熱が下がって、食事がとれるようになれば早々に退院できるはずだった。
二日連続、悲鳴を上げながら起きて、お粥と味噌汁しか入っていない胃の内容物を吐いた。夜中なのに看護師さんが飛んできて、申し訳なく思う。怪我の腫れはだいぶひいてきたのに、微熱が続く。ついに、心療内科を紹介された。総合病院のいいところだ。
休んで目立つか、松葉杖で行って目立つのか。
少しだけ悩んだけれど、前者を選んだ。どうせ、休み明け学校に来ない生徒もたくさんいるだろうと思ったから。何事もなかったかのように授業を再開している方が怖い。
結局一週間ほど入院した後、二週間はそのまま夏期講習にも行けず、家で過ごした。叔父には、ゼリー飲料を箱で買って来てもらった。夏期講習の返金については、交渉してくれている最中らしい。
ずっと家にいてエアコン代が申し訳ないな、と思ったから、勉強していた。大して出歩くこともできなかったし。結局、九月に入っても一週間くらい休むことになった。
気分転換にアイスでも買おうと思って、外に出たことがある。ギプスが蒸れて大変だったし、とても時間がかかった。結果、家に着く前にカップのアイスは溶けてしまった。
家に帰って、ほぼ液体になったパピコを一本流し込み、もう一本は溶けたカップアイスと共に冷凍庫に入れておいた。一度溶けてしまったアイスは、固めたところで元には戻らない、ということを知った。
教室のドアを開けた瞬間、登校したことを後悔した。
この学校にきて一番視線を浴びた瞬間だったと思う。ギプスは取れて、簡易的な杖を使っていた。三階にある教室まで階段で上るのだって苦労したのに、もう既に帰りたい。
安野と木原と、数人が固まって何か話していたが、俺を見ると声を潜め、音もなく解散していった。ちゃんと見えていないけれど、木原はこちらを睨んでいるように見えた。
いや、感じ悪すぎるやろ。
安野を見ると一瞬目が合ったけれど、すぐに視線を逸らされた。
所詮俺たちは、この程度の関係だったのだ。
前髪の一部を失ったので、視界は広かった。眼鏡は戻ってきていない。何かの拍子で外れて壊れたのだろう。
ここで折れるような俺ではない。大丈夫、少なくとも二年間、俺には友達がいなかった。ずっと一人で過ごしてきた。今まで大丈夫だったのだから、これから先も大丈夫。
あの日以来、やっぱり安野から連絡はなかった。こちらからも連絡しなかった。連絡できない心理的事情があるのかな、と思ったけれど、それは俺の希望的観測であり、安野はもう俺を見限ったのだろう。そう考えた方が楽だった。
あのとき、木原を助けるためにドアを開けた。正確には、木原を見捨てたら安野にどう思われるか、不安がよぎったから開けた。結局俺は、俺のために木原を助けたのだ。助けてやったのに、とは思わない。
でも、助けてって言ったのはお前だけどな。
まあ、もうどうでもいい。新学期が始まってから一週間、学校を休んでしまった。必要な単元は終わっているとはいえ、あまり休むわけにもいかない。俺は勉強しないといけないし、体力だって落ちている。
安野が休まなくて済んで、よかった。あいつは指定校推薦を狙っているから。
教師は俺が登校しているのを目視で確認したが、特に何も言ってこなかった。夏休みの間にごく一部の生徒の間で起こって、もう解決したことだ。教師には関係ない。
あの日、俺たちのクラスからは計十人が登校していたらしい。安野と木原は無傷。重傷で入院していたのが俺一人。他は皆、死んだ。
