アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 


 叁月贰拾玖日。

 最終儀式――― 妖神降着の儀。


 太陽が西へ傾き、少しずつ赤味を差し始めた頃合い。
 儀の参加者達……昨日の陰陽師達が、再び禁呪の間へ集まり、声無く位置に着く。

 昨日に同じく、入り口付近に並ぶは清慈、椿、樹、駄韋、各長達。
 ……椿と樹、気丈に佇むも随分窶れても見える。

 総次郎は、彼等が間へ集まる前より、御影石の台座に手を付き頭を垂れていた。
 皆が揃えど、動く気配が無い。


「"次代"、」

 清慈が言を投げる。

「時間ぞ」
「…………」

 ……ゆっくり、総次郎は立ち上がる。
 項垂れていた頭を、上げ。
 目を、開く。

 光を消した眼で、印を組んだ。


 御影石を囲む呪陣が、総次郎の印に応じ再び暗く光を放つ。
 器が、淡く照らされる。……置かれた青白い肌が、更に青く色付く。

 器に近付き、胸へ手を置く……先の儀より容易に手が沈み、塊に触れた。
 触れた"塊"は冷たく、ゆっくり……ゆっくり……拍動している。

 人知れず、其れをそっと撫でた、総次郎。
 ……立ち上がり、言葉を紡いだ。

「定着、確認」
「しかと聞いた」

 清慈が続ける。

「これより最終儀式、妖神降着の儀を執り行う」



 * * * * * * * * * *


 同刻、結界付近。

 破れた結界周辺を、此度は二十五程の陰陽師が警備にあたっていた。


「二十五も駆り出すなんざ、ちと大袈裟じゃあないかえ?」

 狩衣姿のある者が、あくび半分に零す。
 隣で刀を差し直したもう一人が、笑いながら。

「あの野衾の原因が分からぬ以上、警備に手は抜けぬと言う総代の命だとさ」
「今日日、そんな良い頃合いで襲って来るもんかねぇ?」
「さてねぇ?…とは言え、其れよりも儂は儀が気になって仕方がないのだよ」
「何故?あれはどうせ次代の花道だろう?」
「いやな、あの依代がどのような妖神にな、る……か…………ん?」

 一人が、何かに気付いた様子。

「おう、如何した?」

 問い返すも、もう一人も気付く。

 傾きかけた西日に陰を落とす、森の中。
 ……何か、地鳴りの様な物音……

 "……… ザ…… ザ ザ ザ ザ ザ ザザザザザザザザ!!!"

 黒い闇が、森の奥より広がり。


 ふと、音が消え……
 刹那。


 "ボ ッ ! ! ! !"

「うわ……」

 黒い生物が塊となり、俄かに周囲を覆った。
 大蝙蝠と野衾の大群である。
 先の比では無い、礫を伴った黒く生温い雲の如く。
 あれよと言う間に警備の者達は圧され、視界を失った。



 * * * * * * * * * *


「出でや、赤猫」

 形代を浮かべ印を組み、自分の式神を顕現させる。
 炎を纏った二足の獣が雄叫びと共に現れ。
 命令を待つ様子の其れを、器の傍に立たせた。

 周囲より始まる詠唱。
 今まで幾度も耳にした、"人妖魂混"の音。
 ……赤猫が悲鳴と共に溶け、鮮血の様な液体となり呪陣の溝へ。

 器に、其れは注ぎ込まれた。
 一滴残らず、まるで器が吸い込んでいるかの如く。


 ……


 ………


 …………。


 静寂が、禁呪の間を包み込む。


「…蘭樹…?」

 震える唇より小さく漏れる、不安の声。

 ……器への最後の人妖魂混は成功した筈。
 此処で、この器は異形の姿……"妖神"へと昇華する筈なのに。
 取り込まれた式神との"繋がり"は途絶えていない……
 手順を一つ一つ辿り、其の総てに間違いは無かった事を確認し、

 しかし……

 器は、 妖神に、 ならぬまま。

 周囲が僅かにざわめく。
 椿は息を呑んで身を震わせ、樹は眉根寄せて目を逸らし。
 清慈は……只、目を細めた。


 ――― どうしよう
 失敗……!?
 蘭樹が、……

 不安と焦りで総次郎の息が上がり始めた、其の時。

 清慈達が立つ背後の扉が小さく開き、慌てた様子の男が清慈に駆け寄った。
 ……黒い狩衣の隙間より、血が滴っている。

「清慈総代!」
「儀式中だ、慎め!」
「……野衾の群れです」
「!………、」

 ひく、と頬を引き攣らせた後。

「施設閉鎖最優先、奥間には通すな。
 儀は続行する。…行け」

 言い放ち、男を外へ。
 続き、清慈は総次郎へ言い放った。

「続行せよ」
「!……御意、」

 ――― 失敗では、無い……?

