アヤカシ太夫♂とイロオトコ

 


 叁月贰拾漆日。

 戒刻(かいこく)の儀、前日。


 朝、椿が樹の包帯を替える。
 肩に付けられた深い牙、削いだ様な傷……縁の黒ずみが、治りの悪さを予感させる。
 薬を塗り、当て布をし、治癒の呪符を貼り、包帯を巻いた。
 他の噛傷にも同様に。

「朝から済まない」

 目を伏せる樹の顔色が、少し良くない。

「お体の具合は、」
「嗚呼、問題ないよ」
「顔色が優れない様子ですが」
「…昨日、少し血を失ったらしい」

 ふぅ……と、溜息を漏らす。

「清慈総代の天ノ眼が無ければ如何なっておったやら」
「重傷者が居らなかったのは重畳でした。
 ……樹様、貴方様まで居なくなってしもうたら……」
「心配性だな、椿」

 樹の無駄無きしなやかな筋肉が包帯と共に水干に隠れ、彼はふふ…と笑み零す。

「其の様な酷な事はしないさ」

 ……真っ直ぐに椿を見る眼。
 何時も見る美しい眼が、椿には何時もと少し違って見えた。



 午前、離れ前。

 明日の戒刻の儀を前に、しかし何時もと変わらぬ静けさ。
 春の暖かな日光が、眩しい。

 食器も持たず離れより出た総次郎を、樹は呼んだ。

「総次郎君、……少し、良いかな」
「お早うございます、……何か」
「話が、したいんだ」

 浮かぬ面持ちの総次郎。
 しかし、少し無理に笑みを作り、「はい」と頷いた。


 分所施設をぐるりと南へ回れば、建物のすぐ傍に松の木が植えられている。
 其処より屋根へ上れる事を、樹は知っている。
 総次郎を促し、巨大な分所の屋根へ上がる。

 爽やかな、青空。
 ぽっかりと浮かぶ真っ白な雲。
 周囲を覆う山々を見渡せる高さ。
 肌を柔らかく撫で行く春風。
 空気に混じる甘い花の匂い。

 思わず胸一杯に空気を吸い込んだ総次郎、其の傍に樹が腰を下ろす。

「こんな所があったんですね、」
「何年振りだろうな、此処へ来たのは…… 誰にも言わないでおくれよ?」

 樹が向けた其れは、何時もに無き無邪気な笑みに見えた。


「…… 明日」

 くるり、くるりと回る鳶を眺めていた二人。
 樹が、言を零す。

「明日、蘭樹は人の生を終わらせる」
「……」
「悪い事ではない。新たな生を授かるのだから。
 ……君を護る、剣になるのだから」

「…… 私は、」

 総次郎が、ぽつり零す。

「この制度が良いものであるとは、到底思えません。
 ……人の命を、かの様に弄ぶなんて」
「……」
「でも…… 蘭樹が、生きる道が……これしかないのなら……
 私は、…… 僕が、やるしか……」

「…… 私が総てを代われれば、どんなに良かったか……」
「えっ?」

 ぽつり呟かれたものは、総次郎には到底聞こえぬ程に小さな言葉。
 風に吹かれ流れた其れを聞き返すも、樹は続ける。

「総次郎君」
「…はい、」

 向き直る樹。
 真っ直ぐな、…少しだけ、寂しそうな、眼。
 頭を垂れ、其の眼が隠れる。

「…… 此処までの五年間、私達に代わり蘭樹の世話をしてくれて、本当に感謝する」
「頭をお上げ下さい。私は其の様な……」
「きみには、本当に苦労を掛けた……本当に、本当に」