小声で噂されている内容を総合すると、そんな感じだ。どうやら、俺は松田と加瀬を含むクラスメイトを三人、他所のクラスの人間を二人、殺したらしい。人の顔をちゃんと覚えていなかったから、迷うことなく殺せたのだ。
でも、加瀬のとき、俺は躊躇した。無慈悲に殺したわけじゃない。俺がそうしなかったらみんなやられていたはずだ。
俺の理屈ではそうだけれど、目の前で知人を殺された人間の言い分としては、そうはならない。その気持ちだけなら俺にもよくわかる。そう簡単には整理できない。目の前で、この手で、生まれ育った家の中で、おかえり、と言ってくれた人間を殺したことがあるから。
とにもかくにも、俺は普段から挨拶もせず、同級生とまともなコミュニケーションもとらず、みんなとは異なったイントネーションで喋るなんだか気味の悪い奴、から、有事の際にはクラスメイトをも躊躇なく殺す、血も涙もない殺人鬼、に昇格したのだ。
せめて安野くらいは、庇ってくれたってよくないか。
安野の目の前で松田を殺したとき、彼が震えながら膝を抱えていたのを覚えている。
結局彼は、優しくて育ちがいいのだ。友達を殺すくらいなら自分も一緒に死んだ方がましみたいな、ぬるい考えなのかもしれない。そういう人間がいたって、驚かない。俺だって、自分がなんでまだ生きているのか、ずっと不思議に思っているのだから。
移動するのが大変だったので、昼食のパンは自分の席で一人で食べた。今まで通り、誰も話しかけてこなかった。右腕がまだ痛くて、文字を書くので精いっぱいで、箸が持てない。パンにして正解だった。
下校時間になっても、安野から特に連絡はなかった。教室で話しかけるなと言ったのは、俺の方だけれど。
休んでしまった分の模試の問題と解答、その他提出しなければならない書類。指定校推薦を希望する生徒へのお知らせ。持って帰るものが多い。片腕で杖をついているから、リュックに全てを詰め込まないといけない。左足を庇おうとすると、右足に負担がかかる。
久々に電車に乗ったから、ひどく疲れた。とにかく体力が落ちている。気分転換に、スーパーかどこかで晩ご飯を買って帰ろうか悩む。自転車に乗れないから、駅まで徒歩で来た。駅から十五分くらい歩いて帰らなくてはならない。荷物を増やすのも億劫だけれど、この三週間、昼間はカップラーメンばかり食べていたから、ちゃんとしたものが食べたい。お金はかかるけれど、出前をとるべきか。
そんなことを考えながら改札を出て、家の方向に歩くべく、東口の看板を見上げる。
見慣れた制服が立っていた。
「一緒に食べて帰らない?ラーメンとか」
「家こっちちゃうやろ」
無視して帰ろうとしたけれど、付いてくる。
「チャリは?」
「あ、忘れた」
「あほやん」
早歩きで置いていきたいのに、杖だから速く歩けない。
「鞄持とうか?」
「いらん」
「俺チャリとってくるから、俺のかごに入れなよ」
安野はそう言って駅に戻っていったので、無視して歩みを進める。スーパーに寄る計画はなくなった。
待つのも癪だが、このまま安野がまっすぐ帰ったらと思うと、もっと腹が立つ。安野は俺の家に来たことがない。大体の場所は知ってるけど、ルートまでは知らない。
今日は、叔父は少し遅くなると言っていた。インドカレーでも買って帰ろうかな。叔父の好きなチーズナンは、冷めても温め直して食べられるのだろうか。二年以上一緒に住んでいるけれど、聞いたことがない。美味しいのかどうかも聞いたことがない。
俺、コミュニケーション能力に根本的に問題があるのでは?
今更か。昔からこうだったわけではない。この三年間が俺をすっかり卑屈に変えたのだ。
そうだっけ?