 訝しみつつ。……しかし、消えぬ希望に縋るしか、今は無い。
 今一度、手順を反芻する。


 ――― 妖神昇華、其の後は……
 妖神を自らの力のみで取り押さえ……。


 ……白き童の姿した、"其れ"。
 もう、これが何なのか、誰にも分からぬ。

 総次郎は、そっと額に触れた。
 体温感じぬ、作り物の如き手触り……
 ……其の遠くに感じる、式神との"糸"。

 其れを辿り、其の先にあるものを手繰り。
 空いた手で幾つかの印を組んだ後。

 最後の命 ―― "根榦肆命"。

「……刻め。
 "(われ)が汝の(あるじ)也"」

 "ぶわ、"

 旋風が巻き起こり、呪陣が金色に光を放つ。
 光と空気が呪陣内部を包み込み、光の柱が天井まで走った。

 其の光、かつての儀と寸分違わぬ。
 清慈の口角が、僅かに上がる。

 人々の視界の隅を、"青緑"の衝撃が走る。
 頭の奥を、其れは光の如く貫き、消え。

 そして、呪陣の光と風がふわり…と溶け消えた時。


 再びの静寂が、周囲を包み込んだ。


 ……変化と言えば。
 何かの弾みか、器の目がほんの薄っすら開かれているのみ。


 ――― 失敗、だ。


 "蘭樹の命"が無駄になった瞬間。
 総次郎の視界が白く飛び、歪み、ざわめく周囲の音……椿の悲鳴すらも、遠のいていく。

「……蘭樹、ねぇ」

 震える手で、其の身に触れる。
 身を揺らし、手を握り、縋る。

「ねぇ、……起きてよ……
 起きてくれよ!!」


 …… 反応は、 無い。


 総次郎の身が、崩れる。
 冷たい石の台座を何度も殴り、肩を震わせた。


 周囲の陰陽師達がざわつく中、総次郎が崩れて行く其の様を沈痛な面持ちにて見詰めていた樹、頬をひくつかせつつ睨む清慈。

「…… 無駄骨を折ったか」

 苦々しく零した一言、しかし。

 ……恐らく、同時。
 二人はふと、何かに気付いた様子にて顔を上げる。

 ……地響き。
 ズン、ズズン……何度か、足元を揺るがす気配。
 其れは直ぐに近くなり、やがて他の陰陽師達も気付いたのか。す、と話し声が消え。

「……… 来る」

 樹が零した、其の刹那。


 "ゴシャア!!!!!"

 西の壁が、吹き飛んだ。
 巻き込まれた数人の陰陽師と共に、外より転がり込むは――岩の式神"地竜"。
 ザァッ!!と無数の形代となったと同時。

 "ギャアアアアアア!!!!!"

 桜吹雪混じる旋風と共に、無数の黒い闇がなだれ込んだ。
 大蝙蝠と野衾の群れだ。

「野衾!?」

 誰かが叫んだと同時、ばん、ばん、と入り口でも音。
 三度目の衝撃にて扉が吹き飛び、同じく大量の闇色。


「退避優先!! 頭を狙え!!」

 戦場と化した中、咄嗟に叫ぶ樹。
 皆に並び応戦せんと構えた、

 刹那。


 "ド ク ン"


 身に、衝撃。
 背に、激痛。
 耳鳴りがつんざき、喉が枯れ、視界が西陽に焼かれ紅く振れる。
 辛うじて抑えていたものが増幅し、跪いた。

 込み上げるものを呑み込み、見回す……
 応戦中の陰陽師の内、先日噛まれた者達が野衾に変異していく。
 ……中央、呪陣は結界が貼られているが、中の総次郎は動かぬまま。

 ――― 護らねば。

 大蝙蝠を掻き分け、噛まれながら、首を飛ばしながら。

「総次郎くん、立て!!」
「……」
「其の結界は薄い、…じき、破れ…る…!!」

「……、」

 漸く顔を上げた総次郎、…景色に顔を引き攣らせ、しかし動く事が出来ぬ様子。
 辛うじて器の前に立ち、震える手で尚、印を組んだ。

 押される。
 減らぬ蝙蝠、減らぬ野衾。
 頭を潰し、首を飛ばし、…無意識が血の甘い香りに惹かれ、背が軋む。

 バリン、と音がした。
 総次郎達を護る結界が破れた音だと理解した。
 咄嗟に樹蔭を呼び呪陣の盾にする。


 ――― 無理だ、
 このままでは…… ……?