 ゆっくりと上げられた眼に、総次郎が映る。

「……明日は、上手く行くよ。きっと。
 これからも、蘭樹の事を……

 頼んだよ」

 総次郎は、何も返す事が出来なかった。
 ……この人も、自分に同じ犠牲者だと、知り得ている故の。


 遠くで総次郎を呼ぶ声がする。
 儀式の段取りであろうか。

「…… 行かなければ」
「すまない、長く引き止めてしまった」
「いえ、」

 松の木伝てに降り、総次郎は見上げる。

「"樹おじさん"、」
「、」
「僕もね、……自分の器がもっと大きければ…って」

 そう呟いた銀の眼が、濡れている。
 ぐいと袖で拭い、其のまま総次郎は声の方向へと駆けていった。


 爽やかな、青空。
 ぽっかりと浮かぶ真っ白な雲。
 周囲を覆う山々を見渡せる高さ。
 肌を柔らかく撫で行く春風。
 空気に混じる甘い花の匂い。


 樹は、暫し其の景色をぼうっと眺め。

 やがて、身を震わせ、俯いた。
 顔を、両の手で覆った。

 溢れ出した其れを、止める事が出来なかった。




 昼、体調不良者複数の報。
 樹、分所内各居住区へ向かう。

 …… 苛立った様子の駄韋とすれ違う。
 何か気になるのであろうか、其の背を見ていた樹に、背後より声。

「樹様、」
成信(じょうしん)、状況は?」
「人数は報告待ちですが、皆一様に同じ症状を訴えています」
「如何様な、」
「発熱、目眩、……光を怖がるものもおります」
「……そうか……成信、悪いが助手を頼めるか?」
「御意」

 足早に、一部屋目へ向かう。

 一部屋目、佐原 宗見。
 先の野衾襲撃時の防衛陣頭が一人。
 肩を噛まれ包帯を巻いた状態のまま、布団を頭から被り動けずにいた。

「宗見さん、」
「……」
「大丈夫です、窓は締めきっておりますよ」
「…… 嗚呼… 嗚呼、樹殿……」

 漸く布団より顔を出す宗見。随分窶れて見えるが……

「昨日は結界防衛、有難うございました。
 ……包帯は昨日のままですね、交換しましょう」
「樹様のお手を煩わせるなど……」
「否、……私の責任です故、」

 包帯にそっと手を触れ、解く。
 乾いた血が剥がれ落ち、甘い鉄の匂いと共に傷口が姿を見せる。……縁が、黒い。

「……今日になり、とにかく"光"が眩しくて、目の奥が焼かれる様で……」

 掠れた声で、宗見が漏らす。

「其れに、酷く喉が……乾いて……」
「……風邪、で……」

 言い掛け、淀む。
 幾許かの沈黙。……後、

「成信。水を持って来て下さい。竹筒に、何本か」
「御意」

 成信が離れている間に手早く包帯を巻き直し、宗見の手を取り、脈を診る。
 自分に同じ、熱を持った手。
 指に強く語り掛ける、少し乱れ気味の脈。
 …上気した様な、現を離れつつある様な、宗見の表情。

「宗見さん」
「はい、」
「何か、他に自覚症状は」
「…… 嗚呼…… 音が、響くのです…… 自分の拍動が、煩くて……」

 急ぎ成信が持って来た竹筒を宗見に与える。
 中の水を一気に飲み干すが、其の顔に満足感は無い。

「明日に控え、本日はご無理をなさらず」

 力無く頷く宗見をそっと寝かせ、部屋を後にした。


 二部屋目、眞田 重親。
 先の野衾襲撃時の防衛陣頭が一人。
 部屋を閉め切り、押し入れの中に居た。

「重親君、」
「ヒッ! …… た 樹様……!?」

 相手が樹と分かるや否や、よろける体を押して樹へ縋り付く。

「助けて下さい!! 俺、このままじゃあ」
「如何した、落ち着きなさい」

 布団の上へ座らせ、息を整えさせる。
 ……ヒトの、強い匂い。

「光が襲って来るのです、やけ死んじまう……!」
「光は人を襲わぬ、さあ大きく吸って」

 深呼吸させる。
 竹筒の水を飲ませる。
 ……少し落ち着いた所で、漸く重親は潤んだ目を樹へと向けた。

「……陽の光が、頭を焼くのです…… 嗚呼、あの天ノ眼が空に浮かび続けている様な……」
「先の結界防衛で心に傷を負ったか…」
「俺、嫌です!このまま厄介払いされたら……でも、外が……怖くて……!」
「其の様な事はせぬよ、大丈夫。
 先ずは傷を見せなさい」