元々こういう、厄介な性格だったのではないか。元から俺に、友達なんかいなかったのではないか?どうだろう。もう思い出せない。あの日、両親を殺したあの日から、俺は自分の記憶に自信が持てない。すべて夢だったのかもしれない。俺が両親を殺したことを、誰も知らないし見てもいない。俺がそう言っているだけだ。間違っているのは俺の記憶の方なのかもしれない。あの時点で両親はとっくに死んでいて、俺が俺の記憶だと思っているものは実は、あのウィルスが見させている悪い夢で、
気分が悪くなってきたので、目の前にあったバス停のベンチに腰掛けた。ちょうど駅から、バス停ひとつぶんくらいは歩いたらしい。
九月の夕方はまだ明るい。鞄が重い。バス停には誰もいないけれど、ここに座っていたらバス待ち客だと思われる。早く立たないといけない。
「あれぇ、早坂、バスで帰る感じ?」
間の抜けた声だ。やっぱりお前にツッコミは無理だ。お前にはボケの方が向いている。
「休憩してるだけや」
「足痛いの?」
「そんなに。どっちかというと、支えてる右足の方が痛い」
「重いっしょ、プリント溜まってたもんな。持つよ」
安野はベンチに置いてあったリュックを取り、自分の自転車の籠に乗せた。
「チャリ乗れんから、駐輪場代損やわ」
「うん」
「学校やって休んだら定期代もったいないし」
「うん」
「お前、ツッコミやりたいんやったらもうちょっと気の利いたこと言わなあかんで」
「え、今のボケだったの?」
「ボケじゃなくても、拾ってボケにするのがツッコミの仕事や」
「やっぱ交代するしかないな」
「ほんまやわ」
やっぱり、安野と喋っていると楽しい。漫才にならなくてもいいから、こうやって喋っていたい。
「にしても腹減った」
「こっち側、あんま店ないねん。インドカレー屋しかない」
「本当だ、カレーの匂いする。あーカレー食べたくなってきた」
家までは少し遠回りになるけれど、脇道に入る。カレー屋が見えてきた。
夕方は16時から。陽気な音楽が流れていて、あまり会話をする感じの店じゃない。持ち帰って、俺の部屋で食べようということになった。ついでに叔父の分のチーズナンも買った。
「駅のこっち側、こんな感じなんだね」
「あんまファミリー向けの店とかはない」
少人数家族向けの小さめの部屋のマンション、というもの自体が安野にとっては珍しいらしい。玄関を開けてすぐダイニングキッチンが控えている間取りを見て「ドラマみたい!」と感動していた。
「俺も一人暮らししたいよ」
「ゴミ出したり、排水溝掃除したりとかせなあかんで」
「そういうのもやってみたいけどなぁ、最初はしんどいのかな、やっぱ」
「やらないと溜まってくだけやし、やっても褒められへんしな」
手を洗い、小さなテーブルに二人分のカレーを並べる。ゆっくり帰ってきたけれど、まだ温かい。冷蔵庫を確認すると、麦茶とジンジャーエールだけはある。
昼もパン食べたんだった、と思いながらナンを割く。
「お前なんでタンドリーチキン真っ先に食うねん」
「お腹空いてたから」
「全部食いもんやんけ」
「ねえその、二人称の『お前』と『自分』ってどう使い分けてんの?」
「安野の『お前』が移ったんやろ」
「え、やだ。自分に戻して~」
「知らんよ、もう」
冷蔵庫に向かおうとすると、安野が立ち上がって「麦茶?」と言いながとってくれた。これくらいの距離なら、杖なしでも歩けるのだけれど。
「今日、ごめん」
「何が」
「なんか、学校で話していいのかわからなくて」
「別に、気にしてへん。学校で話しかけんなって言ったん俺やし」
歩み寄ってやるつもりはなかった。けれど、直接謝罪されると怒りも萎んでしまった。
「木原もしばらく休んでたんだよ。学校来ても泣いてて、それで、早坂見たら今日もまた泣いちゃって、多分あいつも責めたいとかそういうのはないと思うけど、なんか変な空気なっちゃって、どっちフォローしていいのかわからなくて」
「しゃあないよ、俺はああするしかないって思ったからそうしただけやし。俺が正しいとも限らんしな。戦わんかったって助かったかもしらん。木原の目の前で加瀬殺してるし、どう思われてても仕方ないやろ。木原が俺をどう思うかは、木原の自由やから」
「なんかその、仕方ない、ってやつ、口癖だよな」
「仕方ないやん」
そう思わないとやっていられないことが、この世には多すぎる。
安野にとってはおやつ、俺にとってはたぶん夕飯のカレーを食べ終わり、ゴミを袋に詰める。自主的に「これどこ入れたらいい?」「台拭きこれ使っていい?」と聞いて動けるあたり、やっぱり彼はいいやつだ。