 …… ふと、過ぎる。

 ――― もしも。……否、まさか、……
 否。このまま何もせぬでは皆助からぬ。

 ――― 一か、八か。


 身が、限界を迎えつつあった。
 ギリギリと軋む背はもう抑えられぬ。

 噛まれて尚耐え続ける樹蔭の、蜷局(とぐろ)の中。
 理性を絞り出し、叫んだ。

「……総次郎、…くん!」
「樹さん!?」
「椿を……蘭樹を、
 ……頼むぞ!!」

 立ち止まる。
 辛うじて保ち続けていた理性を、

 手放す。


 遠退く意識……
 大蝙蝠達が、樹に群がった。
 ギチギチギチ。鳴き声と共に、噛まれ、噛まれ、噛まれ、


 "ミシ……

 ミシ、ミシ………"

 " ザ 、 ァ ……… ! ! ! "


 背が、破れた。
 蝙蝠達が怯み、離れる。
 散った黒達の隙間より広がるは、大きな飛膜……
 他の野衾とは明らかに違う。
 まるで星屑を内包した宵闇の如き翼が、場に夜をもたらしたかの如く。

 長く鋭い爪。
 毒蛇の如き牙。
 ゆっくりと開けられた、澄んだ紅玉の如き目。
 二つに分かたれた、影。

 其の瞬間、場に居た野衾も、蝙蝠も、凍り付いた様に見えた。

 "フーッ…… フーッ……"

 "其れ"は、大きく呼吸をする。
 肩を上下させ、何かを見定めるかの様に周囲を睨め回し。
 ひとつ、瞬いた刹那。

 "パンッ"

 一体の野衾の首がもげ、落ちた。
 続き、怯むもう一体の首も落ちる。
 動きが見えぬ。突風の如く失踪する。
 次々に野衾達の首が切れ落ち、視界を失い右往左往し始めた。
 舞う様な其れに大蝙蝠達が呼応し、後に続く。
 やがて黒き風となり、戦況は変わりつつ……

 と。
 ビタリ、黒旋風が止まった。
 頭を抱え、近くに転がる遺体へ体が向き……否、頭を振り拒む。
 隙を縫い呪陣へと飛んだ別の野衾。印を組み、其れを吹き飛ばした。

 無意識が、血を欲する。
 理性が、同族の首へ手を伸ばす。

「ガ……アアァ……!!!!」

 悲鳴とも雄叫びともつかぬ声を上げ、振り払う。
 膝を突き大きく息を整えた時。


「出でや、天ノ眼」

 あの声。
 共に、辺りが俄かに昼の日光に包まれた。
 清慈である。

 余りにも強い恒星光は、式神すらも吹き飛ばす。
 陰陽師達が召還していた式神達は俄かに掻き消え、樹蔭も例外ならず消え失せる。
 呪陣中央の器と総次郎が露になる。
 "其れ"の姿に絶望の顔をしかけ、……否。決死の表情にて印を組んだ。

 ……が。

 野衾と大蝙蝠が怯む……が、消えぬ。
 夜の翼持つ"其れ"が大きく雄叫び、他の野衾も呼応した。

「……樹め!」

 清慈が吐き捨てる。
 "其れ"が何なのか、どうやら理解した様子。

 野衾による攻撃は、止まらない。
 首は斬り落とせる。
 数は減らせる。
 が、人も、減る。
 減っていく。

 死んで、いく。

 再び、血の匂いに"其れ"がもがく。
 両の手を突き肩で大きく呼吸した其の時。

 傍を、一体の野衾がすり抜けた。
 一瞬の隙を突かれ。

 ――― しまった、

 "其れ"が咄嗟に反応し、…一寸届かず。
 呪陣に侵入し、器をかばう総次郎に牙を立てんと口を開け。


 見知らぬ指が、動く。

「判定」


 "リィン……"

