其れは、色無き太夫が闇へと沈んだまま目覚めぬ、其の合間にあった夜の事。
月明かり無き、朔の夜。
延々と続く黒き森の中を、銀色に煌めく一閃が駆け抜ける。
狐だ。
其れも、其の背に大きな青磁の壷を背負い、息を切らしながらも降り積もった雪の地を駆け抜けていく。
すっかり葉を落とした椚の合間をすり抜け、ちらほらと其の木に楓が混じり始めた辺り。
「挨拶も無しに帰路へ着くか、左近」
突如掛けられた声に其の小さな体が飛び上がり、止まる。
其の毛を逆立たせて威嚇しつつ振り向いた先に居た者は……何も居なかった筈の楓に寄り掛かる、黒装束の忍。
「隠密に挨拶等無用……そう儂に教えた者は貴様だ、鴉獄」
「其れは『仕事中』の話だ。……全く、お前は融通が利かぬ」
黒布と鉢金にて顔が隠れているものの、其の顔に呆れの色が浮かんでいる事は手に取る様に分かった。
狐は牙を剥いたまま、其の体だけ向き直り、一歩だけ下がる。
「副頭候補だからと容赦はせぬぞ」
「今はお前を殺める気は無い。聞きたき事がある」
「……今更何を、」
「お前が受けた『任務』の事だ」
「儂が誰に任務等、」
「相変わらず嘘の下手な狐よ。
あの者に蛇蠱を仕向けたのはお前だな」
「フン……何を根拠に」
「そう言うなれば管狐を全て見せて貰おうか?
……一匹、今頃蛇蠱の呪い返しで苦しんでおろう?可哀想に」
「……」
「……蛇蠱を退けたのは貴様か、」
「嗚呼。事情を話した所で手筈を組んで下さったのだ、辰海坊副頭がな。
……俺の考えに同じく、総て御見通しであったぞ」
「……チッ、」
「何故に其処まであの男を狙う?
あいつは陰陽寮にとって何が」
「…… 気付かぬのか?」
「、」
「あの妖太夫は蛇蠱如きでは死なぬ。
儂がたかが人間の長に従えていると思うてか……」
「別の者に従えていると?」
「精々もがけ。儂は教えぬよ……貴様になぞ、な」
「…… 先回りして郁千代に蠱の本を渡し、右近が狐蠱となった事、清慈が死んだ事……総ては任務の隠れ蓑か、」
「…………」
「何時もながら随分大きな隠れ蓑だな……たかが人一人に何かする位で」
「…………違う」
「何がだ、」
「……右近が……清慈なんかに惚れやがった……から」
「……成る程な……」
「左近。貴様の行為は受けた命に対する謀反と見た。
我等伊賀忍・氷雨衆総出、貴様の命を貰い受けに参る事になろう。
御目零しは今宵一度きりだ」
「……」
「そうでなくとも……
この鴉獄、貴様だけは決して許す事は無い。
喩え、兄弟子であろうとな」
「………… 承知の上よ」
「鴉獄、」
「何だ」
「氷雨衆が、そして陰陽寮が何を企んでおるのかは知らぬ。
が……もし任務であの鬼の子を探っておるのならば、あの者には深入りするな。
……今に大火傷するぞ」
「知れた事、」
漆黒の口布の下で不敵な笑みが作られた事に、左近は気付いていた。
其れに対しもう一度舌打ちした時には、既に影の隠密は闇へと溶け消え、只冷たい風がひょうと抜け。
「……相変わらず、手の届かぬ所におる。
だから嫌いなのだ……貴様は」
そう、左近は吐き捨てた。
続