ここに引っ越してきたときの俺は、一切そんなことはできなかった。突然マナーのなっていない十五歳を押し付けられて、叔父もさぞかし対処に困っただろう。叔父が引き取ってくれなければ、あのままどこか関西の施設に引き取られていたと思う。
毎晩、悪夢にうなされて眠れなかった。自分が発症していたあの時間の出来事が、毎晩繰り返し、流れ込んできた。直前まで、冷やし中華が食べたいな、なんて思っていたのに。
冷やし中華のことを考えると、自動的にあの夏の日の腐臭を思い出す。俺はあれ以来、冷やし中華を食べていない。
そう思うと、悪夢を見なくなったのは、漫才のことを考えだした頃からだ。
世の中から笑いが減っている、笑いで世界を明るくしたい、みたいな安野の大それた夢は、案外既に、足元から叶っているのかもしれない。
「新しい進路希望調査、出した?」
「あー、俺今日貰ったからまだやわ」
「俺、」
台拭きを絞りながら安野が言う。
「ママと妹、九州に引っ越すことになって、俺もそっち住めって言われてて」
「は、なんで」
「心配だから、って」
母親はママなのに父親は親父なんや、と思ったけど、今はそれどころではないので言わなかった。
「大学、どうするん。指定校とるために頑張ってきたんやろ」
「俺の頭なら、一般受験でもそれなりの大学には入れるよ」
「それはそうやろうけど」
俺のことはどうするんだよ、と言ってやりたかった。でも、俺たちはまだ子供なのだ。
「まあ、安野がそれでええんやったら、ええんちゃうん」
俺は自覚がないけれど、関西弁のこの言い方は、突き放しているように聞こえるらしい。
「学祭も、なくなっちゃったしね」
「残念やな」
「卒業式でやるしかないな」
「はぁ?やらんわ。解散やろ、どう考えても」
「解散なんかしないし。一緒に住むんだろ。養成所行こーとか言ってたじゃん」
「いや無理やろ。高三の二学期に転校させようって親、ルームシェア許すわけないやん」
安野に非はないけれど、俺にもない。
申し訳ないけれど、俺はこうやって目先に曖昧な希望をちらつかせられるのにはもう慣れたし、もう飽きたし、うんざりだ。
「解散しないからな」
安野は勝手に冷蔵庫からジンジャーエールを取り出し、半分一気飲みした後、残りをリュックに詰め込み、ドタドタと音を立てながら靴を履き、出て行ってしまった。
今日はこれだけ言いに来た、というやつか。
足音が去ってしばらく経ってから、鍵を閉めた。部屋を掃除しようと思ったけれど、安野は散らかさないのでやることがない。
二日連続、悲鳴を上げながら起きて、お粥と味噌汁しか入っていない胃の内容物を吐いた。夜中なのに看護師さんが飛んできて、申し訳なく思う。怪我の腫れはだいぶひいてきたのに、微熱が続く。ついに、心療内科を紹介された。総合病院のいいところだ。
休んで目立つか、松葉杖で行って目立つのか。
少しだけ悩んだけれど、前者を選んだ。どうせ、休み明け学校に来ない生徒もたくさんいるだろうと思ったから。何事もなかったかのように授業を再開している方が怖い。
結局一週間ほど入院した後、二週間はそのまま夏期講習にも行けず、家で過ごした。叔父には、ゼリー飲料を箱で買って来てもらった。夏期講習の返金については、交渉してくれている最中らしい。
ずっと家にいてエアコン代が申し訳ないな、と思ったから、勉強していた。大して出歩くこともできなかったし。結局、九月に入っても一週間くらい休むことになった。
気分転換にアイスでも買おうと思って、外に出たことがある。ギプスが蒸れて大変だったし、とても時間がかかった。結果、家に着く前にカップのアイスは溶けてしまった。
家に帰って、ほぼ液体になったパピコを一本流し込み、もう一本は溶けたカップアイスと共に冷凍庫に入れておいた。一度溶けてしまったアイスは、固めたところで元には戻らない、ということを知った。
教室のドアを開けた瞬間、登校したことを後悔した。
この学校にきて一番視線を浴びた瞬間だったと思う。ギプスは取れて、簡易的な杖を使っていた。三階にある教室まで階段で上るのだって苦労したのに、もう既に帰りたい。
安野と木原と、数人が固まって何か話していたが、俺を見ると声を潜め、音もなく解散していった。ちゃんと見えていないけれど、木原はこちらを睨んでいるように見えた。
いや、感じ悪すぎるやろ。
安野を見ると一瞬目が合ったけれど、すぐに視線を逸らされた。
所詮俺たちは、この程度の関係だったのだ。
前髪の一部を失ったので、視界は広かった。眼鏡は戻ってきていない。何かの拍子で外れて壊れたのだろう。
ここで折れるような俺ではない。大丈夫、少なくとも二年間、俺には友達がいなかった。ずっと一人で過ごしてきた。今まで大丈夫だったのだから、これから先も大丈夫。