 脇腹、大きく齧られている。
 牙の痕周りが黒く、消毒にて触れれば黒い液体が垂れた。

「少し痛む、我慢しなさい」

 其れらを絞り出し、液体が鮮血となった辺り。
 蜜の如くぬらりと滴る其れを塞ぎ、急ぎ拭き上げ、当て布をし、包帯で塞いだ。
 ……重親は、声も上げず震えていた。

 脈を診る。
 乱れた脈動、やはり熱がある……。

「樹様、俺……取り乱して……」
「大丈夫、良くなる。今日はゆっくり休みなさい」

 優しい言葉を投げ、重親を漸く布団へ横にし、退出した。


 三部屋目、犬養 雅。
 先の野衾襲撃時の防衛陣頭が一人。

 四部屋目、当麻 景次。
 先の野衾襲撃時の防衛陣頭が一人……。


 六部屋目を出た辺りで、一人の陰陽師が樹へ駆け寄る。

「病人、集計出ました」
「何名だ、」
「二十です」
「………」

 溜息と共に、目頭を押さえる。
 ……恐れていた事実であった。

「樹様?」
「何だ、」

 後ろから見ていた成信が、不安気に声を掛ける。

「あの……樹様は、お体は」
「問題無い。
 このまま全員回る、竹筒の用意を」

 御意、と走り去っていった成信を、見送った後。

 傾きかけた西日が、樹を強か刺す。
 揺れる視界、耐え切れず乱れた呼気。

 …… ふっ、と息を吐き、飛びかけた視界を瞼で戻し。
 樹は再び、真正面へと向いた。

 後、十四人。



 …十部屋目。
 傷の黒ずみ、微熱、倦怠、光過敏。

 ……十三部屋目。
 傷の黒ずみ、微熱、倦怠、光過敏。

 ………十九部屋目。
 傷の黒ずみ、微熱、倦怠、光過敏。


 二十部屋目。
 ………… 帳簿に記す手が、震えた。


「……何が、起こっておるのでしょう?」

 成信が、青褪めた顔で零す。

「皆、光を怖がっておった……」
「……知らぬ感染症やも知れぬ」

 溜息と共に、樹が返す。

「明日までに回復して貰いたいが、……そうも行かぬな……」
「明日の儀、如何なるのでしょう……
 人数足らなければ、行えるか如何か」
「上層は強行する筈……彼等の尻を叩くであろうよ」

 残念ながらな……そう漏らしながら、簡単に帳簿を纏め。
 其れをすと成信に渡した。

「これを清慈総代に」
「は……」
「「罰は儀終了後に受ける」と、伝えておくれ。
 今日は良う頑張ってくれた、きみは早めに休みなさい」

 成信は何か言おうとしていたが、ぐ、と口を噤み。
 深く頭を下げ、長い廊下を足早に去っていった。


 …


 ……


 …………



 "ガクン、"
 膝が、力を失う。
 堪えていた息が切れ、肩が上下する。
 擦り切れる程に、喉が乾く。
 視界が、鼓膜が、脈動し、周囲が、紅い。

 井戸が近い筈。
 笑う膝を鼓舞し立ち上がる。
 外へ繋がる木戸を開け。
 血の様に真っ赤な西陽が樹を刺した。
 灼ける様。肌が。眼が。陽が、間近にて睨み来る。
 震えながら、嘔気を押さえながら、
 ふらふらと、
 井戸へ、
 辿り着いた。

 井戸を覗き、暗い水を覗く。
 身は落ちるを望み、拒む。
 水面に描かれた真っ黒な影を桶で壊す。
 入らぬ力で水を引き上げる。
 水面に反射する西陽が眼を焼いた。
 厭わず、顔を突っ込む。
 飲む。飲む。呑む。足りぬ。癒えぬ。
 頭から被る。又汲む。呑む。被る。吐き戻し、又吞む。被る。
 覚ませ。
 目を覚ませ。
 立て。
 立たねばならぬ。
 私は。
 "私"は、


