俺の三番目の人生

「確信があったわけちゃうよ」
「でも、根拠はあった」
「安野は頭いいから困るわ」

 三年前のあの日も、ひどく暑い日だった。暑すぎると蝉の声もしないんだな、と思ったのを覚えている。午前中を友達の家で過ごし、昼前には昼食をとるために帰った。外の気温は40度近かったと思う。アスファルトから陽炎がのぼってみえた。
 音質を優先して、親にわがままを言って買ってもらった少し高いヘッドホンは、耳にまとわりついて汗でじっとりする。流行りのイヤホンに買い替えようと思っていた。ヘッドホンは家の中で使う用にしよう。
 帰ったらまずシャワーを浴びよう。今日は両親とも、暑いから家にいると言っていた。リビングにはきっとエアコンがついているだろう。そしたらアイスも食べたいな。昼ご飯は素麺か冷やし中華がいい。リクエストしよう。ゆで上がるまでの間にアイスを食べよう。行儀は悪いけど、こんな暑い日に外に出ていたのだ。両親も許してくれるに違いない。
 考え事をしながら自転車に乗っていたから、すれ違った男の様子がおかしかったことに気付かなかった。思い返せば、暑いのに日傘もささず、帽子も被っていなかったが、そういう人もたまにはいる。
 ただ少し、嗅いだことのないような臭いがしただけだ。
「ただいまー、ねえーなんか変な」
 ポーチに自転車を停めて、玄関のドアを開け、そこまで喋ったところで激痛に襲われた。何が起こっているのかわからなかった。振り向こうとしたけれど、強い力で肩を掴まれている。後ろから背中を噛まれているのがわかった。足の隙間から、サンダルが見える。さっきの男だった。
 痛いし、暑い。
 
「そこからは、覚えてない方がよかったんやけどな」

 外が暑かったのもあるのかもしれない。異様に体が熱くて、軽く感じたのを覚えている。頭に血が上って、ふわふわして、視界がぼやけていた。自分の体が自分のものじゃないような気がした。靴を履いたまま階段をのぼった。リビングでは両親が喋っていて、母は、おかえり、お腹空いてるでしょ。冷やし中華でいい?と言ってくれた。
 それが、俺が覚えている両親の最期の姿だ。
 感染しても、みんながすぐに発症するわけじゃない。体がウィルスに耐え切れず、発症する前に亡くなることもあるし、失血死することもある。俺は、自分の両親が人を襲わなくてよかったと思っている。

「一人っ子で助かったわ。失うものは少ない方がいいからな」

 ひと暴れした後、帰巣本能なのかなんなのか、そのまま自室へ向かった。お腹はまだ空いていたけど、それ以上にとても疲れていた。真昼間には聞こえなかった蝉の声が、夕方になると聞こえるんだな、と思った。靴を履いたまま、自分の部屋の床に倒れて、寝た。ぐっすり眠った気がする。ほとんど気絶だった。
 目を覚ますと、真っ暗だった。窓の外からはひっきりなしにサイレンの音がして、開けっぱなしだったカーテン越しに、赤いライトが俺を照らしていた。
 まず、自分の服があまりに汚れていることに慄いた。トイレに行き、そこで、手にこびりついたのが血だと気付いた。口の中がベタベタして、歯磨きがしたくて洗面所に行った。鏡で自分の顔を見て、そこでやっと、自分が何をしたのかを思い出した。
 覚えていないのは、むしろその先だ。リビングのエアコンがつけっぱなしだったのは、運が良かった。真夏の気温の中、あの状態の両親が放置されていたら、もっと大変なことになっていただろう。テレビは壊れていたし、俺のスマホは割れていた。
 何があったのかは覚えていても、何が起こっているのかはわからなかった。日付もわからない。冷たい水で、一生懸命顔を洗った。外が安全なのかもわからないし、両親をこのまま置いていくわけにもいかない。
 近所を一軒一軒めぐっていた救助隊がやっとうちにたどり着いた頃、俺は玄関に座り込んで放心していた。玄関ポーチには、俺を襲った男の体が転がっていて、腐り始めていた。蝉の声がした。