あの日以来、やっぱり安野から連絡はなかった。こちらからも連絡しなかった。連絡できない心理的事情があるのかな、と思ったけれど、それは俺の希望的観測であり、安野はもう俺を見限ったのだろう。そう考えた方が楽だった。
あのとき、木原を助けるためにドアを開けた。正確には、木原を見捨てたら安野にどう思われるか、不安がよぎったから開けた。結局俺は、俺のために木原を助けたのだ。助けてやったのに、とは思わない。
でも、助けてって言ったのはお前だけどな。
まあ、もうどうでもいい。新学期が始まってから一週間、学校を休んでしまった。必要な単元は終わっているとはいえ、あまり休むわけにもいかない。俺は勉強しないといけないし、体力だって落ちている。
安野が休まなくて済んで、よかった。あいつは指定校推薦を狙っているから。
教師は俺が登校しているのを目視で確認したが、特に何も言ってこなかった。夏休みの間にごく一部の生徒の間で起こって、もう解決したことだ。教師には関係ない。
あの日、俺たちのクラスからは計十人が登校していたらしい。安野と木原は無傷。重傷で入院していたのが俺一人。他は皆、死んだ。
小声で噂されている内容を総合すると、そんな感じだ。どうやら、俺は松田と加瀬を含むクラスメイトを三人、他所のクラスの人間を二人、殺したらしい。人の顔をちゃんと覚えていなかったから、迷うことなく殺せたのだ。
でも、加瀬のとき、俺は躊躇した。無慈悲に殺したわけじゃない。俺がそうしなかったらみんなやられていたはずだ。
俺の理屈ではそうだけれど、目の前で知人を殺された人間の言い分としては、そうはならない。その気持ちだけなら俺にもよくわかる。そう簡単には整理できない。目の前で、この手で、生まれ育った家の中で、おかえり、と言ってくれた人間を殺したことがあるから。
とにもかくにも、俺は普段から挨拶もせず、同級生とまともなコミュニケーションもとらず、みんなとは異なったイントネーションで喋るなんだか気味の悪い奴、から、有事の際にはクラスメイトをも躊躇なく殺す、血も涙もない殺人鬼、に昇格したのだ。
せめて安野くらいは、庇ってくれたってよくないか。
安野の目の前で松田を殺したとき、彼が震えながら膝を抱えていたのを覚えている。
結局彼は、優しくて育ちがいいのだ。友達を殺すくらいなら自分も一緒に死んだ方がましみたいな、ぬるい考えなのかもしれない。そういう人間がいたって、驚かない。俺だって、自分がなんでまだ生きているのか、ずっと不思議に思っているのだから。
移動するのが大変だったので、昼食のパンは自分の席で一人で食べた。今まで通り、誰も話しかけてこなかった。右腕がまだ痛くて、文字を書くので精いっぱいで、箸が持てない。パンにして正解だった。
下校時間になっても、安野から特に連絡はなかった。教室で話しかけるなと言ったのは、俺の方だけれど。
休んでしまった分の模試の問題と解答、その他提出しなければならない書類。指定校推薦を希望する生徒へのお知らせ。持って帰るものが多い。片腕で杖をついているから、リュックに全てを詰め込まないといけない。左足を庇おうとすると、右足に負担がかかる。
久々に電車に乗ったから、ひどく疲れた。とにかく体力が落ちている。気分転換に、スーパーかどこかで晩ご飯を買って帰ろうか悩む。自転車に乗れないから、駅まで徒歩で来た。駅から十五分くらい歩いて帰らなくてはならない。荷物を増やすのも億劫だけれど、この三週間、昼間はカップラーメンばかり食べていたから、ちゃんとしたものが食べたい。お金はかかるけれど、出前をとるべきか。
そんなことを考えながら改札を出て、家の方向に歩くべく、東口の看板を見上げる。
見慣れた制服が立っていた。
「一緒に食べて帰らない?ラーメンとか」
「家こっちちゃうやろ」
無視して帰ろうとしたけれど、付いてくる。
「チャリは?」
「あ、忘れた」
「あほやん」
早歩きで置いていきたいのに、杖だから速く歩けない。
「鞄持とうか?」
「いらん」
「俺チャリとってくるから、俺のかごに入れなよ」
安野はそう言って駅に戻っていったので、無視して歩みを進める。スーパーに寄る計画はなくなった。
待つのも癪だが、このまま安野がまっすぐ帰ったらと思うと、もっと腹が立つ。安野は俺の家に来たことがない。大体の場所は知ってるけど、ルートまでは知らない。
今日は、叔父は少し遅くなると言っていた。インドカレーでも買って帰ろうかな。叔父の好きなチーズナンは、冷めても温め直して食べられるのだろうか。二年以上一緒に住んでいるけれど、聞いたことがない。美味しいのかどうかも聞いたことがない。
俺、コミュニケーション能力に根本的に問題があるのでは?