 野衾が。
 青緑の光の粒となり。
 消滅した。


「!?」
「……?」
「これ、は……」


 "ド ク ン 。"

 夜半の"夢"の如き、鼓動。
 聞こえたのではない。
 其の場の全員の"頭"に、其れは澄んだ海水の様に流れ込む。


 "ド ク ン 。"

 鼓動。
 頭蓋の内側を叩く、痛みにも届かぬもの。
 位相を揃える様な、不気味な程に規則正しい、衝撃。


 "ド ク ン 。"


 鼓動。
 其れは視線。
 肉食の獣……否、"(ことわり)"に睨まれた様な、得も言われぬ恐怖。
 生き残り戦っていた陰陽師達の数人が、耐え切れず発狂した。


 "ド ク ン 。"


 天井裏にて様子を監視し続けていた氷雨衆三人。
 前方の一人が呟く。

「撤退」
「御意。
  ……どうかご無事で」

 後方二人が、影の如くスゥと消える。
 ……残った一人の額に、一筋の汗が流れた。


 "ド ク ン 。"


 総次郎が庇っていた筈の所に、器の姿は無い。
 其れは、間に合わぬと覚悟していた"其れ"…樹の、
 目前に、
 佇んでいた。


 "青年"? ……違う。

 西日を背に輝く白銀の長い髪。
 虚ろだが、男とも女ともつかぬ美しき(かんばせ)
 淡く発光する、無駄な肉無きすらりとした肢体。
 眼から流れ足まで続く、発光流れる紅い線。