 視線を感じた。
 ずぶ濡れの顔で、振り向く。

 蒼白の顔で、此方を見詰める、椿の姿があった。


 "ポト…"
 滴る音のみが、響く。


「…… 椿」
「………… 樹……様……」

 溜息に見せかけ、大きく息を吸い込む。
 目を伏せ、念じ、立ち上がる。

「如何したのだ、」
「…… 何を、して……いらっしゃるのです……?」
「嗚呼、……何、顔を洗っておったよ」
「……」

 半歩。
 椿は、歩み寄る。

「……部屋へ、お戻り下さいませ」

 強い語気。
 瞳が樹を真っ直ぐ見遣る。

「お休み下さいませ。
 樹様のご様子、見るに堪えませぬ」
「……大丈夫だ、ほら。水も飲まずに検診しておった故」
「いけませぬ。お戻り下さいませ!」
「椿、」

 ひく、と、椿の身が震えた。
 樹の、何時もの優しい声……少しばかり、荒く。

「きみの気持ちは、痛み入る。……しかし、私はこの通り、立っておるよ」
「……偶には、私の言を聞いてはいただけませぬか……?」
「……」

 暫しの沈黙。
 燃える様な陽が、建物の向こうへ落ちて行き、陰を落とす。

 ……小さく、溜息。
 後、樹の顔に苦笑が灯った。

「……顔を拭いて、幾つか回るところがある。そうしたら、戻ろう」
「……必ずですよ?」
「嗚呼。
 先に、部屋へ戻っていておくれ」
「必ず、ですよ?」
「良いから、」

 笑いながら、樹は椿を見送る。
 椿は何度も振り返った。
 不安気な、今にも泣きそうな目で、何度も。
 角を曲がるまで、何度も。


 其の日、樹が部屋へ戻る事は無かった。



 * * * * * * * * * *



 叁月贰拾捌日。

 戒刻の儀、当日。


 奥院の更に奥、窓無き大広間「禁呪の間」。
 分所総ての陰陽師……否、此度は数人の欠席者、そして外部警備に二十程割かれ、周囲を囲むは八十程。

 点在する蝋燭が揺れる。

 呪陣描かれた中央、其の上に御影石の台座。
 ……依代が、裸で横たわっている。

 入口付近。
 清慈を挟み、駄韋、椿、各家の長が並び立ち。

 ス……と、椿の横に樹が立った。

「…!」

 驚き涙ぐむ椿。
 樹は、只微笑んだ。
 何時もの笑顔で。


 彼等の前に、総次郎が佇んでいる。
 他の者達と同じ、束帯姿。
 目を瞑り、只静かに呼吸を繰り返している。

 皆が、印を組む。
 誰からともなく、呪の詠唱が始まる。
 一人、十人、二十人…… やがて、周囲の者全員の、声。

 詠唱が、同期していく。
 一つのうねりの様に、其れは低く、低く。
 ……床の呪陣が暗く光り……脈打つかの如く、光は流れ。

 詠唱と呪陣が空間を取り巻いた辺り、総次郎の目が開かれる。
 決心の、表情。
 ……身動きせぬ依代の前へ、立った。

「依代よ。
 (これ)なるは汝を我が(しもべ)とする儀……」

 漸く絞り出された、掠れ声。
 ……しかし、はっきりと、

「"我"を、拒むか?」

 問う。
 …… 沈黙。

 総次郎は、ゆっくりと瞬きした。
 拒んで欲しかった……そう、言いたげに。


 詠唱が、変化する。
 地を這う一つの声が、なにがしかの言へ。

 "逝哭凪螺(いくなら)…… 斬羅覇叉(あらはさ)……"

 一度詠唱される度、雲母の欠片に似た"何か"が、ちらり、ちらり……と、依代の身より剥がれ落ちていく。
 肌から、色が抜けていく。
 唇から、血色が、落ちていく。
 水に溶けた薄墨の様に、沈んでいく。
 ……剥がされ逝くは、"名"。