今更か。昔からこうだったわけではない。この三年間が俺をすっかり卑屈に変えたのだ。
そうだっけ?
元々こういう、厄介な性格だったのではないか。元から俺に、友達なんかいなかったのではないか?どうだろう。もう思い出せない。あの日、両親を殺したあの日から、俺は自分の記憶に自信が持てない。すべて夢だったのかもしれない。俺が両親を殺したことを、誰も知らないし見てもいない。俺がそう言っているだけだ。間違っているのは俺の記憶の方なのかもしれない。あの時点で両親はとっくに死んでいて、俺が俺の記憶だと思っているものは実は、あのウィルスが見させている悪い夢で、
気分が悪くなってきたので、目の前にあったバス停のベンチに腰掛けた。ちょうど駅から、バス停ひとつぶんくらいは歩いたらしい。
九月の夕方はまだ明るい。鞄が重い。バス停には誰もいないけれど、ここに座っていたらバス待ち客だと思われる。早く立たないといけない。
「あれぇ、早坂、バスで帰る感じ?」
間の抜けた声だ。やっぱりお前にツッコミは無理だ。お前にはボケの方が向いている。
「休憩してるだけや」
「足痛いの?」
「そんなに。どっちかというと、支えてる右足の方が痛い」
「重いっしょ、プリント溜まってたもんな。持つよ」
安野はベンチに置いてあったリュックを取り、自分の自転車の籠に乗せた。
「チャリ乗れんから、駐輪場代損やわ」
「うん」
「学校やって休んだら定期代もったいないし」
「うん」
「お前、ツッコミやりたいんやったらもうちょっと気の利いたこと言わなあかんで」
「え、今のボケだったの?」
「ボケじゃなくても、拾ってボケにするのがツッコミの仕事や」
「やっぱ交代するしかないな」
「ほんまやわ」
やっぱり、安野と喋っていると楽しい。漫才にならなくてもいいから、こうやって喋っていたい。
「にしても腹減った」
「こっち側、あんま店ないねん。インドカレー屋しかない」
「本当だ、カレーの匂いする。あーカレー食べたくなってきた」
家までは少し遠回りになるけれど、脇道に入る。カレー屋が見えてきた。
夕方は16時から。陽気な音楽が流れていて、あまり会話をする感じの店じゃない。持ち帰って、俺の部屋で食べようということになった。ついでに叔父の分のチーズナンも買った。
「駅のこっち側、こんな感じなんだね」
「あんまファミリー向けの店とかはない」
少人数家族向けの小さめの部屋のマンション、というもの自体が安野にとっては珍しいらしい。玄関を開けてすぐダイニングキッチンが控えている間取りを見て「ドラマみたい!」と感動していた。
「俺も一人暮らししたいよ」
「ゴミ出したり、排水溝掃除したりとかせなあかんで」
「そういうのもやってみたいけどなぁ、最初はしんどいのかな、やっぱ」
「やらないと溜まってくだけやし、やっても褒められへんしな」
手を洗い、小さなテーブルに二人分のカレーを並べる。ゆっくり帰ってきたけれど、まだ温かい。冷蔵庫を確認すると、麦茶とジンジャーエールだけはある。
昼もパン食べたんだった、と思いながらナンを割く。
「お前なんでタンドリーチキン真っ先に食うねん」
「お腹空いてたから」
「全部食いもんやんけ」
「ねえその、二人称の『お前』と『自分』ってどう使い分けてんの?」
「安野の『お前』が移ったんやろ」
「え、やだ。自分に戻して~」
「知らんよ、もう」
冷蔵庫に向かおうとすると、安野が立ち上がって「麦茶?」と言いながとってくれた。これくらいの距離なら、杖なしでも歩けるのだけれど。
「今日、ごめん」
「何が」
「なんか、学校で話していいのかわからなくて」