「まあそんな感じで、俺は『たまたま襲われずに済んで、両親を殺された可哀そうな子供』っていうポジションで保護されて、おかげで中三の残りはほとんど学校行けんかったけど、叔父に引き取ってもらって、一応籍だけはこっちの中学にいて、しれっと高校受けて、そっからはただの根暗でーす、って顔で生きてる」
 安野は黙って聞いていたが、どこか納得していないようだった。情報が多かったかもしれない。つま先をトントン鳴らしながら、考え込んでいるように見えた。来客用のパイプ椅子は年代物で、安野が体を揺するのに合わせて、ギシギシ鳴る。
「そういうことがあったのは、叔父さんも知らないってこと?」
「そういうことって?」
「その、ご両親を……」
「殺したこと?言わんよ。言って何になるん。俺だって生きてかなあかんし」
 そう、俺はなんとかして生きていかないといけないのだ。本当ならあのとき死んでいたはずだった。今の人生は、エンドロール後のおまけ映像みたいなものだ。情報量が多い必要はない。疲れてしまうから。
「誰にも言えなくて辛かったねー、とか言わんといてな。面倒で言ってないだけやから」
「なんで俺には話してくれるの?」
「安野は頭いいし察しもいいやろ。木原は知らんで。安野をごまかすのは無理やと思っただけ」
 一度感染したはずなのに、元に戻ってしまった俺には、抗体があると思った。あくまでも可能性だ。どうせエンドロール後の人生、ここで終わってもかまわないとも思った。ドアの向こうの襲ってくる奴4人、そいつらを連れて保護されに行っても、追い付かれて全滅するか、保護されずにまとめて殺されるか、逃げ切ったところで校外に感染者を逃がして、街に被害を拡大させるのか。
 あの一瞬で考えた結果が、『俺が全員ここで殺す』だっただけだ。俺が元感染者であることに、賢い安野なら気付くかもしれない。そうなったら俺から離れていくだろう。それでも、安野がここで死ぬよりはマシだ、そう判断しただけだ。
「安野は助かってんから、もうそれでいいやん」
 安野も木原も、あの後用務員室に籠城し、しばらくしてから救助隊がきたという。突入に時間がかかったのは、やはり建物自体を包囲してしまうことを優先したからだとか。公衆衛生の方が、俺たちの人権より重い。
「学祭もないし、漫才もなくなったし、もうええやろ。解散やな」
「まだ、コンビ名も決めてないのに」
「エントリー前でよかったわ」
 看護師さんが入ってきて、「警察の方がいらしているのですが」と声をかけて来た。警察が安野に「ちょっと外してもらえますか」と声をかけた。安野はパイプ椅子から立ち上がったけれど、俺が「彼はあのとき一緒にいた関係者なので、同席させてください」と主張した。警察官は、「まあいいでしょう」と、パイプ椅子に座った。安野は隅っこの方に立っていた。

 面談には医者も同席した。三日間意識を失っていた子供にいきなり事情聴取する、ということに医者は懐疑的だったし、警察も形式上話を聞きに来ただけで、そんなに興味はないみたいだった。
「夏休みで、学校に人が少なかったのは不幸中の幸いでしたね」
 あの日学校にいた生徒は七十五人。そのうち三十人は保護され、四十五人が亡くなった。感染して死んだのと、失血死したのが二十三人。屋上から落ちたと思われるのが二人。元気に暴走し、救助隊に確保されたのち処分されたのが十五人。用務員室の前で、スコップで頭を割られて死んでいたのが五人。
 戦ったの、俺だけかよ。
暑さでグラウンドを誰も使っていなかったのは、運が良かったらしい。外に逃げられると、厄介なことになるから。
 警察の話では、暴走した生徒の中に、夏休みを利用して関西の感染者隔離施設に面会に行っていた者がいるのだという。ここ数か月、関東圏での感染者が増えてはいたが、ここまで犠牲者が多かったのは初めてで、今後は面会が厳しくなりそうだ、という話だった。保護された三十人の中には軽症状の感染者も二人いて、そちらは現在も隔離されているらしい。
 少なくとも、ここにいる安野は感染していない、ということだ。
 同席した医者曰く、これまでも軽症の感染者の研究はされていたが、ひどく噛まれたのに感染していない俺は非常に珍しいらしい。特殊な抗体があるのか、はたまた遺伝子的な要因があるのか。検査に協力してほしい、と言っている研究機関の人間がいるらしい。
 俺はとても疲れていて、そんな話を聞きたい気分ではなかった。なので、「保護者と話してから返事をする」と言って、帰ってもらった。
 用務員室のスコップを調べれば俺の指紋が出ると思うが、警察はそこには興味がないらしい。要は、『発症してしまえは人間じゃないから、殺人罪ではない』ということだ。
 じゃあ俺は、いったい何なんだろう。
「安野は、なんやと思う?」
「早坂は、早坂だろ」
 その声は弱弱しくて、説得力に欠けた。

 安野はしばらく隅っこに立っていたけれど、夕方五時のサイレンが聞こえると帰っていった。あれは、この近くの学校から聞こえるのだろうか。八月の夕方は、どんなに暑くてもどこか秋の気配がする。
 久しぶりにいろんな人に声をかけられたので、とても疲れた。疲れたのに、夕食はまたお粥だったので、更に気が滅入った。でも、今回の味噌汁にはわかめが入っていて、おまけにプリンまでついていた。プリンで喜べる俺は、誰になんと言われようと、人間だと思う。

 九時に消灯されると、やりたいこともないので早々に眠る。疲れていたのか、なかなか寝付けなかったけれど、夢を見た。意識を失っている時も、同じ夢を見ていた気がする。卵とパンが焼ける匂いがして、リビングに入ると、テーブルには朝食が並んでいる。お腹が空いているのに、食欲がわかない。
 お父さん、お母さん。探しながら階段を下りる。玄関の扉を開けると、草原が広がっている。空気は乾いていて、あたたかい。風が吹いている。でも、誰もいない。俺独りだ。耳にはヘッドホンがついていて、暑い。外そうともがいていると、なにかにつまずく。足元を見ると、腐りかけた男の体が転がっている。