 やせ細り浮き出た鎖骨に、総次郎の指が触れた。
 人とは思えぬ程に、冷たい。
 す、と、下へ降り、左胸へ。

 床の呪陣と同じ文様が、現れる。
 其れに、手を置く。

 "ズル、"
 手が、其の中に、沈んだ。

 陣が、消えた。
 詠唱が、消えた。
 光が、消えた。
 術者と依代だけが、"其処"に、居る。

 触れた塊は、今だ温かい。
 規則正しく拍動し、……形が変わる。
 総次郎の手を迎える様に、ぬる……と、包み込んだ。

 意識が、思い出が、総次郎に流れ込んでくる。
 ……否。見得ない……酷く曖昧な、もやの様な。
 夜半の夢の如き、"深海の青緑"……脳裏に広がっていく、感覚。

 唇を噛み、……総次郎は紡いだ。

「聴け」

 空いていた左手を、依代の頭へ添える。
 "自我削除"の呪。
 胸の奥に秘められていた、彼を形作るものを、削ぐ。

 雲母の欠片が、一枚。
 "迷い"が、削がれる。

 雲母の欠片が、又、一枚。
 "疑問"が、削がれる。

 雲母の欠片が、又、一枚。
 "反抗"が、削がれる。

 雲母の欠片が、又、一枚。
 ……"意思"が、削がれる。

 只一枚のみ、残した。 ……"恐怖"。
 脳裏に流れ込む"色"が……澄んだ青緑へと、変わった。

 右手の中の塊は、総次郎を離そうとせぬまま。
 子供が、大人の手を握る様に。

 ……遠くに、頭痛。
 止める訳に行かぬ。


「…… 叁命剋印(さんめいこくいん)

 手中の拍動が乱れる。
 其の手を掴む"塊"に、力が入る。

「壹命、主命絕對」
「貳命、對象防護」
「叁命、禁未達」

 "ド、ク……"
 脳裏に居座っていた"青緑の何か"が、視界にまで膨張した気がした。

「……………!!!」

 依代の喉が、呼吸を止めた。
 目が見開かれ、身が跳ねた。
 …… "塊"は、総次郎の手より離れ。

 脈動が…… 落ちて、行く。
 ゆっくり、ゆっくり…… やがて、呼気と同じ程に、…… 落ちた。


 視界が、戻る。
 色が、戻る。
 禁呪の間の景色が、戻る。

 静寂。
 詠唱は止まっている。


 目を開けた総次郎の頬に、一筋。
 涙が、伝った。



 * * * * * * * * * *


 陽が沈む頃まで、椿と樹は器の傍を離れる事は無かった。
 ひんやりとした御影石の台座に、椿は縋り泣き続けている。
 其の背をそっと撫で続ける樹。……やがて、現れた総次郎を見、椿に囁く。

「……さあ、そろそろ暮六ツだ。
 我々は、去らねば」
「…… 貴方様は、何故に其れ程に……気丈でいらっしゃるのでしょう……」
「……」

 樹の表情が、曇る。
 唇を結び、其れが少しばかり震える様が見えた。

 今にも泣きそうな。
 刹那だけ、総次郎の目に焼き付く。
 が、ゆっくり瞬きし息を落とした後、樹の表情が、戻った。

「さあ、椿」
「…… 今宵は、貴方様も共に部屋へ」
「嗚呼」

 椿の泣き腫らした顔を、樹はそっと袖で隠す様に抱く。
 すれ違った総次郎に軽く会釈し、二人はゆっくりと禁呪の間を去っていった。

 重い音を立てて、扉が閉まる。
 耳をつんざく静寂と、肌を刺す冷たい空気が、自分と器を包む。

 総次郎は、台座に腰掛けた。
 ……ほんのりとだけ、熱を持っている。

 器は、
 動かない。
 まるで、人では無いかの様に。

 否、
 もう、
 "ヒト"では、ない。


「…… 蘭樹、」

 声を掛ける。
 もう、"其れ"の名では無い事を知っているのに。
 でれでも。

双樹(そうじゅ)おじさんはね、父上が僕位の頃に、式神になったんだって」

 ぽつり。言を、零す。

「父上が、まだ大樹(だいじゅ)って名であった頃だそうだよ。
 双樹おじさん、凄く面白い人であったって。
 皆に言いふらしておったそうだよ……大樹兄の剣になる事が…… 凄く、名誉だって………」

 涙が、御影石を叩く。

「…… 父上は…… 天ノ眼を、従えた頃から…… 変わったのだそうだ……
 今なら、ね…… 分かるんだ、其の意味」

 声が、震えた。
 其れは間に反響し、静かに消えた。

「……おじさんを壊したのは、父上だった。
 僕は……蘭樹、きみを…… この、手で……」

 過ぎる、あの感触。
 温かな体温。
 落ちていく拍動。
 この手を包み込む、子供の手の様な……

 そして、夢の様な、"青緑"の意識。
 何も、なかった、"あった筈の思い出"……

 あの時。
 只ひとつ、只の一瞬だけ過ぎったのは、
 自分の顔であった。


 ――― 蘭樹を、殺したのは、僕だ。


 震える手が、頭を抱えた。
 体が、崩れた。

 とめどなく、涙が溢れ続けた。
 悲鳴にも似た嗚咽を、しかし誰も耳にすることは無かった。