「別に、気にしてへん。学校で話しかけんなって言ったん俺やし」
歩み寄ってやるつもりはなかった。けれど、直接謝罪されると怒りも萎んでしまった。
「木原もしばらく休んでたんだよ。学校来ても泣いてて、それで、早坂見たら今日もまた泣いちゃって、多分あいつも責めたいとかそういうのはないと思うけど、なんか変な空気なっちゃって、どっちフォローしていいのかわからなくて」
「しゃあないよ、俺はああするしかないって思ったからそうしただけやし。俺が正しいとも限らんしな。戦わんかったって助かったかもしらん。木原の目の前で加瀬殺してるし、どう思われてても仕方ないやろ。木原が俺をどう思うかは、木原の自由やから」
「なんかその、仕方ない、ってやつ、口癖だよな」
「仕方ないやん」
そう思わないとやっていられないことが、この世には多すぎる。
安野にとってはおやつ、俺にとってはたぶん夕飯のカレーを食べ終わり、ゴミを袋に詰める。自主的に「これどこ入れたらいい?」「台拭きこれ使っていい?」と聞いて動けるあたり、やっぱり彼はいいやつだ。
ここに引っ越してきたときの俺は、一切そんなことはできなかった。突然マナーのなっていない十五歳を押し付けられて、叔父もさぞかし対処に困っただろう。叔父が引き取ってくれなければ、あのままどこか関西の施設に引き取られていたと思う。
毎晩、悪夢にうなされて眠れなかった。自分が発症していたあの時間の出来事が、毎晩繰り返し、流れ込んできた。直前まで、冷やし中華が食べたいな、なんて思っていたのに。
冷やし中華のことを考えると、自動的にあの夏の日の腐臭を思い出す。俺はあれ以来、冷やし中華を食べていない。
そう思うと、悪夢を見なくなったのは、漫才のことを考えだした頃からだ。
世の中から笑いが減っている、笑いで世界を明るくしたい、みたいな安野の大それた夢は、案外既に、足元から叶っているのかもしれない。
「新しい進路希望調査、出した?」
「あー、俺今日貰ったからまだやわ」
「俺、」
台拭きを絞りながら安野が言う。
「ママと妹、九州に引っ越すことになって、俺もそっち住めって言われてて」
「は、なんで」
「心配だから、って」
母親はママなのに父親は親父なんや、と思ったけど、今はそれどころではないので言わなかった。
「大学、どうするん。指定校とるために頑張ってきたんやろ」
「俺の頭なら、一般受験でもそれなりの大学には入れるよ」
「それはそうやろうけど」
俺のことはどうするんだよ、と言ってやりたかった。でも、俺たちはまだ子供なのだ。
「まあ、安野がそれでええんやったら、ええんちゃうん」
俺は自覚がないけれど、関西弁のこの言い方は、突き放しているように聞こえるらしい。
「学祭も、なくなっちゃったしね」
「残念やな」
「卒業式でやるしかないな」
「はぁ?やらんわ。解散やろ、どう考えても」
「解散なんかしないし。一緒に住むんだろ。養成所行こーとか言ってたじゃん」
「いや無理やろ。高三の二学期に転校させようって親、ルームシェア許すわけないやん」
安野に非はないけれど、俺にもない。
申し訳ないけれど、俺はこうやって目先に曖昧な希望をちらつかせられるのにはもう慣れたし、もう飽きたし、うんざりだ。
「解散しないからな」
安野は勝手に冷蔵庫からジンジャーエールを取り出し、半分一気飲みした後、残りをリュックに詰め込み、ドタドタと音を立てながら靴を履き、出て行ってしまった。
今日はこれだけ言いに来た、というやつか。
足音が去ってしばらく経ってから、鍵を閉めた。部屋を掃除しようと思ったけれど、安野は散らかさないのでやることがない。