 そして、四本の角と……
 赤黒と金の、"眼"。

 桜の花弁が静かに取り巻く。
 其の姿、人と呼ぶには整い過ぎており……

 否。

 紛れもなく、其れは"鬼神"。
 与えられた"命"を実行する、只其れだけの。




「…… 蘭……樹……?」

 樹が、零す。
 紅い瞳に、天人の如き其れが映り、離れない。

「…… 嗚呼…… 美しい……」

 一筋、零れる涙。
 震えながら伸びる、手。
 ……鬼神の右手はすれ違い。
 樹の頭を、掴んだ。


「命。傀儡、配下」

 鬼神が囁く。
 途端、樹の身より力が抜け、……紅い瞳が青緑に変化する。

「…… 蘭…………」

 つい、と右の指を動かす。
 ……鬼神の手と樹を結ぶは、金に輝く透明な"糸"。
 樹の身が其れに従うかの如く、鬼神の傍に立ち上がった。

 其の傍にて、放心している者がいた。
 応戦していたものの樹と蘭樹の変化に耐え切れず、心を手放した椿であった。

「…… あ…… ああァ……」

 噛まれ続け、至る所の肉が削がれ。
 着物を真っ赤に染めながらも、動く事出来ぬまま。

 鬼神の目が向き、左手が椿の頭も又掴む。
「あ、…」と小さく言を零した椿、しかし。

「命。傀儡、眷族、配下」

「…… 嗚呼…… … そう、なの……蘭樹……」

 白く細い手が離れた所。
 椿の額には、二本の角が生え。
 血の涙流した椿、青緑の眼で薄ら笑いながら懐刀を取り出し。

「あたし、が、守って……
 あげ、る、ね……
 フ…フフ…」

 其の傍に、彼女も又、佇んだ。




 ――― 芳しくない。余りにも。

 状況をじっと見ていた清慈…… 掲げていた天ノ眼が、にわかに光を弱めた事に気付く。
 天ノ眼は漆黒の瞳を瞼に隠し、まるで目を逸らす様に、すぅと消滅した。

「……双樹め、」

 鬼神を前に怖気づいたか。
 悪態が口を突いて出掛けた、刹那。

 樹の刃が咄嗟に構えた清慈の鉄扇を弾いた。
 ヒク、頬を引き攣らせた清慈が見たもの。
 ……鬼神が、何事か囁きながら此方へ向かってぬらぬらと指を動かしている。

「主命……(アルジ)守護、
 審判、粛清、制裁、殲滅、圧殺、常夜、朔天、常闇、静寂、無帰、」

 ――― 天ノ眼にて敵と判断されたか。
 思う間も無く樹の爪。
 二撃三撃と受け、横へ薙ぎ隙を作る。


泡沫(ウタカタ)ノ (ウタゲ)ニ (ウタ)フハ (タレ)ゾ」

 鬼神は、操り人形を手繰り動かす様に、舞いながら囁く。
 歌の様に。審判の様に。

 鬼女となった椿は狂い笑いながら、野衾を、そして人を斬り、笑い、斬る。
 血を浴びながら尚激しく舞い、恍惚たる表情を浮かべた。


(ヤミ)ニ (マミ)レテ (トカ)ニ 枯レシ」


 今まで抜く事無かった刀を抜き、清慈は「御、雷神」と雷を纏わせ振る。
 樹も同じ呪「御、雷神」と印を組み相殺、バチィと弾け飛んだ。
 鬼神の指に合わせ、風を纏い速度上げる樹。
 腕を斬りかけるも怯む様子が無い。
 痛覚が無いのか。目を細めた刹那、ド!と脇腹を蹴られ、清慈の身が地を転がった。


「命ニ 祈レヨ 今ニ 消…ユ……」


 "ガシュ!!"
 振り上げられた樹の爪が軌道を反らし、清慈のすぐ横に突き刺さる。
 偶然か…次なる撃を覚悟した清慈。
 其の眼と樹の眼が、かち合った。

「……兄……上……
 にげ……て……!!」

 ……青緑ならぬ。
 何時もの赤茶でも、野衾の赤でもない。
 総次郎と同じ、"銀の眼"。

 しかし其処に強い意思を見出し、清慈は息を呑む。

 音が、……失せる。


「…… たつ」
 "リィン……"


 青緑の光の粒となり、舞い散った。


 何が起こった?
 樹の顔が、強張る。

 清慈が居た場所の直ぐ前。
 鬼神が、佇んでいる。

 ――― 消滅、した……?
 兄上が?

 理解、後、……絶望より先に、再び頭を掴まれ、

「命。傀儡、自我剥奪」

 樹の意思が、
 飛んだ。



「…………」

 入口付近、目立たぬ隅。
 じっと、気配殺して見続けていた駄韋。

 清慈の消滅を見届けた後、其の顔がギリ、と怒りに歪む。
 しかし其れ以上、何もせぬまま……何も出来ぬまま。
 黒霧の式神にて身を覆い、消えた。



「其ノ (ケガ)レシ 闇ニ 喰ハレテ 示セ」


 鬼神の歌は、続く。
 感情無き囁きは青緑の夕陽に響き渡る。

 艶めかしく舞い踊る指は、続く。
 金の糸を操り、鬼女と大野衾も又舞い続ける。

 人も、妖も、式神も。
 老いも若きも。
 全てが、辺り一面に、散る。
 総てが、散っていく。


「サァ。
 自己(オノレ)ノ、無實(ムジツ)……」
「蘭樹!!」

 名が、割り込んだ。
 鬼神の脚に、温かな腕がしがみついた。

「蘭樹!! 蘭樹、蘭樹……!!」
「………ヲ………、」

 鬼神の眼が、向いた。
 必死に脚にしがみ付く、総次郎がいた。

「蘭、樹……!!」
「………………シュ………
 主命…… 主守護…… 主命…… 主、……守、護………」

 壊れた絡繰の様に、鬼神は繰り返し。
 やがて、

 "カクン、"

 其の身より力が抜け、地面に転がった。
 脚に縋っていた総次郎も、……暴れまわっていた大野衾も、鬼女も。

 静寂が、俄かに辺りを包み込む。

「蘭樹!!」

 立たぬ脚を引き、倒れ込んだ鬼神の顔を覗く、総次郎。
 ……鬼神は、眼を見開いたまま、只一言、零す。

「…… 嗚呼……
 足リナ、 カっ、  た」

 ほのかな光が、失せていく。
 紅く光流れていた二本の線が、枯れ、砕ける。
 四本の角が玻璃の破片となり、散る。
 長い髪が溶け、青年の肢体が縮んでいく。

 …… 異形の眼が。
 見開かれたまま、紅玉の瞳へと、……戻る。

 見慣れた、美しい瞳。
 光無き其れを、震える手でそっと、閉じさせ。


 夢の如き青緑は、気付けば散り消えていた。
 血の海に差す夕陽が、紅い。

 夢ではなく、其れは、―――


 血の臭いが、鼻を刺す。
 生温い春風が、紅い花弁を弄ぶ。

 暫し、総次郎は呆然としていた。
 怒りも、悲しみも、絶望も、

 何も、浮かばなかった。