まあ、漫才師になるなら顔に傷くらいあった方がいいな」
 安野が大真面目に言うので、むせそうになった。
「まだゆうてたん?」
「長期目標だから。学祭に出れなくても、東京の大学に行けなくても、完全に諦める理由にはならない」
「え、ごめん。その計画って俺も入ってる?」
「当たり前だろ、人の話聞いてた?」
 ところでそのチャーハンちょっとくれよ、と安野が言うので仕方なくわけてやった。れ俺が病院にいる間、ドーナツを食べていたはずだが。
「てか、早坂の協力でワクチンができたらさぁ、M-1も復活するんじゃない?んで、俺が東京住んでても親安心なんじゃない?」
「一朝一夕でワクチンができるか」
「可能性の問題だし。なんか協力費みたいなのももらえるんじゃない?」
 図星だった。交通費に加えて、研究協力費とかいうやつが出る。これから進学にどれくらい金がかかるかわからないので、正直かなり助かる。遺伝子に感謝している。
「たぶん、学生の間一人暮らしできるくらいは」
「え、超いいじゃん」
「俺、血抜かれるの苦手やねん」
 そう言うと安野は「それは、仕方ないな」と上げたテンションを元に戻した。「採血は嫌だよな」そんなに落ち込まなくても。
「いや、やるよ。安野はその方向で親説得してみたら?抗体がある人間が見つかって、ワクチンが開発されそうらしい、みたいな」
「え、やるの?」
「俺らが笑って生きていくためやったら、できることはやってみてもいいかなって」
 安野は「超いいこと言うじゃん」と言いながらチャーハンを口に運んでいる。
「その剃っちゃった髪に合わせてさぁ、髪も切ったらいいんじゃない」
「そうしよっかな。変やし」
「コンビ名考えよ」
「それ、俺のチャーハンなんやけど」
「じゃあ『俺のチャーハン』でよくない?」
「絶対嫌。ネタは俺が考えてるんやから、コンビ名くらいなんか考えてきて。あんまかっこつけてないやつで、チャーハン関係ないやつにして」
「お前、このまま俺のセンスに任せる気か?」
「俺、ノリで生きてるから」
 安野が「はやさか、あんの、はやさか、あんの」とぶつぶつ言うので、「ラーメン伸びるで」と忠告してあげた。人と食べると美味しい、と改めて思った。